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エレベータージャック

作者: 雉白書屋

『一階です。ドアが開きます』


 さて、ようやく……ん?


「……あの、降りるんですけど」


 休日の家電量販店。音声アナウンスがエレベーターの一階到着を告げると、おれは小さく安堵の息を漏らした。仕事の疲れが抜けず、今日は一日家で過ごすつもりだったのだが、ドライヤーが壊れていたのを思い出し、しぶしぶ足を運んだ。

 疲労と眠気にまとわりつかれながら買い物を終え、エレベーターに乗る。

 人混みに揉まれ、もううんざりだ。さっさと家に帰りたい――そう思っていたのだが、ドアが開いても、なぜか先頭にいた大柄な男が降りようとしない。腕と脚を広げて突っ立ち、まるで「誰も通さん」とでも言いたげに、出入口を塞いでいた。


「えっと、降りるんですけど……」


 おれはもう一度、男の背中に向かって声をかけた。だが、返事はない。隣に立っていた乗客と目が合い、互いに困ったように眉をひそめ合った。

 このビルに地階はない。あの男も含め、全員がここで降りるはずだ。

 しかも、このビルは古くてエレベーターが狭く、内装のベージュ色の壁には、長年の汚れが染みついている。もしかしたら、元は白色だったのかもしれない。ほぼ満員の状態で密閉感が強く、乗っているだけで、じっとりと汗をかく。おれは別に閉所恐怖症じゃないが、それでもこんな場所に長居はしたくなかった。

 他の乗客たちもさすがに我慢できなくなったのか、「あの、降りまーす」と声をかけつつ、男の背中にそっと体が触れた――その瞬間だった。


「押すな! 触んじゃねえよお!」


 怒号がエレベーター内に響き渡った。男は肩を怒らせ、大きく身を揺らして手を振り払った。

 そして、ドアの両端を両手でがっちり掴み、叫んだ。


「このエレベーターは……俺がジャックした!」


「……は?」


 この男、何を言って――


「きゃあ!」

「マジかよお……」

「嘘でしょ……」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。が、周囲は一気に騒然となった。悲鳴や戸惑いの声が上がり、乗客たちは我先にと壁際へ身を寄せる。まるで、今からワイヤーが切れて、エレベーターが落下するかのような動揺ぶりだ。だが、ドアはすぐ目の前に開いている。


「いや、降りますから、どいてくださいよ。疲れてるんです。勘弁してください……」


 おれはできるだけ穏やかに、同情を誘うような弱々しい口調で男に頼んだ。


「俺に触んじゃねえよ! 俺は降りねえ! 下がれよお!」 


 もう滅茶苦茶だ。何もかもが馬鹿げている。この男も、乗客たちの過剰な反応も。

 とはいえ、確かに相手はいわゆる“アブない人”だ。身長はおれより少し高いくらいだが、横幅が広く、全身ががっしりしていて、まるでゴリラみたいな体格と顔だ。刺激したら、いつ拳が飛んできてもおかしくはない。

 そうなったら警察を呼べば済む話ではあるが、こっちが怪我でもしたら割に合わない。おれに自己犠牲精神なんてこれっぽっちもない。

 どうしたものか――と思っていたら、ようやく助け船が現れた。店員が異変に気づいたらしく、慌てた様子で駆け寄ってきた。おれはほっと胸をなでおろした。


「あの、お客様、どうされましたか?」


「だから、このエレベーターは俺がジャックしたって言ってんだよお! お前も近寄るんじゃねえよ!」


「エ、エレベータージャック……!? しょ、少々お待ちください!」


「いや、なんで!?」


 店員はその場で固まったかと思うと、「店長を呼びます!」と叫び、駆け出していった。

 そして間もなく、店長らしき中年の男が現れ、額にびっしり汗を浮かべながら言った。


「あの、要求はなんでしょうか……?」


「いや、要求じゃなくて、この人を押さえててくださいよ。それか警備を呼ぶとか、もう警察でもいいから」


 おれが割って入ると、すぐに他の乗客の一人が袖を引いた。小さく首を横に振っている。犯人を刺激するなということらしい。


「俺の要求は、このエレベーターから降りねえことだよお……」


「あの、せめて女性のお客様だけでも……」


「私だけは嫌! たっくん……!」

「ミコちん、いいから先に降りて……」


「いや、全員降ろしてくれよ……」


 カップルらしき若い二人が、震えながら身を寄せ合う。店長は懸命に説得を続けたが、男は頑として動こうとはしなかった。ただ時間だけが虚しく過ぎていく。十分、二十分……。膠着状態のまま、乗客たちの顔に疲労の色が濃く刻まれていった。誰もが床に座り込み、うつむき、出口を見つめ、絶望感に打ちひしがれていた。

 外では店員が呼び出しボタンを押し続けているため、エレベーターはまったく動かない。その状況が、かえって男の苛立ちを煽っているようで、男はさらに声を荒くした。


「どけよお! このキチガイどもがよお!」

「お客様! お客様!」


「どけって言ってんだろお! エレベーターが動かねえじゃねえかよお!」

「お客様! 降りる方がいますので、どうか……!」


「お前らヤバいんだよお!」

「お客様!」


「うるせえなあ! 俺に触んじゃねえよお!」

「お客様! お客様、落ち着いて!」


「お前がどけばいいんだよお!」

「お客様! 他のお客様もおりますので!」


 この状態でも、まだ『お客様』と呼び続ける姿勢は、ある意味、賞賛すべきかもしれない。だが、おれはもう限界だった。


「あ、おい、お前なにしてんだよ!」


 おれは無言で男の腕の下をくぐり抜け、ひょいとエレベーターの外に出た。そしてすぐに振り返り、男の腕を掴むと乗客たちに向かって言った。


「さっさと降りろ!」


 殴るなら殴ればいい。こっちもイライラしてるんだ。乗客たちは一瞬ビクッと体をこわばらせたが、次第に動き始めた。そして次々に、エレベーターから飛び出していった。最後に男が一人残ったところで、おれは男の腕を離した。


「俺は降りねえぞ……」


 店員がようやく呼び出しボタンから手を離し、エレベーターのドアがゆっくりと閉まり始めた。男はじっとこちらを睨みつけていたが、やがてその姿は静かにドアの奥へと飲み込まれていった。


「ありがとうございました……あなたは英雄です……!」

「ありがとう……」

「でも、本当に危険でしたよ……」

「助かったんだあ……」


 拍手が巻き起こり、安堵の空気が広がっていく。おれは気恥ずかしさに苦笑しながら、軽く頭を下げた。


「いや、だから大げさなんですよ。まあ、確かにアレは異常者でしたけどね……」


 おれは呟くようにそう言い、頭を下げながら店を後にした。

 とにかく疲れた。本当になんだったんだ、あれは。まるで一種の寸劇に巻き込まれたような気分だ。いや、実際そうだったのかもしれない。だとしたらみんな、大した役者だったが……ただあの男。最後、なぜあんな怯えた目を――


「きゃあああああ! ポイ捨て犯よ!」

「違う、違うんだ! 手が滑っただけなんだ!」


「あっちで通り魔あったらしいよ」

「へー、何人死んだかな」


「向こうで放火だとさ」

「おお、いいなあ。おれも来週あたりやろうかな」


「おい、あの車、停車線をはみ出してる! 暴走車だ!」



 ……どうやらおれは、降りる世界を少し間違えたらしい。

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