狂人
「っぷ......オエェェェ......ケホッ......」
颯が消えてから2週間ほどが経過した。
楓は帰宅後、靴を脱ぎ捨て一目散にトイレに駆け込むと、嘔吐した。
トイレの便器に手をつき、涙を流しながら、胃の中のものが出ていくのを、ただそれに任せるのみであった。
一度目の波が収まると、ニ度目はすぐにやってくる。喉はイガイガとし、口内は不快感で満ち満ちていく。
そうして胃液さえ吐き始めるころ、ようやく彼女は落ち着きを取り戻し、息を整える。
「はぁ……はぁ………っ…」
彼女は連日こうであった。思い出す度、吐き気がする。
常人ならこんな状態、数日と持たないかもしれない──そんな精神状態で、自分さえ騙しながら生きている。それこそ、悪魔が同情するほどに。
しばらくしてトイレから出ていくと、洗面所で口をゆすぎ、階段を上がる。
そんな背中を、精霊と悪魔が見ていた。
「我がその精神を乗っ取れなかった理由を見せつけられているようだな」
悪魔は呟く。
ヴェルザはほんの軽い気持ちで彼女の精神を支配しようと試みただけであったが、その相手がここまでの傑物であったことに、自身の愚かさを感じさせられていた。しかしそれを、どうにも悔しいとは思えなかった。
「悪魔憑きになったことの影響が大きいとは思いますが、確かにそうですね。はっきり言って正気の沙汰ではありません」
精霊は答えた。
現在の彼女の状態は、エルゼから見ても常軌を逸していた──もとより、悪魔をその間に宿してその自我を保っていられるような人間ではあったのだが。
「強いようで弱い。あの小僧がそれほど大きいのだろうがな」
「だからって……あんな…...あんな選択……」
楓はあの日以来、目に見えて憔悴していった。顔色は悪く、声も上手くは出せない。周囲が心配し始めるまでに、それほど時間はかからなかった。
だからそれを隠すための、一つの選択をすることになった。
「………………」
ズズズ、と何かを引き摺るような音がして、エルゼとヴェルザは2階に上がった。
楓が壁にもたれながらゆっくりと前に進んでいた音であった。
部屋のドアを開けると、誰もいないその部屋に入る。
カーテンの閉ざされた真っ暗な部屋の中を、電気も付けずに進んでいき、制服のまま、目の前のベッドに身を投げた。
すっかり楓の匂いの染み付いていたそのベッドの上で、彼女はすすり泣いた。
連日再放送のように繰り返された光景であった。
「どうすればいいんでしょうか……」
「どうもできん。あの小僧が何とかして帰ってくるのを祈るくらいだろう」
まさか我が祈りなど捧げよう日がくるとは──と、ヴェルザは言ってから自嘲した。
「颯くんならどこに飛ばされたところで死ぬことはないと思いますけど……帰ってこようと思ったら、また別ですよね」
「だろうな。あの小娘が次元を超えるような魔法を使えたとはな──全く、追い詰められた者の力というのには驚かされる」
ヴェルザは思い返す。あれは怠惰の悪魔がどうとか、そういう話ではなかった。
逃がしたい、という強い想いの結果であり、それが颯にぶつけられてしまった事が、このような事態を引き起こしていたのだ。
「颯くん……異世界とか好きそうですし……向こうで楽しくやってたりしなければいいんですけど……」
「……それは無いだろうが、想像できるな」
溜息が重なった。
颯がどんな世界に飛ばされたのかはわからない。
しかし、まだ存命であることからも、何かしらの行動をとっていることは確実である。
だが、それが必ずしもこの世界に帰ってくるための行動をとっているとは限らないのだ。
まさか颯よりも強い存在がいるとは思っていないし、負けて囚われているなどという心配はしていない。
エルゼが与えた力というものはそういうものであった。
代償はあるが、絶対の力。
敵を屠るためだけの──精霊の与える魔法。
しかし、最も可能性の高い最悪な事態として、颯が向こうでの生活に楽しさを見出してしまうことがあった。颯がそういった異世界であったりのファンタジーに心躍らせるタイプの人間であることはなんとなく察している。ホームシックにもなるかもしれないが、颯は颯で存外適応力が高い──だからこそこんな環境に身を置くことさえ数日足らずで慣れてしまったのだから、それ自体をどう言える話でもないのだが。
ただやはり、向こうの生活にも慣れてしまえば早々に帰ることを諦めて、そのまま向こうに骨を埋めてしまうのではないかと、そんな懸念はあった──間違ってもそれを楓に言ったりはしなかったものの、和食が食べたいだとか、ゲームがしたいだとか、そんなくだらない理由でもいいから戻って来てほしいと、エルゼはそんなことを考えていた。
そして、再び楓に視線を戻した。
楓は何をしたのか、どのような選択を取ったのか。
それは、颯を忘れるという事であった。
周囲に違和感を持たれることで万が一のことがあればいけないと、楓は周囲同様、颯の事を忘れたのだ。
そうすることで、日中学校にいる間に限っては、何事もなかったかのように平然と振舞えるからだ。
だから楓は毎朝自身に呪いをかける。家に帰るまで、颯を忘れてしまうという呪いを。
完全に忘れられれば楽だったのだろう。
しかしそれは、それだけは、絶対にできなかった。
両親が颯をいなかったものとして過ごす姿を見て、自分がこうなるわけにはいかないと、こうなりたくはないと、そうすることを選んだ。
だがその呪いは強力である。家に帰った途端に、その反動が一挙に襲い掛かってくるのだ。忘れていたことを思い出して、そんな風に普通に過ごしていた自分を思い出して、込み上げる物を吐いていた。
毎日、毎日、毎日。
とっくに気は狂っていた。
もはや、こんな選択をする時点で彼女はどうしようもなくおかしかったのかもしれない。
近くにいたルミナスを捕まえると、彼女はそれを抱きかかえて独り言ちる。
普段は抱っこを嫌がっていたルミナスも、流石にこの状態の楓を見て、それを嫌がる様なそぶりは見せなかった。
されるがままに、壊れたラジオの様に繰り返される独り言を聞き続ける。
「ナウ...」
「颯……」
そしてその1週間後、真の下に向かった悪魔憑きが1人破壊されたという話が上がり、残るは最後の1人。
未だ戻らない颯を思いながら、彼女は狂った日々を送る。




