闇落ち
「何ですか……アレは……」
流華の横にいたリラが、声を震わせながら小さな声で呟いた。
見ればわかる。颯だ。今まで消えていた、その少年の姿だった。
しかし、何かが違っていた――いや、何もかもが違っていた、と言った方が正しいのだろう。少なくとも、リラがこんなことを言い出す時点で尋常でないことは確かであり、その姿は異形でこそないが、異様であった。
「楓君に連絡を……」
流華は何かを──否、全てをマズいと感じ、急ぎ増援を呼ぶことにした。
楓が今何をしているかなど知ったことではない。
むしろ、颯が帰ってきたと連絡を入れれば何をしていたとしても飛んでくるだろうと、そう考えて連絡を入れた。
震える手でスマホを仕舞うと、流華は颯の方を見た。パッと見は何の変哲もなく、ただただ彼であった。変身をした後の、いつもの姿であった。
「…………颯君、なんだよね?」
しかし、流華は息を荒くしていた。これが喜びによるものであればどんなにいいかと、彼女は自分を落ち着かせることに専念していた。
目の前にいる少年の放つ圧は、あの悪魔の比ではない。それほどまでの恐怖を感じていた。
颯はそんな流華の内心などお構いなしに、ニコニコとしていた。
「そうですよ。正真正銘、御厨 颯です。いやー長かったーっ!」
万歳をし、声高に叫んだ。
そして当たりの惨状を見渡しては、何故か楽しそうにうんうんと頷いている。
おかしい。流華は彼の事を善性の人間だとも思ってはいなかったが、それでもあんな風に振舞う人間ではなかったはずだ。
そんな中、リラが口を開いた。
「まさか……変質している……?」
「リラ?」
「流華、すみませんが、もう一度変身しておいてください」
聞き返すと、リラは流華に対し戦闘準備を整えるよう促した。
「何を、言っているんだい…?」
やはり分からない。分かるはずがない。分かりたくなんかない。
そんな予感が、リラの表情と声色を見て、流華の脳内をグルグルと回り始める。
「最悪の場合、彼を討つことになります。その準備も、覚悟も、しておいてください」
「……え?」
そしてそれは、淡々と告げられた。
颯も流華も、お互いに動かないでいる。
颯はそこから動かなかった。その理由は分からないが、対して、流華は衝撃のあまりか、そこから動くことができなかったのだ。
その違いは、大きかった。
「どうかしたんですか?」
颯が口を開いた。その声はどこか狂気を帯びていて、流華は反応に間が空いた。
「どうかしたのは……君の方なんじゃないのかい...…?」
リラの反応から何かがあったのだと察した流華は、詰まりそうになりながらも声を絞り出して訊いた。
「あぁ……まぁ、1か月も失踪してましたからね──あ、ニュースとかになってたりしませんよね?」
「それは無いよ……、楓君が手を回していてくれたし、私も一応、できることはしておいたから……」
「そうですか…………ま、悪目立ちするのは好きじゃないし。それならいっか」
そんなただの会話であったが、流華は気が気でない。
彼が一言一言を発していくたびに、体の震えが増していく。
これは勘違いなんかではなく、彼から発せられるものが原因であった。
そうしてしばらく見つめ合っていると、付近に何かが着弾した。
それは更地になったその地面に深い大穴を開け、巻き起こった土煙の中から姿を現した。
「颯くん!」
「颯!」
「小僧...…」
エルゼと楓、それからヴェルザであった。
ヴェルザはいち早く颯の異変に気が付いたのか、何とも嫌そうな声を出していた。
「あ、エルゼ……久しぶりじゃん。それに...…姉さんも」
颯はその場から動くことはなく、ただその着弾地点の方に首を回し、小さく手を上げて声を掛けた。
久方ぶりの邂逅であり、感動の再会であり、喜ぶべき場面であるはずなのにも関わらず、颯以外の誰一人として、嬉しそうな顔をしてはいなかった。楓でさえ、颯に近寄ることなく、その場に立ち尽くしていた。
そして、エルゼの声が聞こえた。
「颯くん……何があったんですか……?」
それは颯が飛ばされた先でのことを聞いているのではない、と、流華は理解した。
リラも、楓も、ヴェルザも同様に、その質問の意図は理解していた。
しかし、颯には伝わらなかった。
「いや、とんだ大冒険だったよ。急に変な所に飛ばされて焦ったけど、異世界転異ってヤツ?全く知らない場所でさ、そこだと魔法とかも普通に存在してんの。まぁでも色々あって、結局帰ってくるまでに1か月とか掛かっちゃった。……あっ、そうだ。途中でお前の────」
「颯くん!!」
あれこれとあったことを話し出した颯を、エルゼの叫び声が遮った。
その声には強い怒りと、罪悪感と、哀しさが入り混じっていた。
「ん?」
言葉を止めて聞き返す颯の顔には、不満の色があらわれていた。
「颯くん……これまでに一体どれだけの人を殺したんですか……!」
そして言った。流華は言葉を失っていた。
「アイツと同じこと聞くじゃん……」
「答えてください!」
アイツ。
それが誰の事を指し示しているのかはわからなかったが、ただ颯が不愉快そうにしていることだけは、その表情で分かった。
「知らない。アイツは数百万人って言ってたけど。だから何?いいじゃん、帰ってこれたんだから。もうしないよ」
颯は苛立ちを隠すことなく言った。彼の中で何かが膨れ上がっていくのが分かった。
それに気が付いたのはやはり流華だけではなかった。全員が息を呑み、その2人の会話を聞いていた。
「……っ、颯くん。何があったのかは別として、今の颯くんは、この世界にいるべきではありません」
そう言い放った瞬間、場が凍り付いた。
「……はぁァ?」
颯からは溢れんばかりの魔力が放たれ、その表情は泣き出しそうな程に酷く歪んでいた。
いつか見た戦闘衣装とは似ても似つかぬ恰好へと変身していく。
場違いな程に可憐なデザインなのは以前から変わっていなかったが、それは闇を帯びていた。
視認できる闇を、身に、心に、纏っていた。
「颯君……」
流華は以前リラから聞いた話を思い出していた。
精霊によって与えられた力の代償について──この場合は代償というより、デメリットや注意点とでもいう方が適切なのかもしれないが、それは力の変質である。
変質。
リラがそれを話した際、流華は既に一度変質しかけていたと、リラはそう言っていた。危険な状況まで追い込まれていたのだと、しかし、それをどうしてやることもできなかったことを謝罪された。それがどの時のことを言っていたのかは改めて説明されることも無かった──否、流華自身、それがいつなのかというのは察しがついていたので、改めてそれを指摘されることを拒んだのだった。
このように、精霊の与える魔法やそれに付随する力というのは、まともな精神状態でなければ正しく扱うことはできない。
そして、その正常さを失ってしまった人間は、その精神状態が力そのものに色濃く表れることになる。
だからこそ、精霊は強い精神を持つ者を適任者として選ぶことになる。
しかし、強いとはいえ人間は人間。
人は人。
結局のところその許容量には当然限界があるし、その強さに絶対などはない。
だからこそ、ちょっとした弱点を突かれたり、激しい負荷を掛けられたり、積もりに積もったものが爆発したりといった理由で、それは簡単に起きてしまう──簡単いとは言っても、常人より遥かに耐性があったワケで、それが起こるというのはつまり、それだけの負荷を精神に受け、溜め込んでいる状況に他ならないのだ。
そして、今の颯にはそれが起こっていた。先のリラの呟いた言葉にようやく合点がいって、流華は顔を顰めた。
『1人の為に社会を犠牲にはできないという旨の言葉は必ずしも噓ではない。もしそうなった時、私はきっと君とは違う道を歩むのだろうという事を、覚えていて欲しい』
もしそれがその通りであるのなら、もしこのまま颯が暴走を始めたら、あの日の言葉が、和解と共に交わされた言葉が、本当になってしまう。
「ねぇ、エルゼ。颯はどうなってるのよ…」
颯の方に目線を向けたままの楓が、エルゼに問うた。
颯は頭を抱え、呻き声を上げていた。
「今の颯くんは……闇堕ちした状態です」
「……は?」
「闇堕ちです…」
間の抜けた楓の声に、エルゼは再度同じ答えを返す。お通夜のような空気で、エルゼは語る。
「僕が与えた力は絶大なモノです。それは僕自身の能力によるものだけではなく、その力がなんだかんだで颯くんに馴染んだというのもあるのだと思います。ただ、あれほどの力に代償がないハズもなく──」
「…………、闇堕ちって、アレよね。仲間とかが病んじゃって闇の力に目覚めるみたいな……、そういうヤツなのよね……?」
「まぁ、はい。例えば流華さんであれば、堕天でしょうか。精神に多大な負荷を掛けられた状態が長く続くと、その精神状態が力の本質に影響を齎し、その状態に合わせて変質していきます」
「それは……別の世界で人を殺したっていうのが関係してるの…?」
「はい。普段であれば僕が止めるなりケアするなりでなんとかできる範囲でもあったはずなんです。ただ……」
「待って、颯は前にも悪魔憑きを何人か殺してたはずだけど……それは?あの子がそうなると分かってたなら、何で止めなかったのよ!」
「い、いえ、悪魔憑きになった時点で人間としては死んでるも同然の状態です。それを殺したとしてもそこまでの影響はないんですよ。ただ、颯くんは恐らくそうではない、普通の人間をその単位で殺してしまったのでしょう、だとすれば、この状況にも納得がいきます」
「納得言ってんじゃないわよ、何でそんな力を与えたのよ……!」
「いや、その……魔法少女とかってそう言うのが鉄板じゃないですか──それに、強い力なら苦戦せずに済むかなと思いまして……まさか、まさか人を殺す環境に身を置くことを前提とはしていませんでしたし……」
楓がキレそうになったが、颯の声が聞こえてきたことで、その意識を颯に向け直す。
「何で、何で、何で何で何で何で何で何でなんでッ!!」
その場から一歩も動くことなく、魔力を吹き荒れさせる颯。
真っ黒な竜巻の、言わば台風の目になった彼は、焦点の合わない眼でエルゼを見ていた。
「颯君……」
流華はその様子に声を漏らした。
「颯くんっ!抑えてください!さもないと僕は、颯くんを……!」
エルゼは懸命に声を掛ける。吹き荒れる魔力は只のそれではなく、触れるものすべてを引き裂くような、まるで刃が急旋回しているかのようなものであった。
そんな中、竜巻の中から1本の黒い棘のような魔力が伸びてきた。
それはエルゼの肉体を狙い、空気を裂きながら突き進んで──直撃する直前、現れた黒いブレードに止められた。
「何が……何が抑えればいいんだろだ!案の定暴走してんじゃねぇか、このボケがッ!フラグ回収早すぎんだろうが!もうちょっとくらい耐えてみたらどうなんだタコが!アァッ!?」
ブレードの持ち主は、カタカタと震えるその剣を何とか必死に抑えながら、颯に向かって叫ぶ。
しかし、その声は、その顔は、目の前にいるはずの颯と同じものであった。
「颯…?颯が2人……?」
楓は状況が吞み込めないのか、2人を交互に見ては不思議そうな顔をしていた。
流華も状況が吞み込めていないという点では同じであったが、リラ達は何かを察したようであった。
そのもう一人の颯は、伸びてきた棘を何とか打ち払うと、お返しとばかりに攻撃を撃ち込んでいく。
銃のように変形したブレードから放たれた青い光の弾は、颯の巻き起こす竜巻に触れ、爆ぜていく。
「お前ェッ、お前ェェッ!!何で、何でッ!!」
「チッ......やっぱりあそこで殺しておくべきだった……クソがっ!!」
悪態をつきながら、光線を次々に撃ち込んでいく。
それを、楓が止めた。
「何してるのよ!というか、あんた何なのよ!」
颯は腕を掴まれ、思わずそちらを見た。
「ぁあ?……あぁ、いや、細かいこと言ってる余裕もないけど、アイツは早く殺さないと……じゃないと……」
「何言ってんのよ、殺す……?ふざけないで。死なせるわけないでしょ……!」
殺気であった。激しい殺気が、自身の弟と同じ顔をした彼に向けられた。
「でも……!そうじゃなきゃ何もかも終わるんだよ!俺でさえ同じようにしたんだから!今のアイツならそれこそ、もっと簡単に……!」
そんな殺気にも耐えながら、颯は必死に言い返し、掴まれた腕を振り解いた。
「同じように…?」
楓は訊き返そうとしたが、どうやら暴走した颯は待ってくれないらしく、竜巻がより一層大きくなっていった。辺り一帯を削り取っていくそれは、瓦礫を巻き上げ、巻き上げたものを打ち飛ばすことで、そこら中を無差別に攻撃していた。その攻撃は焦点の合わないモノであったが、喰らえばそれこそ、タダでは済まないだろう。
「颯くん…っ!……楓さん、すみません。戦えるようにだけしておいてください」
「エルゼ……っ、アンタまで何言ってんのよ…!」
「今の颯くんは!……今の颯くんはもう、まともじゃありません。……楓さんの知る颯くんではないんです。なので、もしもの時は、お願いします」
そんな攻撃の降りしきる中、エルゼはそう言って、悔しそうに頭を下げた。
「……っ」
そんな会話を聞いていたのか、竜巻の中から声が聞こえた。
「何で…!何で…!頑張ったのに……!やっと、やっと......何で…!」
ドロドロに溶けるような声を、彼は泣きながら発した。
「颯くん…」
「…………」
流華は楓を見た。必死に何かを考えるような顔であった。
何か──それはきっと彼を助けるための方法がないか考えていたのだろう。
そうしている今も尚、竜巻は膨れ上がる。その風圧に負けないように立っていたが、これ以上大きくなれば撤退も余儀なくされる──というより、そうするより他にどうしようもない。
今の暴走した颯と戦って勝てるのかと言われれば、それはやはり難しいのだろう。それは戦力の問題などではなく、感情の問題であった。
流華は最悪、皆を護る為に攻撃をすることも選ぶのかもしれない。突如として現れたもう一人の颯は始めからそのつもりらしいが、問題は楓である。こちら側に引き込めても向こうに寝返るかもしれないし、引き込んで彼を無力化したとて、もしその結果死なせるようなことになれば、次は楓がそのまま敵に回るだけだ。そうなれば今度こそ、流華は勝てないだろう。
それを思えば、ここは一度撤退し、周囲への被害を、犠牲を、それを前提とした上で動きなおすのが賢明だったのだろう。
だが、彼をこの場に置いていくことはできない。
それは逃げられるのかという思いや、周囲への犠牲が果たしてどれほどのものになるのか定かではない現状、自分達が我先に逃げ出すことは問題だろうというその一方で、彼を、颯を置いていくことが、酷く可哀想なことのように思えたのだ。
「ダメだった……」
膨張と圧縮を繰り返し、常に爆発を起こし続ける竜巻の中、颯は少し落ち着いた声で言った。
「早く帰らなきゃって...頑張ったのに……」
「…………」
吹き荒れる黒い魔力の渦が、颯の姿をだんだんと視認し難くさせていき、内部の様子はここから確認できるものではなくなっていた。
彼が作り出していたその竜巻が、いつしか彼を飲み込んでいたのだ。
そして、その竜巻が流華たちのすぐ目の前まで巨大化した時、ただ一人、一歩前に踏み出した者がいた。
「な……何してるんだ、楓君……?」
「決まってんでしょ。これを終わらせるのよ」
楓であった。
触れるもの総てを切り裂く竜巻の中へ、全身に闇を張りながら、しかしそれでも、その身体に決して浅くない傷をつけながら、その内部に侵入していった。
魔力など持たぬ人間であれば一瞬と保たずに細切れにされていたであろうその竜巻に、楓は顔を顰めた。さしもの楓であっても、この竜巻には激痛を覚えたのだ。
「……っ」
一歩、また一歩。
更に表情を歪ませた。
それは竜巻の中に起こっていた極度の重力であった。地球の重力の数百倍の衝撃が、楓の身にのしかかったのだ。
近付く者の全てを拒み、戮殺せんとするその竜巻の中を、それでも彼女は重い足を上げて前へと進んでいく。
悲鳴や怨念、呪詛のような叫び声、そんなものを思わせる様な、頭を鋭い針で突き刺されるような不快な豪音が、幾重にも重なって響いていた。
「姉さん……」
颯が楓を見た。楓を見ているハズであるのに、目は合わない。
虚ろな目で、どこか遠くを見ていた。
「颯……」
楓は颯の姿を確認すると、中心に近づくにつれてその激しさと凶悪さを増す竜巻の中を、ただ真っ直ぐ、自身の身体が血塗れになっていることなど厭わず進み続けた。
四方八方から攻撃が飛び交い、それは楓に弾かれていく。
攻撃をしていたのは颯の意志ではなく、それとは別の何かであった。
颯に近付くことを警告でもするかのように、ドロドロとした攻撃は、的確に楓を狙っていた。
「…………」
「…………」
そして楓は、颯の目の前まで来ると、何も言わずにその顔を見ていた。
颯もまた、無言のままであった。何を考えているのかもわからないような顔を向けていた。
そして、楓は颯の身体を、真っ赤になった腕でそっと、抱きしめた。
「おかえり、颯」
放たれたのはそんな短い言葉。だが、それだけで十分であった。
「────っ、ぁ……ぅ……、……うん…ただいま、姉さん……っ!」
息を吸おうとして、それが上手くいかず、声を詰まらせた。
颯の目からは大粒の涙が、その頬を流れ、零れ落ちていく。
そして、嗚咽を混じらせながら、颯は声を上げて泣き始めた。
「どこ行ってたのよ、アンタは」
「……レクス王国」
「本当にどこ行ってたのよ…」
魔力はゆっくりと落ち着きを見せ始め、颯が泣き終えるころには、竜巻も何もかも、すっかり収まっていたのだった。