拝啓。息子より。
水滴が垂れ、頬を撫でる。水滴は自由を求めて下へと滑る。神経は無いようで、有している。くすぐったさは返って気持ち悪いとさえ、感じさせてしまうのだった。
そもそもこの水滴は空から齎されたものではない。名嘉の窮屈な瞳から流れ出たものである。しかし、矛盾。名嘉が思う。いったいいつから泣いていた。
何だ通りでおかしいわけだ。名嘉が「そうか夢か」と自覚する以前に、恐怖心が追い付き、軽々と越していった。
また、この夢。未だ現在、これっぽっちも飽きてはいないかった。
母の表情、いや、顔さえ解らない。それはそうだ。そもそも名嘉には母の顔が分からない。しかし、息遣いが荒いのが聞こえた。死者の眼差しも感じられた。そしてそこにあるのは支配欲でも、食欲でもない、羨望だと理解した。生への嫉妬心だけだと言い聞かせた。そうすることで、辛うじて意識を保ったままでいることができた。
「……母さん」
「お前が」
母はそう発するとおよそ人ではない動きで名嘉に近づいた。危機感が積み上げられ、限界点にまで達する。名嘉は手放しそうになる自我を掴んだままでいようと必死だった。
「お前が死ねば良かったのに」
母の手を振り払って、自らの本能に従い、無我夢中で走った。行く先なんてどうでもいい。いいけど、どうせ逃れることなどできないと冷めた名嘉が側にいる。捕まったら終わりの恐怖の鬼ごっこ。舞台には名嘉と母。カーテンコール。終わってしまう。
洞窟を抜け出し、風の吹き荒れる野原越えた。砂場に足を取られ、息を整える暇すらない。水の音に誘われて、湖の冷たい水で顔を洗う。映るのは恐れで歪んだ名嘉自身の顔だった。
すぐに追いつく。もう後ろにいる。終わらない鬼ごっこ。そういえば、まだ鬼になったことがない。いつでも自分はそれ以外の何者かであった。
「ほらあなたの妹よ」
囁く声は焦燥を煽った。見たくない。産まれもいない、母の子宮で死んでしまった妹なんか。
「やめてくれ」
「嫌」
「ならどうすればいい」
名嘉は訊く。母が抱く妹の悲痛な声が止まった。川の水は鉄の味がした。赤色。あぁ、なんだ。さっきまでは水だったのになぁ。
情けなくなった。所詮は夢にも関わらず、どうしてこう怖いのか。まだ囚われ続けて、これから先も苦しまなければいけないのか。
「死んで。私が代わりに生きる。あなたじゃない子を育てるわ」
「あんたはもう死んだよ」
「そんなことないわ」
ポケットを探れば、固い感触がした。
安産祈願の御守りだった。
『これはあなたが持っていて』
『……何で?』
『何でもいいじゃない』
『いやいや。これ、沙織にやるつもりで持ってきたやつだし』
『これで三つ目じゃない。そんなに私のことが心配?』
突然、息苦しさが消えた。
「俺さ、子供がいるんだ」
「いきなり。何?」
「先月、俺の奥さんが身ごもった。俺の子で、そしてあんたの孫だよ」
―――死に損ない。そうだ名嘉は死に損ないだ。
母は名嘉の代わりに亡くなった。名嘉がまだ十歳のときだった。
名嘉が道路に飛び出した時、トラックからひかれそうになっていた彼を庇ったのが原因だった。
名嘉は歩き、場所を変える。見慣れた公園に着いた。母が死んだ時の光景が広がっている。
名嘉を突き飛ばし、横たわる母。
その顔は見えない。けれど分かる。あの時の母が何を考えていたのかを。
霧が晴れ渡り、月光が名嘉と母を照らす。見える世界は広大だ。暗闇が怖くない。夜がなければいいのにと思うほど怖かったのに。
「あんた誰?」
「私はあなたの母親よ」
確信を持って名嘉は首を横に振る。
「違うね。普通、親って馬鹿なんだ。今まで分かんなかったけど、子供が危険だったらなりふり構わず突っ込む気持ちも今なら分かる。自分が親になって、ようやく理解できた。俺も自分の子が死にそうだったら助けるし」
「何が言いたい」
「良く似てるけど、俺の母さんならもうとっくに天国に行ってる、と思う。少なくとも息子に死ねなんて言わない。本当……誰だよお前。マジ勘弁してくんないかな。面倒だから」
「わからないじゃない」
「……わかるよ。母さんは死んだ」
名嘉の“それ”は自他共に認める取り返しの付かない過去である。
しかし、どんなに謝罪したところで、母の命が返ってくるわけではない。
「オーケー、オーケー。分かった。仮にあんたが母親だとしようか。それなら俺にも頼み事がある」
こんな奴が母親の訳がないと分かりつつも、名嘉は続ける。胸の奥に溜まっていたどす黒い何かかが、吐き出される
「もう一回死んでくんねぇえかな。なぁ、“母さん”?」
――――なんて酷い言葉を使うのかしら。きっとこいつの教育が悪かったのね。可哀想に。あぁ残念。もう少しであなたの心臓まで手が届いていたのに。
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目が覚めると、そこは個室の病棟だった。名嘉が寝ぼけ眼で辺りを見渡すと、沙織と目が合った。
「うなされてたわよ」
「ん…」
「ほらほらシャキッとしなさい。もうパパなんだから」
未だに“母の形をした何か”が残した最後の言葉の意味は理解出来ていない。しかしあの日からもうその夢を見ることはなくなった。沙織は無事出産を終えて、その腕に赤ん坊を抱えている。
沙織は小さく微笑む。
「で、どんな名前にする?」
結局のところ、名前は決まっていなかった。候補は2つあり、どちらにしようかと迷っていたのである。
「よし決めた。●●●だ」
「あなたのお母様のお名前も素敵よ。私は別にそれでも良いのに……本当に良いの?」
「良いの、良いの」
今更悩む問題ではなかった。何故なら母はもう死んだ。
これ以上彼女の足にしがみつくような真似はしない。それが名嘉が考えた罪滅ぼし。
「母さんもそっちの方が喜ぶだろうし」
名嘉は寂しげに笑った。
また、会いましょう。