鉄槌が下るのを待つ汚れた存在
新しい就職先で、西嶋敦司は地道に働いていた。目立たず、騒がず、淡々と職務をこなしていた。馴れないことも多く、先輩や上司によく叱られた。就職を機に変えた髪型は、数ヶ月前までのやんちゃな印象は微塵もなく、外見は純朴な青年と化していた。
今日も、大失態をして、上司に油を搾られた。うつむき歩く青年を、同僚の女性が励ました。
「元気出しなさいよ。みんなはじめは、こんな失敗を重ねるものよ。私なんて数億の仕事のミスしちゃったんだから」
「え?」
「もう、謝るしかないんだよね。謝ったら仕事にまた必死で取り組まないと。なんとか挽回できたけど、もう大変だったよ」 女性は今にも冷や汗をかきそうな青い顔をしていた。
「うつ病だけは気をつけなさいよ。結構それで辞めちゃった人が多いから。この間も、後輩が辞めちゃってね、で君にお鉢が回ってきたわけ」
「はあ……」
「君も運がいいんだね」
「その強運は、得難いものだよ」
西嶋は、失敗こそしたが、大きな充実感に浸っていた。入社して一年が過ぎていた。厳しい仕事だったがやりがいはあった。こんなでかいパソコンを見たのは初めてだった。巨大なキーボードを叩きながら、本当に俺なのかと、別世界にいるようで夢見心地になることが多かった。
一週間の有給休暇が取れそうだったので、休みの使い方を考えていた。初の長期休暇で
「やはり、旅行かな」
と思った。
高層マンションから見える夜景はいつも、西嶋の心を溶かした。
「どこが良いかな」
西嶋は、地球儀を回して、人差し指で止めた。
「ここにしよう」
ファーストクラスに乗り、旅先に思いを馳せていた。先輩に戴いたミヒャエル・エンデの「モモ」を読んでいた。西嶋は舌打ちした。
「何で今頃、あいつが読んでた本を俺は読んでるんだよ。パカヤロー……」
ページを繰っているうちに、西嶋は眠った。
西嶋は夢を見た。
(中学校のクラス、ひろっちゃんと、あいつをいびっている)
西嶋は苦しくなってきた。
(俺は馬鹿だ。俺は何をやってるんだ。おい!……そんなことしたら死んじゃうだろうが。やめろよ……おい!)
(血を流してうつ伏せで倒れているあいつがいる)
(これは、俺じゃない。俺の訳が無いじゃないか)
(プールで溺れている田中が苦しそうだ。何が……何が『パカヤロー』だ……青い顔をした田中が苦しそうに痙攣している。知らない、こんな事は、していない。ひろっちゃんがやったことだ)
しかし、虫の息になった田中の背中にビンタをして笑っているのは西嶋だった。
(こいつは、両親が公務員で、愛情たっぷりに育てられた。ぬくぬくと、培養されて、ゆくゆくは大会社に勤めて綺麗な嫁さんをもらうんだ。これくらいの塩気は、良いスパイスになるだろう。死ね、死ね)
(いや、知らない。これはフィクションだ。やったのはひろっちゃんだ。俺じゃない。どこに証拠があると言うんだ。ないない、何一つ証拠は無い)
西嶋は突然、肩を叩かれた。隣のフランス人が心配そうに見ている。顔を触ると驚くほど冷たく、汗がびっしょりと体中を濡らしていた。
西嶋敦司は、空港に降り立った途端、両脇を抱えられた。凶悪な強盗だった。彼らは西嶋を強く押さえ込み、腕を固めた。西嶋は身動き一つせずに、ガタガタ震えていた。目は虚ろになり、よだれを垂らし、過呼吸に陥った。
「おい、こいつ漏らしやがった。汚ねえな。後で、クリーニング代よこせよ」
震える西嶋を軽々と車まで運び、殴り始めた。
「おい! 金を全部出せ! 日本人は金持ちだからな!早く出せ! 早く!」
震えながら西嶋は、財布を渡す。気が動転して、パスポートが入っているバックも渡してしまった。西嶋は、ゴミのように車から棄てられた。
「……同じだ。あの時の俺たちと同じだ。解ってる、誰も俺を助けはしねえんだよ。俺はそれを痛いほど解ってんだ! クソ野郎!」
濡れた下着が情けない。パスポートもない。金もないし、連絡手段もない。仲間もいない。後ろ盾も、名誉も、家族もない。
「俺は一人だ。助けてくれよ。誰か助けてくれよ」
誰も助けないのは理解していたが、叫ばずにはいられなかった。
「なんなんだよ。いったい俺が何をしたって言うんだよ! いっそ俺を殺していけよ! 腰抜けの悪党が!」
雨が降り出した。泥まみれになり、自分の汚水をたっぷり吸い込んだ。
「お前、日本人か?」
と英語で話しかけられた。
「お前は運がいい。俺はこの間日本人に助けられたんだ。来い! 俺の故郷に連れて行ってやる」
「てめえ、偽善者だろ? 何をたくらんでるんだ? 金なら無いぞ。ノーマネー! 解る? ノーマネーだ! それとも、お前、俺を抱き枕にでもするつもりか」
手を差し伸べるかつての兵士を蹴っている。少し、てこずりながらも、介抱しようとする青年は、
「お前は、ダメな奴だな。最低だよ。ジャンヌとは大違いだ」
と愚痴をこぼしながら、介抱してやった。西嶋は、青年の腰に差されていた拳銃を奪い、青年を撃った。
「馬鹿な奴だ」
顔に唾を吐きかけ、死んだ青年を蹴り続けた。
「おい! オラッ、オラッ、なめくさりやがって。ふざけんなや」
西嶋は青年の死体に馬乗りになり、顔面を何回も叩き始めた。
「河童がおるでっ! へへっ オラッ、オラッ 偽善者ぶりやがって。おまえみたいな奴は虫酸が走るんだよ。オラッ、オラッ」
「金……。飯と服を買わないとな」
青年の懐から財布を奪い、
「ぺけぽ〜ん」
と、指をクロスさせ、笑った。
「楽勝だな」
衣服を調達し、たらふく食事を食らい、呟いた。
「もう、俺を縛るものは何もないんだ。俺は自由だ」
笑顔を作って見せたが、酷く虚しかった。強がってはみても、彼には何もない。苦い思いでテーブルをじっと見ている。 不意に背後から肩を掴まれた。
「警察だ。通報があった。あいつを殺したのはお前だな、来い!」
警察は、青年の遺体と、殺人者を車に乗せ、ロングドライブをした。拘束具を嵌められ、猿ぐつわを咬まされ、悪路を揺られている。
「ああ、終わった。意外にもジ・エンド……」