殺戮
ノアマ皇国に漆黒の魔人が現れた。
その日の明朝、そんな情報が上層部を駆け抜けた。
以前からフルーエル聖王国及び聖教としては、5年ほど前に出現し、その一部では信仰を集めている漆黒の魔人に対して危機感を抱いていた。
人間を束ね魔王を倒すという目的を持つ聖教は、人々が勇者以外に絶対の存在を見出すことを恐れていたのだ。
勇者の力をも圧倒し、勇者が手を差し伸べられないような範囲で人助けをしていた漆黒の魔人は、人々から感謝され、崇められた。
それは目撃情報こそ多かったが、素顔はあまり知られていない存在であった。
しかし、少ないながらもその顔を見たという人間も存在し、それによれば黒髪黒目の人間であったと、そんな話だけが残っていた。
圧倒的な戦闘力を持ち、特徴的な黒髪黒目を持つ人間。聖教はこれがノアマ皇国の者だと5年前に断じ、それについての抗議をしてきていた。
しかし、帰ってきた返答ではそんな存在は知らないの一点張り。互いの関係は険悪になる一方であった。
だがそれも、少し前から漆黒の魔人がぱったりとその姿を見せなくなると、大陸も聖教も落ち着きはしたのだった。
その際、漆黒の魔人が魔王側に着いたなどの噂を流したのは、人々がそれを信仰の対象にしないようにとの思惑があったと言える。
そんなこんなでここ数年は特に何もなく、強いて言えば恒例行事のように勇者を大陸へと送り出したくらいのモノであったのだが、ここ数日でその穏やかな日常は終わりを告げた。
大陸が覇者、レクス王国内にて漆黒の魔人が出現したとの報告が上げられていた。
それは数少ない噂と同じく、黒髪黒目の圧倒的な強さを誇る──人間の様な何か。
当初は王国が手古摺っていた盗賊団を壊滅させたというだけの話で、そこまで重要視されてもいなかった。自分達より強い存在を見て、それをただかつての漆黒の魔人の再来だと民が騒いでいるだけと、そう考えていたのだ。
が、赤竜をも殺してみせたとのことで、それは緊急事態として扱われることになった。
聖教も、その畏怖などから信仰心を集めていた赤竜を敵視してはいたが、それでも手は出せなかった。
当然だ。
そんなことをすれば国が滅びかねない訳で、勇者とて赤竜には勝つことができない。
だがそれが、各国が、人類のその総てが畏れていたそれが、いとも簡単に殺された。
これが緊急事態でないというのなら、この世には最早緊急事態と呼べるものはないのだろう。
ここ数日はその姿も報告されていなかったが、先日グラトニア共和国が滅んだのは恐らく無関係ではない。天から炎が降り注ぐ悪夢のような光景が報告されたということで、その話は下々にまで行き渡った。
そうして日夜対策が講じられていた中、再び報告が上げられた。
漆黒の魔人がノアマ皇国に出現した、と。
この両国は海を挟んで向かい側にある。決して近いとも言えないが、隣国である。
聖王国、そして聖教の重鎮達が派閥などの柵を排して一堂に会し、それに対してどう当たるかを協議した。
その結果、戦争となった。
あまりに性急な判断だったが、ここで叩かなければ次に滅ぶのは自分達であると、そう結論付けたのだ。
そして宣戦布告もなしに兵を送り込んだのがつい先刻の事であったと、とある兵士は思い起こす。
彼は聖教本殿を守る衛兵であり、戦場に赴くことはなく、それを内心安堵していた。
ノアマの人間の強さを知らない訳ではない。彼らとて、かつてノアマに手を出したレクス王国がどうなったかは知っていた。
だからこそ、勝とうが負けようが戦場に赴いた時点で命はないと、そんなことは皆分かっていたからだ。
だがしかし、本当の地獄は戦場などではなく、フルーエル聖王国本土であったのだ。
「敵襲ぅーーーッ!!」
それは突然の事であった。
本殿南側についた扉口を護っていた彼は、太陽を背にした1つの黒い影を見ていた。
その黒い影は、何かを探すようにキョロキョロと首を動かしていた。
何かを叫んでいるようにも思えたが、声は聞こえないし、逆光の所為で顔もよく見えない。
だが彼は何かを直感していた。
「あれは…もしや……」と、消え入るような声で呟いた。
「続けーーー!!」
「迎え撃てぇッ!!」
「異端者に死を!!」
本殿からは衛兵を含めた多くの兵が流れるように出てくる。
その中には聖堂聖騎士と呼ばれる白銀の鎧をまとった精鋭や、人類の英知と呼ばれる教会魔導士の姿も見える。並々ならぬ戦力のお出ましであった。
それでも彼の心に安堵が訪れることはなかった。
もし、この相手がただの野盗などであったならば、この兵力を差し向けるのは過剰戦力と言う他なかっただろう──非人道的とさえ言える。
だが、もし今見ている相手が彼の想像通りだったならば、どれだけ兵を並べたところで勝てるわけがない。
赤竜にだって当然太刀打ちできない、その程度の戦力でしかないのだから、それを殺したであろう存在に、彼らが勝てる道理はないのだ。
しかし、誰かが先走って矢を射かけたことで、それは始まってしまった。
その黒い影は地面に降り立った。着地地点で大きな音が上がり、爆発したようであった。
前方で槍を構えていた兵の何人かがその風圧だけで弾き飛ばされた。それも横にではなく縦に。竜巻がモノを巻き上げるかのようにして、兵達は空へ打ち上げられた。落ちてくれば無事では済まないだろうし、彼もまた、無事で済ますつもりなど毛頭ないのだろう。
そこで初めて黒い影の姿がはっきりと見えた。黒髪黒目の少年であった。
────漆黒の魔人だ。
黒髪黒目の少年など、ノアマに行けばそこら中にいる。
だが、ここまでのオーラを放てる人間がそうでない訳がない。そうでなければ他に何であるのか、彼には皆目見当がつかず、そう判断した。
それは自然なことで、仕方がないことで、根拠などそれくらいしかなかったにもかかわらず、正解であった。
彼はやはりノアマの人間だったのか、戦争の報復としてこの地に来たのか、グラトニア共和国が滅んだのも似たような理由であったのか──様々な考えが、その兵の脳内を駆け巡った。
視界の先では、先頭にいた兵達の首が飛び上がり、真っ赤な血が噴水のように噴き出た。
それを合図とし、それ以外の兵達も次々に斬りかかって行く。右から左から、陰に隠れて背後から。
しかし、それは全て予知されていたかのような動きで、それも必要最低限の動きだけで容易く躱され、斬りかかっていった兵はその命を散らしていく。
前から後ろから上空から、四方八方からの攻撃は何一つ届くことなく蹴散らされ、漆黒の魔人はそれを歯牙にもかけない様子で、ゆっくりと歩き出す。
建てられた左右の柱に隠れてタイミングを窺っていた2人の兵が、目線で合図し斬りかかるも、漆黒の魔人はその剣が振られるよりも早く、一歩身を引いてそれを躱す。
そして、2人の首は刎ねられる。
すると、老練の教会魔導士が漆黒の魔人の真横へと飛び出た。その手元には杖ではなく水晶を埋め込んだ箱が構えられていた。予め大魔法を仕込んでおいた使い捨ての魔道具を発動させて浴びせるつもりなのだろう。
アレの値段は詳しくは知らないが、噂では貴族の住むような豪邸が2、3軒は建てられるという話で、例え値段が分からずとも、そんなものを切るという事がどういうことか、それが分からないワケではない。
しかし、魔法が発動された瞬間──否、発動されるよりも早く、それを覆い尽くすような巨大な魔法が放たれ、魔導士ごと消し去ってしまった。
魔法は漆黒の魔人の手に握られた剣の先から発動されたように見えた。
本来ならあり得ないことであった。あれは剣としても使える杖だったというのか。
他の魔導士はそれに尻込みすることなく魔法を放つが、剣を一振りするだけでそれは薙ぎ払われた。
そこで初めて、聖堂聖騎士が前に出た。
彼らは一般の兵が束になっても絶対に勝てないだけの技量と力を持った騎士であり、そんな存在故にミスリル製の強靭な鎧を支給されている。
彼らが前に出たということは本来それだけの大事を意味し、敵対者の絶対的な死を意味していたはずであった。
しかし、彼は目に映った光景に自身の正気を疑った。
斬りかかった聖堂聖騎士の、ミスリルの鎧が真っ二つに裂けたのだ。
それは次々に、テーブルの上に置かれた物を腕でどかしていくかのように、そんな風にいとも簡単に薙ぎ払われたのだ。
聖堂聖騎士が負けた。その時点で彼らは天地が逆さになったとしても勝ち目はない。
それでも自分達に逃亡などという選択があるはずもない。
聖堂本殿までの通路がただ濁った赤に染まっていく。
ある人は震える身体を落ち着かせながら、またある人は発狂しながら、漆黒の魔人に斬りかかっていく。
だが彼は、どんな人間にも平等に、まるで赤子を撫でるかのように優しく剣を払い、等しい死を与えていく。
そこに凡そ技と呼べるものはなかった。しかしどうしてか、それは見惚れるほど綺麗な剣であった。
「こんなものが見れたなら……悪くなかったのか……」
その兵は剣を構えた。そして足を一歩踏み出し、紅き霧と化して大気を舞った。
「お邪魔しまぁす」
そして、血で作られたレッドカーペットをペチャペチャと歩く漆黒の魔人は、聖堂の大扉を蹴破った。