大事なモノ
俺は逃げるようにして、共和国からカトリーナの屋敷にまで戻っていた。
アレが何であったのかというのは俺には分からないし、それでも結局のところ、俺がこの世界から帰ろうとしていることを知っているかのような口ぶりであったところからも、そう遠くないうちに俺はあれと再会するのだろうと、何故だかそんな気がしてならない。
俺が心配しているのは、アレが俺の敵なのかどうかということで、俺はそう言うのとは少し違うのではと考えていた。
別に根拠があったわけではないし、ただ敵意みたいなものを感じ取れなかっただけという話でしかないのだが、そういった甘いというか楽観的な、希望観測的な考えがあったせいでこのような行動に出た事を思うと、その考え自体も捨て置いて対処すべきなのだろうなとも思う。
どちらにせよ、俺は意識改革をしていかなければならないのだろう。
敵ではないと断言するわけでもないが、ただ、俺の邪魔をする奴ではなさそうだというのは恐らく希望観測的な考え方ではないと思う。アイツが止めようとしたのはあくまでも俺の行為そのものだったわけだし。
当然、こういう考え方が甘いのだと言われてしまえば否定もできないのだが。
「邪魔するようなら、そうするだけか」
俺はいっそう速度を上げると、ボロボロに崩れ落ちた鉱山を尻目に、さらに西に向かう。
何かしらの補填というか、償いみたいなものは考えたほうがいいのだろうか。
壊してしまったのは俺なわけだし、でも魔族を殺すための被害だからあんまり怒らないで欲しいなという思いもあったり。
それと、戻ったらそろそろハッキリさせないといけないこともある。
用事を済ませたら俺はここを出よう、1人で。
それから、まだ勇者たちが王都に着くまでには少しだけ時間があるし、この大陸の南方にあるとかいうノアマ皇国に行ってみよう。
何でも漁業の国らしく、生魚を食べる文化もあるらしい。
この世界の衛生観念で生魚とか言われるとおっかない気もするが、昔からそうらしいし、問題があったら食ってもいないだろう。
まぁ、俺自身の問題はあるのだけれど。
俺はずっと綺麗な環境に身を置いてきたというか、そういう文化の下で暮らしてきたわけだから、激しい汚れだとかにそう強い耐性があるわけではない。
日本人が外国に行ったら簡単にお腹壊したみたいな、そういう可能性が無いわけではない。
わけではないが、それはそれとして俺はやはり食べに行きたいのだ、魚を。
食事というのはそういうものだ。何の危険もなく安全に命を喰らおうなど烏滸がましいにも程があるというもの。食事というのはいつだって命懸けなのだ。
俺は寿司を食べる為なら命を賭けよう。覚悟は固かった。
で、屋敷に戻ってきた。
屋敷のバルコニーで外を眺めるカトリーナの姿を見て、俺はその背後に降り立った。
「よっ……と」
「ハヤテさん……」
「ただいま、カトリーナ……?」
彼女の顔が悲しそうに歪んでいることに気が付き、俺は不思議に思った。
やはり鉱山の事、俺は怒られるのだろうか。そう思い先手で謝ったのだが、彼女はそれに関しては怒っていなかった。
「あそこにいたのが自分のこと四魔将とか言ってたから全力でやった方がいいかなって…その…」
「それは良いんです。頼んでもいないのにやっていただいて、それで文句をつけるほど愚かな女ではありませんもの」
「……だったら何でそんな──」
「ハヤテさん。貴方ですわよね、共和国を攻撃していたのは」
それは責めるような、咎めるような、悲しい声色であった。
「情報が速いんだな」
「あんなに派手な魔法が見えれば、何が起きていたかくらい分かりますわよ…!」
「………そっかぁ。見えてたかぁ」
「ハヤテさん、何で、何でそんなことしたんですの!」
「怒ってる……?」
「怒っては……怒ってはいませんわよ……でも……こんなの、こんなのおかしいですわ……」
「おかしいか……」
自分でも思わなかったわけじゃない。ただ、何でかこっちに来てから──いや、初めからではなかったハズだが、いつからか行動に歯止めが利かない。
我慢できない訳ではないが、帰ることが第一になり過ぎているのか、自分が敵だと判断したものへの容赦みたいなものが完全になくなってしまっている。
それが悪いとは思わない。現にこっちの人間に対して俺が求めていることなんざ、俺が向こうに帰るための道具としての役割しかないわけだし──それが悪いことだと言われれば、否定もしないが。
そんな中でもこうして関わる人間がいて、それを守ろうともしているわけだから、こうして矛盾めいたものが自分の中にあるのかもしれないけれど。
人間、生きていれば、色々やっていけば、矛盾のいくつかが生まれるのも当然なのだろう。
だからこの場合、俺が反省すべきはそこではないのだろう。
そして、カトリーナは口を開いた。
△▼△▼△▼△▼△
「何でこんなことしたんですの…!」
カトリーナは尋ねた。
彼女は颯が人を殺すのに躊躇が無いことに、ここまでの道の途中でも、ある種の恐怖を感じていた。
襲い掛かってきたから、自身の命を脅かすから、自身を守るためにそれを殺す。
当然と言えば当然だが、彼はそこに至るまでの判断が早すぎた。
魔物も、人間も、まるで等しく同じものであるかのように、家に沸いた害虫を駆除するかのように、それを殺していった。
そのおかげで自分がここまで無事に帰ってこられたのは事実であったし、自身が敵に囚われ、父や兄の居場所を吐かせようと拷問をされていた時にも、颯はそれを助けてくれた。
それを無視して彼を責めるようなことはできなかったが、なら何も思わないのかと言われればそうではない。
彼はたった一晩で国を亡ぼしてきた。
それについて目の前の彼は悪びれる様子もなく、ただ平然としていた。
それを目の当たりにして「そうですのね」で済ませられるほど、彼女は非情な人間ではなかった。
むしろ、周囲の貴族から蔑まれるような環境で育っていたことが、彼女を貴族らしからぬ人間性に作り上げていた。
そうして、責めることができない状況と、それでも心の内で感じているものとの間で葛藤していた。
しかし、彼からの返答は彼女にとって思わぬものであった。
「大事なものに手出されて、タダで許すわけないだろ」
「……ふぇ………?」
大事なもの。颯は確かにそう言った。
カトリーナは自身の頬に手を当て、それが信じられないほどに熱くなっているのを感じた。
まだ日は登り切っていない。
朝の冷たい空気にさらされたその白い肌が、こんなに熱くなるはずがなかった。
彼女はバルコニーの外側に顔を向けた。それは外を見る為ではなく、顔を背けるため。
鏡は無いが、今、自分の顔がどうなっているかなど想像するに容易かった。
彼女とて、貧乏な水吞伯爵だと馬鹿にされることはあったが、それでも貴族は貴族。
その容姿もあり、これまで1度も求婚されなかったわけではない。そう言った申し入れはあるにはあったのだ。
しかし、それはそのほとんどが、力を持っただけの商人や平民などが貴族位という絶対の地位を求めてするものでしかなかった。
貴族と平民との間には絶対の壁がある。
例えどれだけ美形であっても、どれだけ財産を持っていたとしても、武に優れていたとしても、学に精通していたとしても。
その人間が平民である限りは絶対に貴族の上に立つことはできないし、あってはならない。
貴族は貴族であるだけで、美しく、豊かで、強く、賢いのだ。どこでどう劣ろうと、平民が貴族に勝ることはない。それを許せば秩序が乱れるからだ。
だからこそ、どれだけ商才のあるものでも、その人間が平民である限りそこに特権などが生まれることもなく、それを打破したければ貴族と関係を持つしかない。
貴族家に取り入り地位を得る。そうしなければ出来ることには限りがあるのだ。
尤も、その分貴族には下の者を守る義務が生まれるわけで、そう言った関係故に守られる人間もいるのだが。
そういう目的の見え透いた求婚ばかり受けていた彼女は、いつしか自由な恋を求めることなど諦め、その日が来るのをただ黙って待っているだけであった。
想いに蓋をし、心に壁を作り、それを氷の棺に封じ込めて。
そんなカトリーナに対いて放たれた颯の言葉は、彼女の作り出した氷の棺を溶かしていくようであった。
当然、国を滅ぼしたことを肯定するわけではない。
しかし、それでも、向けられた想いは彼女にとって凡そ初めてのものであり、その顔はなおも紅潮し続けていく。
「…………」
カトリーナは昨日渡された金の魔道具に目を向けた。その時は何気なく受け取ってしまっていたが、彼女は思い出した。
錆びぬことのない黄金を相手に渡すことは、相手への永遠の愛を意味する──という話があったことを。
それは若い貴族令嬢同士で囁かれていたただのお呪いのようなものでしかなく、当時は適当に聞き流していたカトリーナであったが、今はそれが脳裏にチラついて仕方ない。
それが蛇の形を模していたことも、カトリーナにとっては考えずにいられないことの1つであった。
蛇というのは獲物を縛り付ける生き物であり、嫉妬の象徴でもある。
颯からすれば友好の証として貰って来ただけの品で、故に完全な偶然でしかなかったわけだが、これまで恋愛そのものを封じ込め、今その強烈な反動を受けていたカトリーナにとっては、何もかもが意味深長であった。
これは自分に対する束縛願望なのではないか、自分以外を見るなと言う宣言なのではないか。
そんな風に思えて仕方がなかった。
頬に当てた手は、未だかつてないほどの熱を感じ取っている。
そんな興奮の冷めやらぬ彼女であったが、同時にこれが呪いであるとも感じていた。
彼は元の世界に帰らなければならないと言っていた。それはもう、すぐにでも。
だからこそ、自分が初めて本物だと思えたこの想いが叶わぬことに、彼女はやはり悲しい顔を浮かべた。
それでも、救われた命でいい思い出が出来たと、彼女は微笑みを浮かべて、登ってくる朝日を眺めるのであった。
「……俺の大切な時間何日も使わせて、最後の最後で台無しにされたらそりゃ怒るに決まってるでしょ」
颯が小さく呟いたそんな一言が、彼女の耳に入ることはなく。