姉戦
姉が消えた。
俺は朝起きて部屋を訪れた。昨日のことを早いところ謝りたかったから。
あんなんだけど、なんだかんだ心配してくれるいい人だって思ってたから。
なのに、姉はそこにはいなかった。
部屋は荒れ、窓が空いていて、もうすっかり生温くなった風が吹き込んでいた。
泥棒でも入ったかと思ったがコレは多分違う。
じゃあ……何だ……?
それを考えていると、焦った様子のエルゼが飛び込んできた。
「颯くん!!!大変です!!!」
街にヴォルスロークが大量発生したのだと言う。
なんてったってよりにもよってこんなタイミングで──こんなタイミング?
俺は顎に手を置き、これまでの事を思案した。
違う、もし偶然じゃないとすれば。
部屋は確かに荒れているが、誰かが入り込んだとは思えない。何かが持ち出された様子もないし、姉が消えていることの説明にならない。
窓も割れてはいない。多分、姉が自分で開けたのだろう。そしてそこから出て行ったと考えていいと思う。
次にヴォルスローク。
昨日、レイザは言った。自分ですら抵抗できないような力の持ち主だったと。
アレは天候を変えてしまうくらいの存在だ。それ以外に彼女の実力をこの目で見たわけではないが、明らかにギドラスとかよりは強そうだったし、エルゼもそれなりの評価を下していた。
そんな奴が気をつけろと言った相手だ。
なら、それが姉だったと?
──それは違うだろう。即座に否定できた。
あの人は街路樹くらいなら頑張れば脚で圧し折れるような人だが、正真正銘の人間だ。
だとすれば、だとすれば。
俺はグルグルと頭の中を回っていた考えがピタッと止まるような感覚がして、呟いた。
「悪魔?」
エルゼが言っていた。人の心の弱い部分に漬け込んでその肉体を手に入れる存在だと。
それなら、姉が人間でありながらヴォルスロークを呼び出した犯人だとしてもおかしくはないのではないだろうか。
あの人の心が弱いかと言われれば微妙だが、この所どこかおかしかったのは事実なわけで。とすると、昨日のアレが引き金になって暴走した?
だとするとあの人は悪魔に心を──マズい、マズいマズいマズいマズいマズい!
取り返しが、つかなくなる。
エルゼにその推論を伝えると、目を大きく見開き、大慌てで外へと飛んでいった。俺もすぐさま変身すると、それに付いていく。
「邪魔だァァァァアアアアアッッ!!!」
姉さんがどこに行ったのかは分からないので、魔物共を殲滅しながら探し回る。
その途中、姉の行きそうな場所を思い出した。
この街の、我が家から見て東にある、山とも丘とも呼べる小高い場所。
昔嫌なことがあるとすぐそこに行って大声で叫んでたんだっけ。それでスッキリしたら帰ってきて何食わぬ顔で食卓について。
だからなんとなく、そこにいる気がした。
思い立ったが吉日、もう既に最悪ではあるが。
俺は目についたヴォルスロークを消し去りつつ、遠目に黒い魔力が吹き荒れるのを見て確信し、丘へと飛行速度を上げていった。
△▼△▼△▼△▼△
「やっぱりいた…姉さん…?」
そこに居たのは真っ黒な魔力で覆われた人の影。禍々しい事この上ない姿ではあったが、どうしてかハッキリ分かった。
アレは自分の姉だと。
「は、はや、てくん…」
だがそれを見たエルゼは今までに無いほど苦しい顔をしていた。
「もう…もう、間に合いません…!」
「…………え?」
嫌な報告を聞いてしまった。考えられうる限り最悪の報告を。
黒い魔力は姉を覆い尽くし、新しく何かに目覚めようとしている。
蝶へと羽化しようとする蛹のような存在なのだろう。表面がボコボコと突き上げるように蠢き、全体として揺らめいていた。
「エルゼ…」
呼びかける。
自分でもこんなに冷えた声が出せるんだなと、こんな状況でそんな事を思った。
「は、はい…?」
「お前、エリートだって言ってたよな」
「は、はい…」
「探せ。助ける方法を」
「無理ですよ!こうなってしまったらもう…手は…!」
「探せよ。もし……見つけられなかったら──!」
何を言おうとしたのだろう。
何もかも終わらせてやると、そんなことを言おうとしたのだろうか。
そんな俺の声を遮るようにエルゼが答える。
「……っ、わ、分かりましたよ!今までの定説をひっくり返せってだけですよね!やってやりますよ!」
それでいい。
こんなことに巻き込まれた挙句に身内を殺せだなんて、俺はどうなるか分からない。
この前話した時はあんなこと言って強がったクセに、いざこうなったらすぐこれだ。
ホント、つくづく自分の意志の弱さが嫌になる。
「……ッ!」
「グルァァァァァァッッッ!!!!」
繭のような形になっていた魔力の塊から、寝坊助な姉さんは目覚めたらしい。
肌は魔力で黒く染まり、眼は赤く光り、こちらを睨んでいる。しかしまだ少し、所々ではあるが
エルゼが解析し終わるまでの時間稼ぎだ。
クソ悪魔め、どんなやつか知らないが…
「まともに死ねると思うなよ……ッ!」
「アァァァァァァァッッッ!!」
目覚めの一発。なのかは知らないが、挨拶代わりに飛んできた魔力弾の雨を避けると、魔力を込めた脚で蹴りをかます。
向こうは殺す気で向かって来るわけだが、こっちは向こうがどれくらいの攻撃になら耐えられるのかを試していかないといけない。本気で、全力で手加減をしなければならない。
負けるわけにはいかない。でも絶対に、それ以上に、勝ってはいけないのだ。
どう考えてもこちらにとって不利すぎる勝負ではあるが、だからどうしたというのか。
確かに、地球を救うだとか言う使命は、俺にはどこか縁遠い話だった。
しかしこの人は文字通り縁の近い、それこそ血縁の人間なわけで、それを救わないなんて話はない。
「コレくらいならまだ全然余裕みたいだ、なっ!」
「グガァァッ!」
さっきの蹴りの2倍、3倍、4倍、5倍と、威力とスピードを段々と上げていく。
こっちだって無傷では無く、蹴りを入れた脚を掴まれ投げ飛ばされたり、至近距離で魔力を爆発させられたりと散々だ。
開始早々ボロボロにされて情けない事この上ない。
と、こちら側が一方的に攻撃を仕掛けていたが、向こうがそんな状況を許すこともなく。
こちらもこちらで防御に徹するターンが来た。
「グルルァァッ、ガアァァァッッ!!!」
「全てを包む優しき風よ!守れ!ガードウィンド!」
どこからともなく放たれた闇魔法の雨、それを風魔法で弾き返していく。
ただこれも、向こうが放ったタイミングでそれを防ぐ用意をしている時点で完全に間に合ってない。
向こうは耳の痛くなるような咆哮と共に魔法を放ってくるのだ。
いちいち呪文を唱えなければ魔法の1つも出せない俺と比べると大したアドバンテージで、全くもって羨ましいんだか忌々しいんだか。
というか、こちらの魔法が不便すぎるだけかもしれないが。
そうして獣のようになってしまった姉さんと殴り合い蹴り合い、魔法の撃ち合いをしながら時間を稼いでいると、その内意識をモノにしたのか雄叫びを発するのをやめた。
その代わりに聞こえてきたのは姉の声ではなく、
「ガァ、ああ…んんっ、ふむ、こんなものか」
悪魔のものと思われる、低く悍ましい声であった。
「…っ!お前、誰だっ!!」
「ん?我か?我はヴェルザ。本当はもう少し長いが、今はそう呼ぶといい」
「…っ、姉さんから出てけっ!!」
「出ていけと言われて出ていくのなら、初めから乗っ取ったりはせんだろう」
「何で、何で姉さんなんだ」
「何故…か。至極単純な事、この娘に可能性を感じたからだ」
「可能性…可能性?」
「ああ、我にとっては十分な理由だ」
「ヴォルスロークを呼び寄せてたのもお前か…!」
「あぁ、それはすまんな。ワザとではなかったのだが……我の魔力に引き寄せられたのだろうな」
あっさり認めやがった。
でもそうなると、ずっと前から悪魔にその身体を乗っ取られていたということになる。時間をかけてゆっくりと侵食されていき、それがついに今日、となる。
ならなぜそれに気が付くことさえできなかったのだ。
クソが。クソがクソがクソがクソがクソがぁっっ!!!
怒りが収まらない。
怒りだけじゃない、目の前で姉の体を使って、それを悪びれる事もせずにいるこの悪魔への憎悪が。
激しい悔しさが。
激烈な殺意が。
「しばらく覗かせてもらっていたが…小僧、お前は落ち着いているようで感情的だな」
「あぁ!?…だったら何だっ!」
「いや、何も。若さ故の情熱だと考えれば健全なのだろうが、その感情を素直に姉にぶつけていれば…こんなことにはならなかったかもしれないなぁ?」
「っ!!この……クソ虫がぁぁぁっっっ!!!!」
我慢出来ずに蹴り掛かっていった。
煽り耐性が無いと言われればそれまでだが、仕方がないだろう。
「ハッ、小僧。まだ諦めてないんだな」
「なにが悪い!」
魔法の応酬の中の問答である。
「悪くなどない、微かな可能性に賭けるのは我も同じこと。存外仲良くなれるかもしれんな…!」
「死ねやぁぁっ!!!」
怒りのままに殴りかかった。ハッキリとした風切り音が聞こえてくるほどの速度で、自分自身腕がぶれてしか視認できないような速度で、その拳は打ち出された。
「──ッ!?」
当たった、そう思った。
と言うより、外す距離じゃなかった。
だと言うのに、攻撃はまるですり抜けたかのように回避される。
「我は悪魔のヴェルザ、確率の操作には自信があってな」
そう言って悪魔は楽しそうに嗤う。それは俺を嘲笑するような笑い方ではなく、どこか自慢げにするような、そういうものであると感じられた。
「確率の…操作……?」
当たる攻撃を外させて、当たらない攻撃を必中にすると。
チートか何かか?
何から何まで全部イライラする。
「死ねぇぇぇっっ!!!!!」
「億兆の弾丸!」
が、すぐに対処されてしまう。
そう簡単に隙を見せるような相手ではないと、分かってはいるが腹が立つ。しかし乗っ取ったばかりだからか、動きというか全体的な立ち回りとでも呼べるものに、どこかぎこちなさを感じる。全く可能性が無いわけではないと、俺の攻撃は加速した。
それにしてもエルゼの解析はまだか?
俺は目の前の敵に集中しつつも、背後のエルゼをちらと見た。さっきまでなら時間稼ぎも出来ただろうが、このド腐れゲボカスチーター相手だと持たない気がする。
「避けてんじゃねぇぞゴミがッ!!当たんねぇだろうがァッ!!!」
「その程度でよくも助けるなどといえたものだな。身の程もわきまえず立ち向かうというのは、見上げた精神だと思うがな」
「……チッ」
苛立ち。頭に血が上っていくと、髪が燃え上がっているかのような感覚を得た。脳の毛細血管が破裂しているのではないかと思えるほど、激情に猛っていた。
だが実際その通りでしか無い。でも、意地でも、例え死んでも認めるわけにはいかない。俺はこのクソ悪魔をぶち殺して姉を──姉さんを元に戻す。
そしたらちゃんと謝らないといけない。
言うべきことは言わなきゃいけない。
もう隠せはしないのだろうし、もう隠すべきでも無いのだろう。
──だから。
「お前を殺すっ!」
「ガハッ!……ッ!?」
俺が放った拳をまともに喰らい、悪魔は怯み、驚々諤々とした表情を浮かべていた。
それが姉さんの顔なのだから何とも言えないが、今のこれは姉であって姉さんではない。故に手加減をするべきではない。
「何を……!」
ちょっとした小細工だ。
当たる攻撃を外れさせる?
だったら最初から当たらない攻撃を放てばいい。クソ悪魔が能力を発動させる直前で攻撃を明後日の方向へとずらすのだ。
そうすれば見事、自分から攻撃を喰らいにきたアホな悪魔の出来上がりだ。
「わざわざ喰らいに来てくれるなんて優しい悪魔もいたもんだなぁ!見上げた精神だ、このバァ〜カ!」
「グッ…貴様ァァァァァ!!!」
先程までの余裕ぶった態度も取り繕えなくなったか、悪魔はその眉間に皺を寄せ、激しく睨みつけた。目を剥き、ヒステリーを炸裂させていた。
こうしてみると、確かに似たもの同士だと言えるのだろう。場合によっては仲良くなれるかもしれない──尤も、なるつもりなど更々ないが。
畳み掛けるように殴りつけていき、能力を発動させると見れば明後日の方向へ、発動させないのなら直接ブン殴る。
全てが上手くいくわけでもないが、向こうは何故見抜かれてるのか理解できてないらしく、それなりには攻撃が入っていく。
しばらくは俺のターンで、向こうはなされるがままに、されど時折強烈な反撃を繰り出しながら、言葉にもなっていない様な叫び声と共に攻撃は放たれ続けた。
そうしていると、エルゼの声が聞こえた。
「颯くん!見つけました!方法を!」
現状、唯一待ち望んでいた言葉だ。やれると思っていた。信じていた。そうでなければ。
置き土産に魔法を喰らわせると、、エルゼの元へと蜻蛉返りする。こうして立ち止まると、肩で息をしていたことに気が付いた。足はとうに震えていて、
「で、方法は?」
「精神に直接入り込んで悪魔を仕留めてください!殺せなければ追い出すでも屈服させるでも構いません!楓さんの精神の支配権を奴から引き剥がしてください!」
「まずどうやって精神に入り込むんだよ!」
「そこは僕が何とかします。ただ…」
「早く!」
焦っているのだろう。本来悪魔に向けるべき感情がエルゼにさえ向けられていた。しかし、それを特に気にした様子も無く、エルゼは続ける。
「精神世界に一度入ればほんの少しの傷が颯くんの精神を大きく損傷させてしまいます。ましてや向こうで気を失ったりしてしまえばもう二度と元の体には戻れません。それに、精神世界は支配権を持つ者にとって思い通りの、向こうに有利過ぎる世界です。だから──」
「なんだ、深刻な顔してるから何かと思ったら…そんな事か」
「そ……そんなことじゃありませんよ!」
「それで助けられるなら…いいよ、やってやるよ」
「っ……分かりました。では準備してください!絶対に無事で帰ってきてくださいよ!色々と困りますから!」
「いいから、早く」
俺は急かすと、姉さんと、その中にいる悪魔を見据えた。
「えぇ…!……行きます…ッ!」
エルゼから放たれた光の奔流に飲まれると、俺の意識はそのまま、何処かへと吸い込まれていってしまった。