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『お前は産めない』と言った夫の隠し子たちを、なぜか私が家政婦として世話している

作者: 熾星
掲載日:2026/08/08


 見知らぬアカウントから、突然LINEのオープンチャットに招待された。


 チャット名は「御堂社長のハーレム」。


 「本妻、愛人一号、二号、三号――さて、あなたは何番目?」


 悪趣味ないたずらだと思い、退会しようとした直後、管理人が一本の動画を投稿した。


 映っていたのは、知らない女性と一緒に子どもの誕生日を祝う夫の姿だった。


 次の瞬間、その女性に抱かれていた女の子が夫に飛びつき、嬉しそうに叫んだ。


 「パパ!」


 すぐに夫へ電話をかけたが、出たのは若い女だった。


 彼女はスマートフォンに表示された登録名を見て、嘲るように笑った。


 「晃司、『家政婦』って登録してある人からまた電話。これ、家の掃除係? それとも、人前に出せない奥さん?」



1



 一日の仕事を終え、重い足を引きずりながら、私は都内の外れにある古い木造アパートへ帰った。


 私は民間の産後ケア事業者で、家事・育児支援スタッフとして働いている。産後間もない家庭を訪問し、食事の支度や掃除、ベビー用品の洗濯をし、母親が休んでいる間は赤ちゃんの世話も手伝う。ただし、傷の処置や授乳指導、健康状態の判断といった医療に関わる業務は、提携する助産師や保健師が担当していた。


 今日の利用者である柴崎真由は、特に気難しい人だった。味噌汁が薄い、赤ちゃんの服の畳み方がきれいではないと何度もやり直しを命じられたうえ、生後一か月の男の子は半日近く泣き続けた。ようやく寝かしつけた頃には、予定の退勤時間を二時間も過ぎていた。


 玄関を開けると、六畳一間の部屋は真っ暗だった。


 駅から歩いて十五分、築四十年近い木造アパートの1K。壁は薄く、冬になると窓枠から冷たい風が入り込み、浴室はバスとトイレが一体になった狭いユニットバスだった。それでも家賃は月に六万円を超えている。


 晃司は帰っていなかった。


 一か月前、地方の配送会社から長距離便の仕事を請けたと言っていた。関東と東北を往復し、深夜手当を稼ぐため、十日以上帰ってこないことも珍しくなかった。


 そんな暮らしを始めて、もう五年になる。


 以前の私は、商品の値札を真剣に見たこともなければ、コンビニの弁当に割引シールが貼られる時間も知らなかった。今では野菜の皮や根まで捨てずにスープに使い、スーパーのポイントは月末まで大切に残している。


 好きな人と一緒にいられるなら、質素な暮らしでも幸せになれる。


 あの頃の私は、本気でそう信じていた。


 シャワーを浴び、畳の上に敷いた布団へ横になると、枕元のスマートフォンが光った。晃司からのLINEだった。


 「明日には帰れる。俺に会いたかった?」


 画面を見つめながら、自然と頬が緩んだ。


 「会いたかった。帰りも気をつけてね」


 メッセージを送った直後、見知らぬアカウントからLINEのオープンチャットへ招待された。


 チャット名は「御堂社長のハーレム」。


 低俗ないたずらだと思い、すぐに退会しようとした。ところが、管理人が続けて一本の動画を投稿した。


 画面には、落ち着いた雰囲気のダイニングルームが映っていた。若い女性が三歳ほどの女の子を抱き、その前にはろうそくの立ったバースデーケーキが置かれている。男女が一緒に誕生日の歌を歌い終えると、女の子は頬を膨らませてろうそくを吹き消し、撮影者へ手を伸ばした。


 「パパ、ケーキ切って!」


 カメラが反転し、撮影していた男の顔が映った。


 夫の御堂晃司だった。


 目元も、口元にある小さなほくろも、笑うと左目だけがわずかに細くなる癖も、見間違えるはずがなかった。


 何度見直しても、映像は変わらない。


 その間にも、オープンチャットのメッセージが次々と流れていった。白い薔薇をアイコンにしている女性が、最初に書き込んだ。


 「新しく入ってきた人って、本妻?」


 管理人の水野莉奈がすぐに返信した。


 「たぶんね。でも晃司さんの中では大した存在じゃないから、気にしなくていいよ」


 白い薔薇のアイコンが、笑い転げるスタンプを連続で投稿した。


 「他人の家を掃除したり、赤ちゃんの世話をしたりしてる家事代行でしょ? そんな女まで社長のハーレムに数える必要ある?」


 今度は指輪のアイコンを使う女性が、写真を投稿した。


 生後一か月ほどの男の子を抱いているのは、今日一日、私が世話をした柴崎真由だった。


 「莉奈の娘は三歳で、うちの子はまだ一か月。子どもの年齢で順番を決めるなら、私のほうが後よね?」


 白い薔薇がすぐに返した。


 「分かった。二人とも子どもがいるんだから、私より上でいいよ」


 続いて、私のアカウントがメンションされた。


 「表示名が『あや』ってことは、まさか七人目? 社長、仕事が早すぎない? 六人目は誰なのよ」


 莉奈が肩をすくめるスタンプを送った。


 「まだ公表していない子がいるのかも。来月は晃司さんの三十歳の誕生日だから、盛大にお祝いする予定なの。みんなも余興を考えておいて。誰が一番、晃司さんを喜ばせられるか勝負ね」


 「了解」


 「絶対に負けないから」


 「ドレス、もう決めた?」


 画面を埋め尽くすメッセージを見つめているうちに、指先から感覚が消えていった。


 晃司が言っていた長距離配送とは、女たちに会うための口実だった。私が一円でも安い食材を探している間、彼は別の家で、他人の子どもから「パパ」と呼ばれていたのだ。


 私は動画と会話履歴を保存し、参加者一覧もすべてスクリーンショットに残した。


 そのまま晃司へ電話をかけたが、何度呼び出しても通話中だった。オープンチャットでは、私に何ができるのか、何を使って晃司を誘惑したのかと、嘲るような質問が続いている。


 私は退会しなかった。


 証拠は、今も増え続けていた。


 帰ってきたら、本人の口から説明してもらう。


 この五年間が、いったい何だったのかを。



2



 翌日の夕方、玄関で鍵の回る音がした。


 晃司は簡素な包装の薔薇を抱え、色あせた配送会社の作業着を着て帰ってきた。長距離便から戻ったときにいつも見せていた、疲れていながらも穏やかな笑顔を浮かべている。


 「ただいま。閉店前で安くなってたから、花を買ってきた。いつも無駄遣いするなって言うけど、これなら文句ないだろ?」


 財布から数枚の紙幣を取り出し、ローテーブルの上へ置いた。


 「道中の出費を引いて八万円残った。節約すれば、一か月分の食費にはなる」


 テーブルには夕食が並んでいなかった。晃司は狭いキッチンをのぞき込み、不機嫌そうに眉を寄せた。


 「飯は? 一日中運転して、腹が減ってるんだけど」


 私はテーブルの前に座ったまま、動かなかった。


 「御堂社長には何人も女がいるんでしょう? 夕食を用意してくれる家くらい、ほかにもあるんじゃない?」


 笑顔が消えた。


 「綾、何の話だ?」


 「今日は一日、あなたの息子だという赤ちゃんの世話をしてきた」


 一瞬だけ瞳が揺れたが、すぐに私の額へ手を伸ばした。


 「働きすぎて疲れてるんじゃないか? しばらく休めよ。俺が夜間の便を増やせば、どうにか養える」


 彼の指が荒れた私の手のひらに触れ、何事もなかったように離れていく。


 「座ってろ。うどんでも作るから」


 私はスマートフォンを開き、「御堂社長のハーレム」を晃司の目の前に差し出した。


 「莉奈さんの娘はあなたをパパと呼んでいた。真由さんの赤ちゃんも、みんなあなたの息子だと言っている。いつまで嘘をつくつもり?」


 晃司は誕生日の動画を見て、数ページ分の会話をゆっくりと読み進めた。


 慌てることも、言い訳をすることもなかった。むしろ、呆れたように小さく笑った。


 「莉奈は本当に悪ふざけが好きだな。まあ、ここまで知られたなら、もう隠す必要もないか」


 配送会社の上着を脱ぎ、畳の上へ放り投げた。


 数分前まで、数千円の出費を気にして肩をすぼめていたトラック運転手は、跡形もなく消えていた。ローテーブルの前に腰を下ろした男は、広い社長室にいるかのように堂々としている。


 「配送の仕事は、全部嘘だったの?」


 「物流子会社へ顔を出すことはあるし、制服も本物だ。長距離便だと言っていた日は、出張か接待か、女や子どもに会いに行っていた」


 五年間、彼は安い作業着に着替えてこの部屋へ帰り、会社から用意された現金を、必死に運転して稼いだ給料だと偽っていた。


 私は一度も疑わなかった。


 「御堂家とは縁を切ったって言っていたでしょう?」


 「あれは、お前に見せるための芝居だ。御堂物産の跡継ぎは俺しかいない。会社も財産も、本当に手放すわけがないだろ」


 袖口を整えながら、狭い部屋を見回した。


 「この部屋に住んで、貧しい生活につき合ったのも、お前に俺がすべてを捨てたと思わせるためだ」


 「どうして、そこまでして私をだましたの?」


 「お前が妙にプライドの高い女だからだよ。俺が御堂家の跡継ぎのままだと知ったら、施しを受けているようで嫌だと言い出すだろ。だから自尊心を傷つけないように、五年間も庶民の暮らしにつき合ってやった」


 あまりに身勝手な理屈に、笑いそうになった。


 「それなら、感謝しろとでも言うの? 愛人が産んだ子どもの世話までさせてくれて、ありがとうって?」


 晃司は否定しなかった。


 「お前は子どもを産めないんだから、産後ケアの仕事はちょうどいいだろ。赤ん坊と接することもできる。真由は少し気難しいけど、子どもに罪はない」


 「誰が、あなたと愛人の子どもを育てたいと言ったの?」


 「綾、現実を見ろよ。俺には跡継ぎが必要なんだ。御堂家を俺の代で絶やすわけにはいかない」


 彼は、理解の遅い子どもへ言い聞かせるような口調を崩さなかった。


 「戸籍上の妻はお前だけだ。ほかの女や子どもに、正妻の座を奪わせるつもりはない。子どもたちにも、お前を御堂家の正式な妻として敬わせる。結婚するとき、一生面倒を見ると言っただろ。あの約束は今も有効だ」


 目の前にいるのは、少女の頃からずっと好きだった人だった。


 彼の言葉を一つ残らず大切に抱えて生きてきた。けれど今になって思えば、あの優しい約束は、私を囲い込むための鎖だった。


 「明日、離婚の手続きを始める。もうあなたの妻ではいられない」


 晃司は、耳を疑うように眉を上げた。


 「離婚? 俺から離れて、どうやって生きていくつもりだ。これからも他人の家を掃除して、冬には隙間風が入る木造アパートに住むのか?」


 「私が決めることよ」


 「今の神崎家を何も知らないくせに。直哉さんはすでに取締役だ。いずれグループ全体を継ぐ。立派な跡継ぎがいるのに、男を選んで家を出た娘を、今さら誰が必要とする?」


 黙っていると、私が迷い始めたと思ったらしい。


 晃司の口元に、余裕の笑みが戻った。


 「上の世界にいる男なら、外に一人や二人いるのは珍しくない。銀座で何人もの女を囲っている上場企業の会長だっている。俺はまだ数人しかいないのに、それだけで離婚だなんて大げさすぎる」


 玄関の棚から車の鍵を取り、立ち上がった。


 「来月の誕生日会は、お前が妻として仕切れ。少し頭を冷やせば、御堂家を捨てることがどれだけ愚かなのか分かる」


 扉が閉まると、古い壁まで小さく揺れた。


 私はベランダのそばに座り、遠くに並ぶ街の明かりを見つめた。かつては、この小さな部屋に夫婦の未来が詰まっていると思っていた。今は、五年かけて作られた舞台装置にしか見えない。


 五年前、私は神崎家で唯一の娘だった。


 神崎ホールディングスと御堂物産は複数の事業で競合しており、私たちの交際は両家から反対された。父は最終的に結婚を認めたものの、私は一時的に家業から離れ、神崎家の力を御堂家のために使わないと約束した。


 激しい口論の末、私は父に言い放った。


 普通の暮らしになっても、絶対に後悔しない。


 結婚後、晃司に勧められるまま電話番号もメールアドレスも変え、実家からの連絡を拒んだ。彼は両家の窓口を自分だけに絞り、「綾は海外で勉強している」「家族とは話したくないと言っている」と嘘を重ねていた。


 父も兄も何度か疑ったらしい。


 けれど、私が家を出るときに口にした言葉を思い出し、無理に連れ戻すことができなかったのだ。


 晃司は先ほど、私には子どもを産めないと言い切った。


 だが、あの検査の日、医師から一人で説明を受けたのは私だった。無精子症と診断されたのは、私ではない。


 彼が傷つくことを恐れ、双方の家族には自分に原因があると伝えた。


 私が守ったのは、守る価値などない男だった。



3



 夜が明けても、私はベランダのそばに座ったままだった。


 何日も続いた疲労と一睡もできなかった反動で、昼過ぎには悪寒が始まり、夜には体温が三十九度を超えた。壁に手をつきながら布団まで戻り、晃司へ電話をかけた。


 出たのは若い女だった。


 「ねえ晃司、スマホに『家政婦』って登録してある人から電話。家の掃除をしてくれるおばさん?」


 白い薔薇のアイコンを使っていた白石美月。


 晃司の秘書だった。


 「晃司に代わって」


 喉が焼けるように痛み、声を出すだけで息が切れた。


 少しの沈黙のあと、押し殺したような声が聞こえた。


 「綾?」


 「熱があるの。三十九度を超えてる」


 「分かった。すぐ戻るから待ってろ」


 通話が切れたあと、スマートフォンを枕元へ置き、彼が帰るのを待った。


 けれど、深夜を過ぎても、朝になっても、玄関の鍵が回ることはなかった。


 次に目を覚ましたとき、窓の外はすでに暗くなっていた。


 オープンチャットには数十件の未読メッセージがたまり、美月が一枚の写真を投稿していた。晃司はホテルのベッドに横たわり、目元には黒いリボンが巻かれている。露出の多いナイトウェアを着た美月が肩に寄りかかり、頬へ口づけていた。


 「今夜は私のところにお泊まり。家政婦が熱を出したくらいで電話してきたけど、晃司にそんな暇があるわけないでしょ」


 莉奈がすぐに反応した。


 「今日は美月の番なんだ?」


 「もちろん。ちゃんと特別なものも用意してあるから」


 真由は呆れた顔のスタンプを送った。


 「こっちは赤ちゃんがいるから、そこまで派手に遊べないのよね。今日は譲ってあげる」


 私はもう一度、晃司へ電話をかけた。


 今度はすぐにつながったが、彼はスピーカーを切っていなかった。荒い息遣いとベッドの軋む音が、受話口からはっきりと聞こえてくる。


 「まだ病院に行ってないのか?」


 「すぐ戻るって言ったでしょう」


 「急に仕事が入って、動けない。ひどいなら自分で119番しろ。それかタクシーで行け。金は……あとで払うから」


 女がスマートフォンを奪ったらしく、通話はそこで切れた。


 私は二度と電話をかけなかった。


 救急隊が到着した頃には、ほとんど意識がなかった。近くの総合病院へ搬送され、肺炎と重度の脱水症状で、すぐに入院が必要だと診断された。


 入院二日目、病棟の看護師から、連絡できる家族はいないのかと尋ねられた。


 私は連絡先の一覧を開き、五年間、一度も押せなかった番号を見つめた。しばらく迷ってから発信すると、呼び出し音が一度鳴っただけで通話がつながった。


 「綾?」


 兄の声は、五年前とほとんど変わっていなかった。


 「お兄ちゃん……私、病院にいるの」


 短い沈黙が落ちた。


 「どこの病院だ?」


 どうして五年間も連絡しなかったのかとは聞かれなかった。


 私の選択を責める言葉もなかった。一時間後、病室の入口に兄が現れ、その後ろには母と、神崎家が長年依頼している弁護士が立っていた。


 母は痩せた私の顔を見るなり、入口で足を止めた。


 私はこの五年間に起きたことと、保存していた会話履歴をすべて弁護士へ渡した。誰も無理に実家へ帰れとは言わず、兄は名刺をベッド脇へ置いた。


 「どうするかは、綾が決めればいい。俺たちは、その決定を支える」


 私は弁護士を通じて、家庭裁判所へ夫婦関係調整調停、いわゆる離婚調停を申し立てた。


 同時に、長年の不貞行為、夫婦間の扶助義務を果たさなかった事実、婚姻関係が完全に破綻していることを示す資料を保存した。晃司が隠していた収入や資産については、財産分与に備えて別途調査を進めることになった。


 弁護士は、オープンチャットにいた女たちにも連絡を取った。


 御堂家に正式に迎えられるつもりだった莉奈と真由は、それぞれ実父との親子関係を確認するため、すでに個人的にDNA型親子鑑定を行っていた。自分たちだけに責任を押しつけられることを恐れた二人は、鑑定結果の写しを弁護士へ提出した。


 退院の日になっても、晃司は姿を見せなかった。


 創立記念レセプションの前日になって、ようやくアパートへ現れ、高級ドレスサロンのカードをテーブルへ投げた。玄関から中へ入ろうともせず、上から命じるように口を開いた。


 「明日は自分でドレスを選べ。銀行や取引先、業界紙の記者も来る。夫婦喧嘩をするのは勝手だが、御堂家に恥をかかせるな」


 私はカードを拾った。


 「時間どおりに行く」


 晃司は満足そうにうなずいた。


 私が彼のために、三つの誕生日プレゼントを用意しているとも知らずに。



4



 御堂物産は創立記念レセプションと新規事業発表会を、晃司の三十歳を祝う会と同じ日に開催した。


 会場は、御堂物産が運営に関わる都内の高級ホテルだった。華やかな照明の下にシャンパンタワーが置かれ、主要取引先や銀行関係者、経済誌や業界紙の記者が招待されている。


 会場の扉を開けると、にぎやかだった人々が一斉にこちらを見た。


 私はドレスを着ていなかった。


 身につけているのは、以前働いていた清掃会社の紺色の作業着だった。胸には当時の名札をつけ、足元も長時間の立ち仕事に使っていた滑りにくい靴のままだ。


 晃司が険しい顔で近づいてきた。


 「わざと、その格好で来たのか?」


 「あなたが最初に紹介してくれた仕事の制服よ」


 五年前、貯金がないから働いてほしいと言われ、晃司の知人が経営する清掃会社へ登録した。


 後になって、その会社が清掃を請け負っていたビルは、御堂物産の取引先が所有する建物だと知った。彼は会議室の中から、私が廊下に膝をついて床を磨く姿を見ていたのかもしれない。


 体の線が強調されるマーメイドドレスを着た美月が、シャンパンを手に近づいてきた。


 口元を隠しながら、作業着から靴まで値踏みするように見下ろす。


 「あなたが、あのオープンチャットの家政婦だったんだ。晃司、こんな人をステージに上げるつもり?」


 晃司は冷たい目を向けた。


 「予備のドレスを用意しろ」


 美月は不満そうに唇を尖らせ、その場を離れた。


 晃司は私を会場脇の控室へ連れていき、作り物の優しい声を出した。


 「綾、今日は御堂物産にとって大事な日だ。離婚の話がしたいなら、帰ってからいくらでも聞く。今だけは協力してくれ」


 「何をすればいいの?」


 「あとで俺と一緒にステージへ上がれ。外に何人女がいても、公の場で御堂の妻として立つのはお前だけだ」


 私は短くうなずいた。


 「分かった」


 余興と新規事業の説明が終わると、晃司がステージへ上がった。


 スポットライトの中に立つ姿は自信に満ち、古い作業着でアパートへ帰ってきた男とは別人のようだった。


 「本日は、御堂物産の創立記念レセプションならびに新規事業発表会へお越しいただき、誠にありがとうございます。日頃から弊社を支えてくださる皆様へ、心より御礼申し上げます」


 一度言葉を切り、誇らしげに会場を見渡した。


 「皆様の中には、名前だけは聞いていても、私の妻を実際に見たことがない方も多いでしょう。妻は神崎ホールディングス会長の娘です。本日は、皆様へ正式にご紹介したいと思います」


 会場のあちこちから、ざわめきが上がった。


 神崎家の娘が御堂家の跡継ぎを選び、家族に背いて家を出た話は、当時の財界で広く知られていた。その後、公の場に一度も姿を見せなかったため、海外で経営を学んでいるという噂まで流れていた。


 御堂物産は、その噂を否定しなかった。


 両家の姻戚関係が今も強固だと暗に示し、仮に御堂物産が資金面で困難に陥っても、神崎家が支援すると思わせていたのだ。


 私はステージへ上がった。


 晃司は作業着のままの私を見て、マイクを取り上げようとした。けれど、私のほうが先に手に取った。


 「確かに私は、現在も戸籍上は御堂晃司の妻です」


 会場が静かになる。


 「ですが、海外で経営を学んだことも、御堂物産の事業に関わったこともありません。この五年間、私は古い賃貸アパートで暮らし、オフィスビルの清掃員として働き、現在は産後ケアの家事・育児支援スタッフをしています」


 銀行関係者たちの表情が変わった。


 「御堂社長は私の出身を利用し、神崎家から正式な支援を受けているかのような印象を与えてきました。私も神崎家も、そのような事実は一切認識していません」


 晃司が私の腕をつかんだ。


 「何を勝手なことを言ってるんだ!」


 その手を振り払い、弁護士から受け取った書類を展示台へ置いた。


 「すでに家庭裁判所へ離婚調停を申し立てています。不貞行為と、夫婦としての扶助義務を放棄した事実に関する証拠も、弁護士へ提出済みです。隠されていた収入と資産については、財産分与に向けて調査を進めています」


 スクリーンに、家庭裁判所の受付印が押された申立書の控えと、弁護士名義で晃司へ送付した内容証明郵便の写しが映し出された。住所などの個人情報は、すべて隠してある。


 私は顔色を失っていく晃司を見た。


 「これが、一つ目の誕生日プレゼントよ」


 晃司はマイクを奪った。


 「調停を申し立てただけで、離婚できると思うなよ。俺が同意しなければ、お前はいつまでも御堂の妻だ!」


 「調停が成立しなければ、離婚訴訟を起こす」


 彼は会場へ向き直り、無理やり笑顔を作った。


 「妻は最近、働きすぎで情緒が不安定なんです。夫婦の間で少し行き違いがあっただけですので、どうかお気になさらず」


 そのとき、会場の扉が開いた。


 父、母、兄が入ってくる。


 後ろには神崎ホールディングスの法務担当役員と、外部弁護士も同行していた。


 母と兄は病院で会っていたが、父の姿を見るのは五年ぶりだった。


 以前よりも白髪の増えた父は、私の清掃員の制服を見たまま、しばらく動かなかった。その横で、兄の表情がみるみる険しくなっていく。


 兄はステージの前まで来ると、晃司の襟元をつかんだ。


 「綾に、こんな暮らしをさせていたのか?」


 次の瞬間、平手が晃司の頬を打った。


 神崎家の弁護士がすぐに兄を止める。


 「直哉さん、そこまでにしてください」


 晃司の目に一瞬、憎しみが浮かんだ。


 けれど、すぐに愛想のよい笑顔を貼りつけ、父たちへ近づこうとした。


 「お義父さん、お義母さん、お兄さん。今日は来てくださって、本当にありがとうございます」


 兄が差し出された手を払いのけた。


 「そう呼ぶな。お前と俺たちは、もう家族ではない」


 「綾と少し喧嘩をしただけです。夫婦のことですから、家へ帰ればすぐに仲直りできます。綾、そうだろ? ただの冗談だって説明してくれ」


 私は答えなかった。


 父がマイクを受け取る。


 大声ではなかったが、その場にいる誰もが息を潜めた。


 「神崎ホールディングスは、御堂物産に対し、神崎家の名称を融資、営業活動、信用補完に利用する権限を与えたことは一度もありません」


 兄がスタッフへ合図を送り、スクリーンを切り替えさせた。


 「本日をもって、御堂物産との新規案件に関する協議を停止します。既存の取引についても、コンプライアンスおよび信用上の再審査を開始します。神崎家との関係を誤認させる広報資料は、すべて撤回を求めます」


 招待客たちはその場で御堂物産との関係を断つとは言わなかった。


 しかし、銀行担当者や取引先の法務担当者は一斉にスマートフォンを取り出し、自社へ連絡を始めた。


 晃司の顔色が青ざめていく。


 それでも彼は、まだ自分が正しいと信じていた。


 「御堂物産と神崎家の取引が続いていたのは、俺が綾を守ってきたからです。綾は五年前、何も持たずに家を出た。俺が面倒を見なければ、生きていくこともできなかった」


 会場のどこかから、冷たい声が上がった。


 「御堂社長は、神崎さんが海外で勉強していると言っていましたよね」


 別の人物も続いた。


 「妻を古いアパートに住まわせながら、神崎家の信用だけを利用していたということですか。融資審査も最初からやり直す必要がありますね」


 晃司は唇を引きつらせながらも、強気な態度を崩さなかった。


 「何があっても、綾が一番愛しているのは俺です。家族を捨ててまで俺を選んだ女ですよ。今は感情的になっているだけです」


 会場が再び静まり返った。


 多くの人が、私の答えを待っている。


 私はスタッフへ、二つ目の資料を映すよう指示した。


 スクリーンに私的な性行為の映像は流さなかった。


 最初に映ったのは、莉奈の娘の誕生日動画だった。続いて、女たち自身がオープンチャットへ投稿したホテルやレストランでの写真、晃司に家賃や車の代金を支払ってもらったと自慢する送金画面のスクリーンショットが表示される。


 夫婦の共有口座に紐づいたカードの利用明細もあった。


 最後に流れたのは、あのアパートで晃司自身が、女たちと子どもの存在を認めた録音だった。


 「私的な映像については、公の場で流しません。原本は弁護士が証拠として保全しています」


 私は会場にいる莉奈、美月、真由へ目を向けた。


 「婚姻関係が破綻する前から、既婚者だと知りながら不貞関係を続けていた方には、順次、不貞慰謝料を請求します」


 晃司へ視線を戻した。


 「これが、二つ目のプレゼント」


 会場が大きくざわめいた。


 晃司は莉奈へ向かって怒鳴った。


 「オープンチャットを消せ!」


 莉奈は娘を抱きしめたまま、動かなかった。


 「誕生日会が終わったら、私とこの子を正式に御堂家へ迎えるって言ったじゃない!」


 「黙れ!」


 晃司はスクリーンの前に立ち、こめかみに青筋を浮かべた。


 「こんな資料は違法に集めたものだ! 全員訴えてやる!」


 神崎家の弁護士がステージへ上がった。


 「オープンチャットの記録は、参加者が自ら保存したものです。写真や送金画面も、投稿者本人が公開したものです。共有口座の利用明細と、依頼者自身が参加した会話の録音についても、取得経緯は確認済みです」


 眼鏡を押し上げ、淡々と続けた。


 「個々の証拠が裁判で採用されるかどうかは、裁判所が判断します」


 晃司の余裕は、完全に消えていた。



5



 晃司は私をにらみつけ、突然、嘲るような笑みを浮かべた。


 マイクを握り直し、会場中へ聞こえる声で叫ぶ。


 「神崎家の娘だから何だ! こいつは子どもを産めないんだぞ!」


 兄が前へ出ようとしたが、私は手で止めた。


 晃司はさらに声を張り上げた。


 「跡継ぎを産めない女が、俺のすることに口を出す資格なんかあるのか? 俺は五年間も我慢した! こいつが子どもを産めないから、俺は外で母親になれる女を探したんだ!」


 私は静かに彼を見返した。


 「子どもをつくれないのが、私だと本当に思っているの?」


 笑みが凍りついた。


 私は弁護士から、当時の検査結果の写しを受け取った。診断内容の詳細をスクリーンへ映すことはせず、封筒に入った資料を晃司の前へ置いた。


 「三年前、私たちは一緒に生殖医療専門のクリニックで検査を受けた。無精子症と診断されたのは、あなたよ」


 晃司の顔から血の気が引いていく。


 「あなたが受け入れられないと思ったから、家族には私に原因があると伝えた。あのときは、それがあなたを守ることだと信じていた」


 莉奈は娘を抱き、人混みの後ろで青ざめていた。


 その隣には、晃司と長年つき合いのある大沢圭介が立っている。


 私は莉奈を見た。


 「莉奈さん。あなたの娘の父親が誰なのか、ここで説明してもらえますか」


 莉奈はうつむき、隣の圭介を見上げた。


 「ごめんなさい、晃司。あの子の父親は、あなたじゃない」


 圭介が莉奈と娘の前へ立った。


 「俺の子だ」


 晃司が飛びかかろうとしたが、ホテルの警備員に両腕をつかまれた。


 「お前は俺の友達だろ! よくもこんなことができたな!」


 圭介は乾いた笑いを漏らした。


 「綾さんとは二十年来の知り合いで、十五年も交際していたんだろ。それでも平気で何人もの女を囲った。俺たちは仕事で酒を飲む程度の関係だ。今さら友情を持ち出すなよ」


 晃司は真由を探した。


 生後一か月の赤ちゃんを抱いた真由は、一歩後ろへ下がった。そのそばにいるのは、晃司の秘書室で働く田辺直人だった。


 直人は目をそらさなかった。


 「真由の子も、あなたの子ではありません。妊娠した時期が合うというだけで、親子鑑定もせずに自分の息子だと思い込んだんです」


 晃司の体が大きく揺れた。


 私は、莉奈と真由が弁護士へ提出したDNA型親子鑑定書の写しを展示台へ置いた。


 「二人とも、実父との親子関係を確認するため、以前から鑑定をしていた。御堂家へ入るために、結果をあなたへ隠していたの」


 晃司の目の前へ三つ目の封筒を差し出す。


 「当時、私があなたの不妊を隠したのは、愛していたから。けれど、あなたが大勢の前で私を傷つける材料にするなら、もう真実まで隠す必要はない」


 「これが、三つ目の誕生日プレゼントよ」


 晃司は鑑定結果を見つめ、指を震わせていた。


 自分を中心に、何人もの女が跡継ぎを産もうと競い合うハーレムを築いたつもりだったのだろう。けれど実際には、彼自身が全員から利用され、だまされていた。


 「お前ら……全員、俺をだましていたのか」


 充血した目で、女たちを順番ににらみつける。


 「俺の金で暮らして、俺が買った部屋に住んで、他人の子どもを俺に育てさせたのか!」


 宴会スタッフが、料理台からナイフや食器を片づけ始めていた。


 その隙に晃司は警備員の腕を振り払い、ワゴンに残されていたケーキナイフをつかんだ。


 刃先をこちらへ向け、突進してくる。


 「綾!」


 母の悲鳴が響いた。


 振り返ることしかできなかった。


 横から背の高い男が飛び込み、晃司の手首をつかんだ。そのまま腕をひねり上げ、床へ押さえつける。


 ナイフが絨毯の上に落ち、鈍い音を立てた。


 男はナイフを拾い、駆けつけた警備員へ渡した。晃司は床へ押さえつけられたまま、顔を真っ白にして動けない。


 男は冷ややかに見下ろした。


 「無防備な女性を背後から刺そうとする勇気はあるのに、刃先が自分へ向いただけで動けなくなるんですね」


 晃司から手を離し、立ち上がる。


 「警察には、もう連絡してあります」


 榊原グループの代表取締役社長、榊原蓮司だった。


 以前、父は一度だけ、彼と私を引き合わせようとしたことがある。しかし当時の私は晃司しか見えておらず、正式に会う前に断っていた。


 やがて、遠くからサイレンが聞こえてきた。


 晃司は暴行と銃刀法違反などの疑いで警察へ連行された。御堂物産についても、神崎家の名称を利用した営業活動と会社資金の私的流用をめぐり、社内調査が始まった。


 あの日のレセプションは、その後も長く財界で語られた。


 御堂社長にとって最も盛大な誕生日であり、人生で最も高くついた誕生日だったと。



6



 五年ぶりに、神崎家へ戻った。


 自分の部屋は、ほとんど変わっていなかった。母によれば、毎週掃除をさせ、季節ごとにシーツやカーテンも替えていたという。まるで私が少し長い旅行へ出ただけで、いつでも戻ってくると思っていたかのようだった。


 私は長い時間、眠り続けた。


 目を覚ますと、窓の外には明るい日差しが広がり、半分開いた窓から庭の花の香りが流れ込んでいた。


 母はベッドの横に座り、蜜柑をむいていた。


 私は差し出された実を受け取り、無意識に皮をテーブルの端へよけた。


 「乾かしてお湯に入れると、いい香りがするの」


 母の手が止まった。


 残した皮を見つめ、目を赤くする。


 「綾……この五年間、どんな暮らしをしていたの?」


 私は母を抱きしめた。


 「遠回りはしたけど、今まで知らなかったことをたくさん学べた。これから何があっても、自分で生きていけると思う」


 母は私の肩に顔を寄せ、それ以上何も尋ねなかった。


 階下から父と兄の声が聞こえる。蓮司が、あの日の事件について説明しているようだった。


 しばらくすると、彼が部屋の入口に立ち、控えめに二度ノックした。


 「御堂家の方たちが来ています」


 「何の用?」


 「離婚と慰謝料の請求を取り下げてほしいそうです。神崎側の調査も止めてほしいと」


 「会わない。どちらも取り下げるつもりはないわ」


 蓮司は静かにうなずいた。


 階下の警備員が、すぐに御堂家の人間を屋敷の外へ案内した。


 以前の晃司は、長距離便を口実に、一か月も二か月も帰ってこなかった。


 私は病気になっても、スマートフォンを握りしめて彼からの連絡を待っていた。けれど今では、彼のほうが、望めば私に会える立場ではない。


 午後、私は蓮司と庭へ出た。


 初夏の日差しが木々の間から落ち、柔らかな風が花を揺らしている。


 「レセプションでは助けてくれて、ありがとうございました。神崎家としても正式にお礼をしたいと思っています。仕事に関する希望があれば、兄に伝えてください」


 蓮司は足を止めた。


 「恩を売って、何か要求する人間だと思われているんですか?」


 「借りを曖昧にしておきたくないだけです」


 彼は咲き終わりかけた花を一輪摘み、指先でゆっくり回した。


 「それなら、一つだけ聞かせてください。七年前、あなたに渡した手紙は、どうして破かれた状態で封筒へ戻されたんですか?」


 「手紙?」


 「封筒の裏には、蛙の絵まで描いてありました」


 何のことか分からなかった。


 「蛙?」


 蓮司の耳が少しずつ赤くなっていく。


 けれど表情は真剣だった。


 「身の程知らずだと言いたかったんですか? 蛙が白鳥を望んでいる、と」


 私はしばらく言葉を失った。


 「そんな手紙、受け取っていません。蛙の絵も描いていないです」


 父と兄から一度会ってみてほしいと言われたことはあった。


 しかし、当時は晃司以外の男性に会うつもりがなく、約束の場へ行くことさえ断っていた。


 「気持ちを受け入れるかどうかに関係なく、手紙を破いたり、相手を傷つけるような絵を描いたりはしません」


 蓮司の指が止まった。


 「そんなはずは……」


 何かを思い出したように、顔を上げる。


 「あの手紙は、晃司に預けたんです。あなたの家へ行くところだから、ついでに渡すと言われて」


 当時、蓮司は晃司が私と秘密裏に交際していることを知らなかった。


 両家の間に交流があることは知っていたため、何も疑わず手紙を託したのだという。


 「海外へ出発する直前で、急いでいたとはいえ……俺は七年間、あなたが描いたと思い込んだ蛙を恨んでいたんですね」


 自嘲するように笑った。


 晃司は、蓮司が私に好意を寄せていることに気づいていたのだろう。


 手紙を破り、侮辱的な返事を作り、私たちが会う可能性を最初から断ち切った。


 蓮司は今度こそ形の整った花を一輪摘み、私へ差し出した。


 「誤解だったのなら、今からでも可能性はありますか?」


 私は受け取らなかった。


 「ごめんなさい。今は、誰かと新しい関係を始めることを考えられません」


 結婚によって失ったものは、五年間という時間だけではなかった。


 もう一度自分自身を知り、これからどんな人生を送りたいのか、考える時間が必要だった。


 「分かりました」


 蓮司はそれ以上、答えを急かさなかった。


 それからも、彼は私と適切な距離を保ち続けた。


 一か月後、彼が企画に関わった写真展へ誘われ、友人として見に行くことにした。神崎家へ戻ってから初めて、一人で車を運転し、屋敷の門を出た。



7



 車が正門を出た直後、一人の男が道路脇から飛び出してきた。


 慌ててブレーキを踏み、車からは降りなかった。


 ボンネットの前に膝をついた男が顔を上げる。


 晃司だと気づくまで、数秒かかった。


 わずか一か月で頬はこけ、スーツはしわだらけになっていた。あごには無精ひげが伸び、あの日のステージに立っていた自信に満ちた社長の面影は、ほとんど残っていない。


 晃司は膝をついたまま車の横へ回り、窓を強く叩いた。


 「綾、俺が悪かった。だましたことも、ハーレムなんか作ったことも後悔してる。もう一度やり直そう」


 窓を全開にはせず、声が届く程度に少しだけ下げた。


 「そこをどいて」


 「俺にはもう何もないんだ」


 御堂物産は銀行から信用評価を見直され、複数の主要取引先が契約を停止した。


 会社資金で愛人たちの家賃や車、個人的な支出を払っていたことも発覚し、晃司は取締役会で代表取締役社長を解職された。御堂家は臨時株主総会を開き、取締役からも解任する手続きを進めているという。


 「今度は本当に嘘じゃない。物流会社へ入って、本物のトラック運転手として働く。前の五年間みたいに、二人で暮らそう」


 「その五年間は、全部嘘の上に成り立っていた」


 晃司はドアハンドルをつかんだ。


 「お前はずっと俺が好きだっただろ。そんな簡単に嫌いになれるわけがない」


 「あなたに一人で119番しろと言われた日に、あなたを待っていた私はいなくなったの」


 手を離そうとしない。


 目には、以前とは違う危うい光が宿っていた。


 「榊原が好きなのか? だったら、ほかの男とつき合ってもいい。何人でも好きにすればいいし、そいつらの子どもを産んでも構わない。戸籍上の夫が俺なら、それでいい」


 私は彼を見つめた。


 どうして、この男を何年も愛していたのだろう。


 「私は誰かを愛したら、その人だけを大切にしたい。今は、妻と愛人に順位をつける時代ではないし、お互いに傷つけ合うことを認めるような結婚も必要ない」


 財布から千円札を取り出し、窓の隙間から外へ落とした。


 「電車で帰って。二度と来ないで」


 紙幣は晃司の足元に落ちた。


 彼はゆっくりとドアハンドルから手を離した。


 私は最後まで車から降りなかった。


 この件を知った蓮司は、神崎家の警備をすぐに強化した。


 数日後、警察から連絡が入った。


 晃司は、私が置いていった千円で安い酒を買い、酔った状態で圭介の自宅へ向かった。その後も直人、莉奈、美月、真由を次々と捜し、自分が会社も家庭も名誉も失った責任を、かつて自分を取り囲んでいた人々へ押しつけた。


 事件では一人が死亡し、三人が重傷を負った。


 晃司は殺人、殺人未遂などの罪で起訴され、審理の末、無期拘禁刑を言い渡された。


 離婚調停は、彼が同意を拒み続けたため不成立となった。


 弁護士はその後、離婚訴訟を提起した。裁判所は、長期にわたる不貞行為、夫婦間の扶助義務の放棄、経済的な支配、そして刃物による襲撃などを踏まえ、離婚を認めた。


 判決が確定し、私は御堂姓から神崎姓へ戻った。


 御堂晃司は、残りの人生を刑事施設の中で過ごす。


 そして私は、ようやくあの結婚から抜け出すことができた。



8



 二年後。


 蓮司は、十六回目のプロポーズをした。


 神崎家の庭にあるベンチへ座り、真剣な顔をしているのに、声には少しだけ不満が混じっていた。


 「これ以上待たされたら、本当に年を取ってしまいます」


 「あなた、あの手紙に何を書いたのか、今まで一度も教えてくれなかったでしょう」


 「今話したら、結婚式の驚きがなくなるじゃないですか」


 私は彼を見た。


 「結婚式をすることは、もう決まっているの?」


 蓮司はすぐに姿勢を正した。


 私は答えず、彼が持っている指輪へ目を落とした。


 この二年間、私は神崎ホールディングスの経営経験もないまま管理職へ就くことはせず、グループの社会貢献推進室で働いた。


 産後の家庭を支える事業を立ち上げ、経済的に困窮している家庭や、身近に頼れる親族がいない母親へ、家事支援と一時的な育児支援を提供した。健康相談や医療に関わる支援は、契約する助産師、保健師、看護師が担当する体制を整えた。


 あの五年間が、価値ある経験に変わったわけではない。


 苦しんだ事実が美化されることもない。


 それでも、そこで知ったことを、今は誰かを支える力に変えられるようになった。


 蓮司は一度も急かさなかった。


 友人として一緒に展覧会へ行き、公益事業の催しにも参加してくれた。私が残業している日は食事を届けてくれることもあったが、許可なく私の生活へ踏み込むことはなかった。


 「いつから私を知っていたの? あのレセプションで助けてもらうまで、私はあなたに会った記憶がないの」


 「それも結婚式まで秘密です」


 「それなら、どうして今、返事をしなきゃいけないの?」


 蓮司は少し考え、公文書の入った封筒を取り出した。


 「これは、俺の弁護士が作った婚前契約書の案です」


 「契約書?」


 「あなたが結婚によって仕事や財産、自分で決める権利を失うことがないように、双方の財産をどう管理するか、職業上の自由をどう守るかを明記しました。あなたの弁護士にも、好きなだけ修正してもらって構いません」


 私はしばらく彼を見つめ、右手を差し出した。


 「分かった」


 蓮司が目を見開く。


 「本当に?」


 「私が気を変える前に、指輪をつけて」


 慌ててケースを開き、指輪を落としかける。


 大企業の代表として取締役会を仕切る人とは思えないほど、手が震えていた。


 結婚式には、神崎家と榊原家の親族や親しい友人が集まった。


 式の途中、蓮司がスタッフへ合図すると、会場にスクリーンが下りてきた。そこに映し出されたのは、十八歳の私を撮影した写真だった。


 白い花が咲く木の下で、風にスカートを揺らし、カメラの外にいる誰かへ笑いかけている。


 枝の隙間から差す光よりも、あの日の私は明るく笑っていた。


 蓮司が隣に立ち、私の手を取った。


 「この写真を撮った日、俺は神崎家が主催した慈善イベントへ、学生カメラマンとして参加していました」


 初めて知る事実だった。


 「あの日、綾を見た瞬間から、いつか隣に立てる人間になりたいと思いました。そのときから、俺が望んでいた関係は二つだけです」


 私の手を包み直す。


 「結婚する前は、お互いを尊重できる恋人。結婚したあとは、人生を一緒に引き受ける夫婦です」


 会場が静まり返った。


 「一度も喧嘩をしないとは約束できません。でも、嘘や支配や裏切りで、あなたをつなぎ止めることは絶対にしない。もし約束を破ったなら、婚前契約で決めた責任をすべて受け入れます」


 契約書は、事前に双方の弁護士が確認を終えていた。


 どちらか一方が相手の仕事や行動を不当に制限しないこと、個人財産の管理方法、婚姻中に取得した財産の扱いなどが、対等な条件で定められている。


 母は最前列に座り、目元をそっと押さえていた。


 式が終わり、二人きりになると、蓮司は贈り物を開けるより先に、一つの木箱を取り出した。


 中には、細かく破かれたあと、丁寧につなぎ合わせられた一通の手紙が入っていた。裂け目の一つ一つが、裏側から薄い補修紙で固定されている。


 「これが、あのときの手紙です」


 「まだ持っていたの?」


 「あなたが破いたと思っていた頃から、捨てられませんでした」


 手紙には、若い頃の彼のまっすぐで、不器用な気持ちが詰まっていた。


 木箱の中には何枚ものしおりとメモもあり、私たちが会えなかった年月の言葉が残されていた。


 「今夜もあなたの夢を見ました。元気にしていますか」


 「東京は雨です。あなたのいる場所は、どんな天気でしょう」


 「海外へ行ったと聞きました。いつか、自信を持って会いに行ける人間になりたいです」


 「今日、あの日の木によく似た花を見つけました」


 最後まで読み終えたとき、視界が滲んでいた。


 蓮司が顔を寄せ、そっと口づける。


 「綾。最後に俺のところまで来てくれて、ありがとう」


 結婚して二年目に、私たちの子どもが生まれた。


 産後支援の仕事をしていたからといって、専門家の助けを断ることはしなかった。回復期間中は助産師に定期的に訪問してもらい、家族や支援スタッフの力も借りた。


 蓮司は副社長と担当役員へ業務の一部を任せ、出産後の一か月は予定を大幅に減らした。


 おむつの替え方も、ミルクの作り方も、寝かしつけ方も、一つずつ真剣に覚えた。初めて一人で赤ちゃんをお風呂に入れた日は、取締役会へ出るときよりも緊張していた。


 息子は、私たちと周囲の人々に見守られながら、元気に育った。


 よく笑い、抱き上げると小さな指で私たちの手をしっかり握った。


 過去の出来事が、今でも夢に出ることはある。


 けれど、目を覚ましたときに見えるのは、隙間風の入る窓でも、冷たいスマートフォンでも、いつまで待っても帰らない夫でもない。


 朝の光の中で、蓮司が息子を抱いている。


 私は間違った人を選び、長い遠回りをした。


 それでも、あの場所にとどまり続けなかった。


 家族を取り戻し、自分自身を取り戻し、ようやく隣を歩いてくれる人に出会えたのだ。




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