零零陸
行きたくない。
それが店を出てしばらく歩き始めた俺の胸中を支配していたモノであった。
それは言い表しようのないもので、その上で似たような感情を抱く状況を挙げるのだとすれば、課題をやり忘れたことを自覚してから学校に向かう時だとか、授業内でプレゼンテーションの様なことをしなければならない日の朝だとか、他にも挙げ始めれば色々あったりするのだろうが、つまりはそういう、心臓の辺りがゾワゾワとするような不快感に襲われていたのだった。
高校に通うようになってからは近付くことも無かった道に、全く以て、毛ほども懐かしさだとかいうものを感じられなかったのかと問われれば、そんなことはない──とは言っても、たかだか数か月前までは毎日通っていた道なのだから、所詮はその程度でしかないのだが。
だからだろう、それ以上に不快感が悪寒となって全身に駆け巡っていくのは。
ここで俺が懐かしさしか感じていなければ、「あんなことあったなぁ」なんて、道を見回しながらそんな事を思っていられれば、俺はきっとこの肌寒い空の下を、もう少し気持ちよく歩いていられたのかもしれない。
しかし現実は違っていて、この有様だ。
高校に行くようになってからは通らなくなった道?
違う、高校に行くことで通らなくてよくなった道の間違いではないか。
それ以外の何であるものか。
俺は解放されていたのだ。この嫌な思い出が詰まった道から、中学から高校に進学するというたったそれだけのことで、こうも簡単に解放されていたのだ。
小学校から中学校に上がったばかりの頃は、今となってはその時のことなんてほとんど覚えていないのだけれど、それでも多分、この道を通ることを楽しみにしていたハズだ。新しい場所に行くという事が、どこか自分の中で楽しいこととして感じられていたハズだ。
しかしそれも、二年生に上がる頃には慣れたのだろう。特に何かを感じることも無く、ただ日々の一環として、この道を歩いていた気がする。それでも学校に行けば友人もいて、その時は先のことなんて何も考えてはいなかったような気もするし、考えなくてよかったからこそ楽しめていたのかもしれないのだが、あの時は楽しかった。
人間のピークは中学二年生だ──とどこかで聞き及んだことがあったが、振り返ってみれば、確かにその通りだと思う。
自分は、御厨 颯という人間は、あの時が一番積極的に物事に取り組めていた気がするし、今よりも明るかった気がするし、友人の数も多かった気がするし、正義感もそれなりにはあったのだと思う──人間を辞めてしまっているのだから、こういうことを考えること自体、俺にはもう不可能なのかもしれないのだが。
今はそうではないのかと言われれば、自覚している通りである。消極的だし、明るくはないし、友人と呼べる人は少ないし、自己中心的な正義感でしか動かない──というか、正義とかいうもの自体を疑い始めている。少なくとも昔のように、他人の為に、誰かのために怒ったりするようなことというのは目に見えて減った──いや、怒りなんて目には見えないのだけど。
では今俺がこうなっているのは何故なのか。
確かに、物事を現実的にしか考えられなくなったり、ひねた物の見方しかできなくなってしまったりしたのは、俺が中学から高校に上がるまでの期間に成長したからなのかもしれない。人はいつまでも夢見る子供ではいられないのだから、大人になれば、現実を知れば、自ずとそれに沿った思考をするようになる──なんて言い方をすると、俺が初めは純粋な心を持った、中学生になっても尚サンタクロースの存在を信じて疑わないような子供であったのかの様に聞こえるが、別にそういうワケではない。
そういうワケではないが、初めからこうであったワケでもない。
だがそれ以外はどうだろう。
何故前より暗い奴になってしまったのか──とか、何で積極性を失ってしまったのか──とか、どうして友達が欲しいという思いと裏腹に人と関わりにいけなくなってしまったのだとか、そういうことを考えた時、全てはそこに行きつくのだと思う。
そこというのは、中学三年生の頃のあの事件。俺という人間の底である。
元を辿れば、ピークであったはずの中学二年生の頃、既にその火種となる事件も起きてはいたのだが、それは決定的な事件ではなかった。あくまでも俺が、個人として一部の連中を嫌うようになったきっかけというだけで、それもまた俺の思考に影響を齎していたものの、言ってしまえばそれだけの事件でしかなかったのだ。
しかし、それは起きた。中学三年生の頃の話とは言っても、学校生活も後半の頃だったのだから、それまではこの道を通ること自体、別に苦というワケでもなかったのだが、その日以降はやはり違っていた。孤立すること自体は気にしていなかったなどと虚勢を張ってみたところで、俺は結局、辛かったのだと思う。
確かにクラスの人間と微妙な関係のまま付き合いを続けるくらいなら、いっそ断ち切った方が楽だと考えたこともまた事実だ。
だが、嫌な目を向けられながら、一人で窓の外を眺める生活が楽しかったなんて、そんなワケはない。
そうでなければ、今感じているこの不快感と、あの時感じていた不快感が同じであるハズがない。
だから行きたくない、この道を進みたくないのだ。
いや、行きたくなければ行かなければいいだろう。魔族がいるかもしれないという話は聞いているが、そいつだって既に別の場所に移動したかもしれないのだし、それでも見つからなければ姉にさんでも流華先輩にでも傑にでも手伝ってもらって、中学校方面の捜索は俺以外の誰かにでも任せてしまえばいいのではないか、そのハズである。
そしてそんなことは俺自身理解していたし、何度かそうしようと足を止めたのだが、その度、俺は後ろから押されるかのようにして、再び足を動かしていたのだ。
それに合わせて焦燥感にも似た不快感はますますその勢いを増していき、正直吐きそうにもなっていた。
耐えられていたのは今の俺だからかもしれない──しかしそれ自体は俺自身の成長というワケではなく、エルゼが掛けた何らかの魔法によるものなのだろうから、誇れもしないのだが。
しかし足を止めることができないのなら、このまま突き進むほかない。後ろに誰かいるような気がするし、たまに横を通り過ぎる通行人はこちらを見ているような気もするし、この先に進むのは間違っているような気もするが、それでもなぜだか、進まなければならないような気がして、俺は両足を動かし続けた。相も変わらず一歩一歩は小さいのだが、それでも着実に、前へ前へと進んでいた。
中学校へと通じる一本道を歩いていれば当然目的地には近づいていくもので、しかし流石に卒業生とはいえ中学校の中に這入るワケにはいかないと思い直すと、俺はその裏手にある丘へと通じているハズの道を探し直し、そちらへと進んでいった。
中学校の中に這入ることは出来なくとも、あの丘は別に学校の所有する土地ではない。入学した初めの頃、レクリエーションか何かで連れて行かれた場所ではあったが、あくまでも公有地だ。だからそういう意味での問題は無いだろうと、出来るだけ学校の方を見ないようにして、すっかり葉の枯れ落ちた木々の並ぶ道へ入って行った。
やっぱり俺は、逃げたのかもしれない。いや、逃げること自体を悪いことだなんて思っていないし、それは別に構わないのだけど。でも今の俺は、逃げたというよりは目を逸らしているだけの様な、そんな気がした。
気を取り直しきれていないまま歩き始めてすぐ、懐かしいと感じた。
意外な事だったが、考えてもみれば別に意外でも何でもない、当たり前のことだった。
それは多分、レクリエーションで来て以降、俺がこの道を通っていなかったから、つまり、嫌な思い出とこの道というのがリンクされていなかったからなのだと思う。かつての通学路を歩いて感じていた不快感は、風が運んできた木々や枯葉の何とも言えない匂いに包まれているうちに、どこかへ雲散霧消していたのだ。完全にではなかったのかもしれないけど、とにかく、すっとしていた。
ではそれを完全なものにしようと思ったらどうすればいいのか。そう、いつものように魔族を狩ればいい。そうすれば、殺すこと自体にそう快感を得ているわけじゃないのだろうし、そうだと信じたいけれど、気分は晴れる。こう、魔法をドバっと撃って敵をやっつけたという感覚はやはり、精神の安定に寄与しているのかもしれない。
これはもしかしたら力によるものなのではないのだろうか。俺が、というか、この力の持ち主が積極的に魔族なんかを狩りに行くよう仕向ける為の、生理的欲求に近い何か。食事をすると幸福感を感じたりするのはそれをしなければ死んでしまうからだし、排泄なんかに多少の快感があるのもやはりそうだ。生殖行動なんかは言うまでもなくその代表例だろうが、要はそれと似たような感覚が俺に魔族を殺させているのかもと思うと、なんとも言えなくなる。
魔族が敵であることに変わりはないが、俺の意志じゃなく本能的な行動なのだとしたら……。
と、茶色に染まった草原を踏みしめながら進んでいた俺は、とうとうその山頂……丘なのだから丘頂とでも言うのだろうか。何とも間抜けな響きではあるが、それはともかくとして、俺は丘の上に辿り着き、目撃した。
魔物か、魔族か。どちらでも構わないのだが、虎の頭をした、馬の身体を持つ何かが、そこにはいたのだった。
キメラとでも言うのか。それとも傲慢の悪魔がかつて行った様な融合実験か何かをした奴が、まさか他にもいたというのだろうか──しかし、そうだとすれば何とも間抜けな生物である。
通常、生物というのはその食生活を含めた全ての生活に適した進化を遂げているものだ。馬は草食動物なワケだから、その内臓器官──例えば腸だとかは当然、それを消化するのに適したものでなければおかしい。そして、それを取り入れるはずの口──というより歯も、草を刈り取り、その草を擂り潰すのに特化した形でなければおかしい、ということになる。
だがどうだろう。身体が馬である以上、その口はそうなっていなければおかしいだろうに、その頭は完全に虎だ。牙も見えている以上、どう考えても草食に向いているとは思えない。もしかしたら身体は馬に見えているだけで内部構造は肉食向きになっているのかもしれないが、だとしてもわざわざこんな造りにした意味が分からない。意味なんてないのかもしれないが、まぁ確かに、モンブランが異様だと形容したのも頷ける。
しかし、話と違う点もあった。
いないのだ。騎馬──頭が本体なのだとみなせば騎虎という事にもなるのだろうが、そこに乗っていたという少女がいない。途中で降りたのか、それとも振り降ろされたのか。もし降りることができたのだとすれば、その少女がしていたのは騎虎ではなく騎馬だったという事になるのだろうか。
余計な心配をしなくて済んだという反面、不気味でもある。こんな奇妙奇天烈な化物にまたがって街を闊歩していたというのだから、何かしらがあるに違いないだろう。もしかしたら、千夏先輩よろしく何かしらの悪運が重なってそうなってしまっていただけという可能性が無いでもないのだろうが、やはり気になる。
「はろ~?」
「…………………………」
小さく手を振りながら、俺はその馬か虎に近付いていく。しかし言葉が通じている様子はなく、それはこちらをじっと凝視したまま、その四つ足をしっかりと地に付けて、立ち尽くしていた。
魔物、なのだろうか。魔物にしろ魔族にしろ、全員が言葉の通じる存在だというワケではないことは知っている。しかし、言葉も通じず目的も無いというのなら、もはや生かしておく理由も声を掛ける意味も無いのだが……。それは動く気配を見せず、口を半開きにしたまま、その恐ろしい表情でこちらを見つめ続けていた。襲い掛かってくるわけでも、歩み寄ってくるわけでもなく、見つめているだけ。
猫は好きだが、虎や獅子はやはり怖い。
倒せと言われればそれをするだけなのだから早いのだが、このまま倒してしまっていいものなのだろうか。
と、考えていても仕方がない。俺は一目がないことを一応確認し、やはりこの季節のこの時間にこんな場所を訪れる人間がいないことを見ると、変身を済ませた。俺が放つ圧は変身前と後で大きく違っているハズだったが、それでもやはり反応は変わらなかった。
抵抗はないのだろうか。その珍妙な魔物は俺が魔法を放って尚、逃げること無く、反撃しようと試みることも無く、しかし最後の最後にはその目をかっ開き、俺を睨みつけて消え去った──断末魔すら上げることも無かった、静かで呆気ないものであった。
改めて、モンブランがアレを異様だと言ったことに頷くしかなかった。
あの魔物は確かに異常だ。あんな存在に出くわしたタイミングでエルゼがいなかったというのが悔やまれる。
魔物は倒したと言うのに、不気味さだとか奇妙さだとか、そんなものだけが残るばかりで、全く解決した気がしないでいた。こんな事なら、倒さず家に帰ってからもう一度エルゼを連れた状態で出直すべきだったのかもしれない──なんて、まさかそんなワケにもいかず。倒したこと自体は間違っていなかったのだろうが、取り敢えず帰ったらエルゼに話を聞いてみることにしよう。
俺は再び辺りを見回し、変身を解いた。
わずか数分のことであったが、ここを怠るワケにはいかない──それを怠ったつもりがなかったのに、俺は千夏先輩に正体を看破されているのだ、油断することはない。
こうして、あっさりと魔物の出現を解決してしまった俺は、丘を下り、再び木々の生える道へと足を踏み入れる──その瞬間、違和感に気が付き、声を漏らした。
「違う……」
そう、違うのだ。
何が違うかと言われれば、気にすべきものだ。
俺はその見た目からどうにも虎なんだか馬なんだかよく分からない魔物の方ばかりに目を向けてしまっていたが、実際気にするべきはそちらではなかったハズだ。確かにあの魔物も異様だといえば異様だし、奇妙な存在であることには間違いない。
しかし、モンブランはなんと言っていた?
俺のどんな奴だったか、という問いに対する返答は「乗馬した少女って感じ」だったハズで、あの魔物のことは当初気にもしていなかったではないか。俺が馬の首がどうのと変なことを言ったから思い出したかのようにその話をしただけで、モンブランはそこに首を傾げたりはしていなかった。
だとすればあの魔物は何だ、移動手段でしかないというのか?持ち主が目的地に辿り着いたから乗り捨てて、その魔物だけがあの丘まで勝手に歩いて行った。もしくは、あそこを駐輪場ならぬ駐馬場にでもして用を済ませている最中なのか?
だとすればその少女はいったい何者なのか。怪我をしていないかとか、何故あんなのに跨っていたのかとか、どこへ行ってしまったのかとか、色々と気にするべきこともあったのだろうが、こうなってはそんなことは気にしてもいられないだろう。
などと思案しているうちに、俺はあの道に戻って来ていた。
嫌な道だ。嫌な道だが行くしかないと、今度はその道を家へ戻るようにして進んでいると、またも違和感を覚えた。しかし、今度は声を漏らすことも無ければ立ち止まることも無く、俺はそれに気が付きながらも進み続けることを余儀なくされた。
尾けられている。
足音こそしないが、一定の距離を保ちながら追いかけてくる誰かがいる。
初めは気のせいかと思った──気のせいかと思ったのはミラーを見たからだった。
曲がり角なんかに設置されているあのミラーは、俺の背後には誰もいないことを示していたのだ。当然、身を隠せそうなもの影や設置されたミラーの角度に問題があるということも無かった。だから俺はそれを気のせいだと感じなければならなくなったのだが、しかし俺の直感ともいうべき感覚が、それが決して気のせいなんかではないということを示していたのも、また事実であった。
俺の何かがいるという直感と、ミラーには何も映っていなかったという事実。その両者を比べた時、本来であればその事実の方を信じるべきなのだろうが、しかし、俺はこれで今の自分の察知能力の様なものは信頼していたりする。
周囲にどんなものがあるのかを見ていなくとも何となく把握できるこの俺が、後ろからちょこまかと付いてくる何かを察知できないハズが無いのだ。例えミラーに映っていなかったところで、それだけでは何もいないことを確信できない。自分で言っていて中々に滅茶苦茶な気がするが、こうなってくると何がおかしくて何があっているのかさえ分からなくなってくる。
魔力なんて持っていなければ、あるいは今のこの状況も、鏡に映ったその光景を全面的に信じて、自分の常識だとかいうものに全幅の信頼をもって納得できていたのかもしれないと考えると、いや、これは違うな。
「さっきから何なんだ──」
俺は意を決し、振り返った。
既に十分嫌な予感はしていたし、思えば、この道で誰かに尾行されている時点で察せる要素は十二分に揃っていたのだから、さっさと逃げればよかったのだろうが、俺はそうしなかった──何故振り返ったのかなんて、俺は一体誰に聞けばいいのかもわからないが、人は時折、それが間違っていると分かっていてもその選択をしてしまうことがあるのだ。
「な、何で、お前──」
今回俺がしたのは、そういう愚かな選択だった。




