光
どうしよう。
俺が悪いと言われたら俺が悪いのかもしれないけど、いくらカッとなったからって患者置いてどっか行くってやばいでしょ。何かあったらどうするの。車椅子で激しく動き回ったりなんてできないだろうに。
まぁでも、頭冷やさなきゃいけないってのはそうなのかな。
俺の所為でもあるのだから、この人に何事もないようにだけ見ておこう──と、思ったのがつい10分以上前。
今は目を瞑ったまま何も言わないこの少女を、ただ見つめているだけだった。
聞こえてくる風の音が、時折フェンスを揺らしている。飲んでいたラテはとっくに飲み干し、手遊びに空になった容器をペコペコと鳴らしていた。
「そこに、いるよね?」
「え?うん」
手元を見たり海を見たり少女を見たりと視線をあちこち動かしていると、彼女に話しかけられた。話しかけられるとも思っていなかったので、少し声が上ずってしまった。
彼女は瑞樹と名乗ると、さっきの事を謝った。
「ごめんね。私のせいで」
「いや……んんぅ……」
否定しきれなかった。俺が飛び出て行ったせいだが、元はと言えばだ。
「死にたいの?」
「どう……なんだろうね。自分で死ぬ勇気はないけど、もう生きていたくなくて」
「………目が見えないから?」
あまりこういうことに踏み込むべきではないのかもしれないが、それでも訊いた。
「そう。交通事故に遭ってね、一命はとりとめたけど目が見えなくなっちゃって。何も見えないの」
…………待て、あの男は車椅子の上に目が見えない子を置いていったのか。何考えてるんだマジで。
俺が病院に連れ帰るべきなのだろうか。
でもなぁ、それすると十中八九あの男はクビだよな──まぁそれは別にいいんだけど、俺が攫ったとかになるとそれはそれでマズいし。
特にどうするわけでもなく、俺は再び黙った。
「あの人ね、最初はあんなこと言うような人じゃなかったの」
すると、暗く沈むような声で、いや、既に沈み切っているのかもしれないが、それでもとても悲しそうな声でそういったので、
「横柄な奴とかボケたジジババとか相手にしすぎて荒んだとか?」
と、俺は俺であり得そうなことを挙げてはみたが、
「……んーん。私のせい」
彼女は首を横に振って否定するのであった。
「あぁ、さっき言ってた通りなのか……」
「最初は凄い親身にしてくれててね。けど、私がこんなんだから、だんだん向こうも──って感じに」
それでもあそこまで言うかな。
死にたきゃ死ねなんて──いや確かに、死を選ぶことだって人生ではある。生きることを選ばなきゃいけないなんて、そんなこと誰に強制されたわけでもないのだし、死にたきゃ死ねばいいというのは、考えようによってはそうなのだろう。
しかしそれを他人に言うものだろうか。俺は──あぁ、言わないと断言できないのはそうなのか。
でもそう言うことを言えてしまう人間というのは結局、元からそういう性格なのが隠せなくなっただけとかではないのだろうか──人間、1人の相手をしただけでそこまで荒んでしまうものなのだろうか。
自分という人間すら理解しきれていない様な自分だし、あまり解ったような口も利けないが。
「それに私、両親にも似たようなことしちゃって」
「親に?」
「励ましてくるのが……鬱陶しかったの。治るわけもないのに、頑張れって。何を頑張れって言うの?って。それが、現状を受け入れろって言われてる気がして」
…………下手に励ますと逆効果になったりするのかもだけど、確かにそうなのかもな。
頑張って果たして何になる。そんなこと、やってもみないうちから決められるものではない。しかし、頑張ってもどうにもならないことが目に見えている──いや、この子の場合はその目が見えなくなってしまったのだから、この言葉は不適切が過ぎて不謹慎なのかもしれないが、そういう事だって世の中にはいくらでもあるはずなのだ。
それを頑張れというのは──残酷だろうな。
俺は答えるのを少し躊躇った。
「拒み続けたら、会いに来るのも月に1、2回になっちゃった」
それでも会いに来るのは親だからか。向こうが何か答えを求めているような気がしたが、俺は沈黙を貫いた。
老けないし病にも侵されない、例え怪我を負っても放っておけば勝手に治っていく、健康で物理的に頑丈な五体満足のこの肉体では、こういう相手に言えることがない。
綺麗事なら吐けるが、そう言う自分を魔物と同じくらいには嫌っているのだ。
「…………」
お、重い。
……目が見えない、か。どれほどの絶望なのだろうな。
単に目を瞑ったのとは何もかもが違う。
俺は考えた。流石に戦う力はあっても、過去に遭った事故を無かったことにする力はない。
それでも何かできることは、と言われても、やはり無いのかもしれない。
因みに、俺は目を潰されたとしても生活するには多分問題ない。いや、問題はあるけど。魔力のお陰か、目を瞑っていても自分の周囲に何があるのか大体分かってしまうのだ。
よほど集中しないと気配をきちんと正確に把握していくのは難しいし、それをするくらいなら普通に目で見たほうが早い。
「困るよね。こんな話」
俺が何も言わずにいると、気まずく感じたのか、瑞樹は歪に笑った。
「会ったばかりの相手にする話じゃないよね。顔も知らないのに」
これは……ジョークと受け止めていいのだろうか。
「…………」
「…………」
どうしろと。
△▼△▼△▼△▼△
「戻ってこないね」
「マジでどこか行ったの?」
「そんなことはないと思うけど……」
しばらくの沈黙の後、それを誤魔化すように白衣の男が戻らないことが気になり、歩いて行った方を見ていた。
ここら辺にはあまり人がいない。少し先に何軒か家が建っているくらいで、それ以外には特に建物も見当たらない。
崖際だし、何かを建てようとはならないのかもしれない。
上ってきた坂の方を見ると、遠くに色々建っているのが分かる。
しかし、どこからも歩いてくる人の影がない。本当に置いていったのだろうか。
それなりに時間も経っているはずなのだが──仕方ない。
「自販機行ってくるけど、なんかいる?」
丁度喉も乾いてきたところだと、飲み物でも買いに行くついでにちょっと見て回ってみることにした。人がいないとはいえ、何があるかわからないからちょっとだけ。
そう言うと、瑞樹は割と遠慮なくミルクティーを注文した。
「ごめんね、お金は後でちゃんと払うから」
「ん」
俺は魔素変換の練習をしながら、自販機を求めて歩き始めた。
異常気象でもなければもうそろそろ秋になっていくはずだが、吹いてくる風は未だに生ぬるい。
海の近くだからまだマシといったくらいか。いつの間にか潮風でべたついてた前髪を直しながら思った。
こんな所──こんな所と言っても海が近いだけの場所で、特別田舎というワケでもないのだが、ちゃんと自販機は置いてあるらしい。
「ミルクティーはあってよかったけど……なんか変なの多いな。なんだよエビサイダーって」
ラインナップを見て呟く。
「エビ……?」
エルゼが珍しく食べ物や飲み物を見て顔を顰めている。味の想像が出来なかったのだろう。
俺も想像してみたが、まずエビの味がどんなものであったかが思い出せない。エビって味したっけ?
エビチリとかエビ炒飯とか、海老天とかエビフライとか、エビそのものの味を楽しむ料理というものが記憶にないせいで、エビの味が分からない。
そんなゲテモノを買う勇気など無いので、俺は即決でエビサイダーを買った。
「買うんですか」
「勇気はない。しかし俺には好奇心がある」
出てきた小さめの缶を鞄に入れると、足早に元の場所へと戻ることに。
なんか嫌な予感がしたから。
彼女がいたところまで戻る途中、そこから見えた1つの影に眉を顰め、全力で地を蹴った。
「何で当たるかなぁ……」
△▼△▼△▼△▼△
「カッとなり過ぎた…!子供なのはどっちだってんだ……!」
白衣を着た男が、自分の歩いてきた道を戻っていた。
彼の名は宗崎 裕二。見習いの若い医者であった。決して暇ではないが、彼女がここに来たいと言うと、それに付き添っていた。
発端はいつものように崖からの景色を眺め、口癖のように「殺して」と言う盲目の少女、瑞樹をあしらっていた時だった。
通りすがりか、あそこで何をしていたのかは知らなかったが、底知れぬ憤りを抱え出てきた少年と言い合いになったのだ。
口論の末、どうすればいいか分からずその場から離れた。
そして、長い坂を下りたところで頭が冷え、それと同時に自分がしたことのマズさを理解した。
あの少年が何者だったのかは知らないが、もし自分の見ていないところで彼女に危害を加えるような存在だったらどうするつもりなのか。そうでなくても、彼女は目が見えないのだ。何か事故でも起きたらどうするのか。
そんなことを考え、嫌な汗を掻いた。
歳の所為か運動不足の所為か、重たくなる足に鞭打ちながら必死に駆け上がっていった。
彼女は光を閉ざされ、それと共に歩むべき道も何もかも見えなくなってしまった。
そして自暴自棄になり、周囲から差し伸べられた手を全て跳ね除けていってしまった。今は幾分かマシになったが、彼女は生きているのではない。死ぬ勇気が無いから生かされているだけだ。
同じことしか言わない彼女に対し苛立ちはあったが、それ以上に諦めたくなかった。周囲の者は既に諦めていたが、それでも自分だけはと、色々試してきた。
まだ完全に希望を失ったわけじゃない、立ち直る機会はあるはずだと。
途方もない事で、どれも大きな成果は得られなかったが、前より少しマシになったのはそのおかげだと勝手ながら思っていた。
だから彼は、目の前の光景を見て無我夢中で走り出した。
瑞樹が何者かに襲われている。さっきの少年じゃない、奇怪な化物に。
腕が6本もあるとか、巨大な注射器やメスを持っているだとか、そんなことは気にもならなかった。
「近づくなぁぁぁぁあああああああああ!!」
△▼△▼△▼△▼△
白衣の男が吹っ飛んだ。
「魔族です!」
分かってる。見ればわかる。
謎の生き物が瑞樹に襲い掛かっていると駆け出して行った俺が見たのは、それに立ち向かうも呆気なく吹っ飛ばされ、地面に転がった白衣の医者だった。
飛ばされたのがそっちでよかったな。下手すりゃ崖から真っ逆さまだったわけだから。
多腕の魔族が瑞樹に向かって右腕を振り上げたのを見て、俺は間に入り込み、腕を交差させた。
「何が……何が起きて──」
瑞樹は状況が分からず震えていた。
目が見えない分、その恐怖も大きいのだろう。真っ青になった顔が歪んでいた。
医者に目をやった。ユラユラと立ち上がるも、しかし力が抜けたように膝をついた。
もう一度立ち上がると、今度は真っ直ぐにこちらを見据えた。
それを見て、魔族が口を開いた。
「キヒッ…ヒヒヒ…希望…感情…奪う…!!全部、全部俺の物…!ヒヒヒヒヒッ!」
そう言って嗤うと、真っ白な顔の赤い口が大きく裂けた。
どうしたものかと距離を取る。
とりあえず左手に持ったままのミルクティーをしまいたいのだけど……やってる場合じゃないな。
「こいつの希望は……こいつだけのモノだ!」
白衣の男は、ペッと口から血を吐き捨てて言った。
それを聞いた魔族は楽しそうに笑っていたその口を閉じ、不快そうに男を睨んだ。
「関係ない……関係、ない!」
そう言って、一瞬油断した俺を殴り飛ばした。
何故俺──そう思う暇もなく、身体は飛んだ。
車椅子に掠り、その奥のフェンスまで、身体を何度かバウンドさせながら飛んでいき、勢いよくフェンスを破って、遂には崖から放り出された。
「──おいッ!!」
驚いた顔でこちらに手を伸ばそうとした男の顔が見えた。
だが考えてもみれば、これはこれで都合がいいだろう。
「マジカル・キュート・メタモルフォーゼ」
真っ逆さまに崖から落下しながら、俺は唱えた。
△▼△▼△▼△▼△
駆けて行った先で、裕二は殴られた。
早く重い一撃で、打ち所が悪ければ死んでいたかもしれない。そうでなくても、崖の方に飛ばされていれば落ちて死んでいただろう。
そんな恐怖が胸を押し潰しそうになったが、彼は立ち上がった。
正体不明の化物の言ったことが、何よりも許せなかった。
希望や感情を奪うと言った。何のことかは分からないが、まだ彼女は生きる希望を捨てきったわけじゃない。感情だってたくさん残っている。プラスな方に働かないだけだ。
それを奪うというのが、未だ生きたいと、そう心から願えていない彼女に危害を加えようとするあの化物が許せなかった。
だから吠えた。その近くにはさっきの少年が瑞樹をかばうように立っていた。しかしその少年がこちらに意識を向けた瞬間、少年の姿が消えた。
音が聞こえて首を向けると、彼がフェンスを突き破って崖から落ちていくのが見えた。
手を伸ばして届く距離じゃない。しかし、その手は叫び声と共に伸ばされた。
姿が見えなくなり、絶望した。自分が下手に叫んだせいで、と。
それでも目の前の脅威が去ったわけではないと、瑞樹だけでも助けようと動いた。
「た、助けて……!」
庇うように立ちふさがった背中から、瑞樹の声が聞こえた。
思考を巡らせていた裕二だったが、その声を聞いて、覚悟を決めた。
「お前じゃない…!立ちふさがるな、希望、希望を寄越せ…!キヒッ!」
道具を構えてこちらに迫るのを見て、彼もまた身構えた。
「何故邪魔する……?この女は死にたいと言った、なら、望み通り殺して、希望を頂く……!何が悪い……!退けッ!!」
「助けてと言われたのなら、医者として、大人として、人として、助ける義務がある。それにこの子はまだ、生きる希望を失っちゃいない!」
「希望、希望……奪う!邪魔だッ!」
化物は希望という単語に強く反応し、裕二に向かって巨大なメスを振り下ろした。
「──だァッ!!」
「…………っ!………?」
きらりと輝くその刃を見て死を覚悟した彼が見たのは、その刃を片手で受け止める1人の少年の姿。
どこから現れたのかもわからないその不思議な人物は、もう片方の手でメスを弾き飛ばした。
「ヒィッ!?何を……!?」
化物は大きく後退し、吠える。
しかしその少年が一度睨みつけると、その場から動けなくなってしまった。
それを見ると、少年はこちらを向いて歩いてきた。
裕二は一瞬身構えたが、意識した次の瞬間には、少年は彼の横を通り抜けていた。
そして瑞樹の前まで近づくと、1本のペットボトルを手渡した。それは市販のミルクティーだった。
「落ちてきた奴が持っていた。君に渡せと」
「ぶ、無事なんですか…?」
「うん──じゃない、あぁ。だから警察に通報したりとか、そういうのはしないで──いや、する必要はない。うん、しないように」
そんな妙な会話をすると、少年はこちらを一瞥し、小さく笑った。
そして動けないながらも騒ぎ続ける化物を見て、その底の見えなかった表情を険しくさせると、その姿が消えた。
次に見たのは、化物を上空へと殴り飛ばし、巨大な光でそれを消し飛ばす少年の姿だった。
白く、白く。
白く輝く、それはとても綺麗な光だった。
化物はその光に呑み込まれ、断末魔を上げながら消えていく。少年は化物がいたところを見て、その姿が無いことを確認すると、どこかへと飛んでいく。
人が飛ぶなんてありえない。そう思ったが、自分が見ているのは、紛れもなく現実だった。
しばらくぼーっとその場に立ち尽くしていたが、ハッとして後ろを振り返る。
瑞樹は無事だった。自分の白衣はすっかり汚れてボロボロになっていたが、もはやそんなことはどうでもいい。
彼自身、未だ何が何だか分からず、緊張で声も上手く出せなくなっていたが、それでも、彼女を一度落ち着かせると、ゆっくりと今あったことを説明した。
すると、彼女は言った。
「私、もう少し頑張って……生きてみる」
直感的に死を意識したからだろう。
実際にそれに直面して初めて、彼女は助けを求めた。手を伸ばした。生きたいと願った。
「そしたら、自分の足で、またここに来たい」
瑞樹はそう言うと、手に持ったミルクティーのふたを開け、乾いていたのどを潤した。
颯の手に握られ続けていたそれはすっかり温くなっていたが、それを飲んで彼女は落ち着いた。
そして息をついたとき、異変に気が付いた。
「眩しい……」
光だった。
眩しい光が彼女の目を襲ったのだ。
これまで閉ざされていた眼をゆっくりと開き、声もあげられずにいた。
「え……?」
光を取り戻した彼女の目を見て、裕二も静かに驚いた。
「そういう……顔だったんだ」
そんな瑞樹の目からは、大粒の涙が零れ落ちた。