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その男は奇妙な歌と共に現れる

作者: 曲尾 仁庵

 とある国の伝説に曰く、その男は奇妙な歌と共に現れるという。その男は苦難に打ちひしがれる人に温かく手を差し伸べ、他者を傷つけて恥じぬ者どもに報いを与えるのだという。その男は決して名乗らず、救われるべき人々に微笑みを、救われざる者どもに冷徹な裁きを残し、風のように去るのだという。天使か、聖者か――名乗らぬ彼を呼ぶために、人々は彼のうたう歌の一節を取り出して名前とした。すなわち、


 いしやきいもやさん、と――

「捜せ! 必ず捕えよ!」


 大勢が地面を踏み荒らす音が聞こえる。夜の森は無数のたいまつによって真昼のごとく照らし出されていた。公爵令嬢ユーレリアは大木の影にうずくまり、ただ震えていた。貴人が寝着のまま森にひとりいる、そのこと自体が彼女を取り巻く状況の深刻さを伝えている。


――ピィー


 笛で連絡を取り合いながら、追手は確実にユーレリアに近付いていた。彼女をここまで逃がしてくれた忠義な臣下も、今や敵の手に落ち、頼れる者はもはやない。十七歳になったばかりのユーレリアには、この状況を打開する知恵も、勇気もなかった。


(みんな、ごめんなさい――)


 ユーレリアは自らの肩を抱き、大粒の涙をこぼした。自分を逃がすために多くの臣下が、友人がその身を犠牲にした。それなのに、自分は逃げ延びることも叶わず、ここで敵の手に落ちようとしている。そのことがあまりに情けなく、口惜しい。ましてこの状況を招いたのが彼女自身の罪ではなく、まったくの冤罪なのだから。


(……もはや、生き延びる道はない。このまま敵の手に落ち、利用されるくらいなら、いっそ――)


 せめて公爵家としての誇りを守るために、ユーレリアは涙を拭い、固く口を引き結んだ。ナイフも毒もここにはない。しかし、それでも為さねばならない。彼女の最期が醜く未練がましいものであったら、彼女のために死んでいった者たちまで後世に嗤われることになるのだから。


「そっちはいい! 向こうを捜せ!」


 追手の声が間近に聞こえる。鎧が立てる金属音がユーレリアの耳を打つ。もう時間はない。この尖った枝で喉を突けば――


――いーしやーきいもー、おいも


 奇妙な、そして緊張感のない歌が届き、ユーレリアは思わず動きを止めた。どこか懐かしい、優しく包み込む旋律は、殺気立った夜の森を鎮めるように広がる。追手もまた、突如聞こえてきた耳慣れない音に戸惑い、足を止めた。


「な、なんだ? この妙な――」


 追手が口にした惑いの言葉の終わりを待たずして、どさりと重い物が地面に落ちる音があちこちで聞こえる。ほどなくしてあれだけ騒がしかった夜の森は本来の静寂を取り戻した。いったい何が起きたのか、ユーレリアは呆然と闇の向こうを見つめる。不意にガサリと枝葉が揺れた。ユーレリアは息を飲み、身を固くする。藪を割って姿を現したのは、台車のような何かを引いた、中年の男だった。


――甘くておいしい、あったかほくほく、石焼き芋は、いかがですか?


 中年男はそっと、ユーレリアに一本の石焼き芋を差し出す。甘い匂いが周囲に広がった。魅入られたように石焼き芋を受け取り、ひとくち齧る。ほっとするような温かさが口の中に広がり――ユーレリアは声を上げて、泣いた。




「ユーレリア・オヴェリス。貴女との婚約を破棄する」


 すべての始まりは、婚約者である第二王子からの一方的な婚約破棄の宣告だった。


「貴女がこれほどに卑劣な女性であるとは思いもしなかった」


 第二王子は身に覚えのない罪状を並べ、汚らわしいものを見る目でユーレリアを指弾する。ユーレリアは呆然と、不遜にも第二王子の隣に侍るボーデン男爵令嬢を見つめた。第二王子が並べ立てる罪状は全て、彼女とオヴェリス公爵家がボーデン男爵家に為した不当な圧力や嫌がらせとされている。男爵令嬢は隠し切れぬ優越感を湛えた瞳でユーレリアを見下ろし、第二王子にしなだれかかると、震える声で言った。


「ああ、殿下。ユーレリア様がまた、私を恐ろしい目でにらんでおられます」


 第二王子は鼻の下を伸ばし、殊更に厳しい声音でユーレリアをなじる。


「誇り高き我が王国の歴史に、貴女のような卑劣な者が高い地位に留まることなど決して許されぬ! 裁きは後日、神の御前にて下されよう! その日までは貴女と、オヴェリス公爵家に連なる全ての者への登城を禁じ、蟄居を命じる! 自らの行いを恥じ、後悔の日々を送るがいい!」


 お見事な裁定ですわ殿下、と男爵令嬢は第二王子に抱き着く。第二王子は自慢げに鼻を鳴らした。ユーレリアは蒼白な顔で周囲を見渡す。ある者は憐れみで、ある者は冷淡な瞳で応え、あるいは目をそらした。オヴェリス公爵家に味方する者はない。つまりそれは、オヴェリス公爵家がボーデン男爵家との政争に敗れたことを示していた。


「つまみ出せ!」


 得意げな第二王子の命を受け、兵士がユーレリアの腕を掴む。罪人を引き立てるような屈辱的な姿で、ユーレリアは城を追い出されることとなった。


 しかし、ユーレリアを襲う理不尽な運命はそれだけに止まらなかった。婚約破棄を告げられた翌日の夜、オヴェリス公爵家は何者かの襲撃を受けたのだ。王都の中心、公爵の地位にある者の邸宅が襲撃されたというのに、王都の衛兵はまるで動こうとはせず、オヴェリス公爵は私兵のみで襲撃者と戦うこととなった。


「ボーデンめ! ここまでの慮外者とは!」


 鎧をまとう暇すらなく、自ら剣を取り襲撃者と戦うオヴェリス公爵は忌々しげに叫んだ。およそ一週間後には神前にて正式な裁判が行われる。おそらくボーデン男爵は裁判の前にオヴェリス公爵家の抹殺を謀ったのだ。第二王子が示したオヴェリス公爵家の悪行には客観的な証拠がほとんどない。裁判でそれが露見する前にオヴェリス公爵を亡き者にし、うやむやのままに事態を終わらせることを狙っている。


「ユーレリア、お前は逃げ延びよ! オヴェリスの血を未来へと繋ぐのだ!」


 襲撃者を一刀に切り捨て、オヴェリス公爵はユーレリアに命じる。ユーレリアは首を横に振って拒んだ。


「私だけが生き延びるなどどうしてできましょう! どうか、お父様も一緒に!」


 剣を振って血を払い、オヴェリス公爵は諭すように言った。


「我がオヴェリス家は誇り高き武家の名門。ボーデンごときに背を向けて逃げ出せば、あの世で父祖に面目が立たぬ。だがユーレリア、我が娘よ。私にオヴェリス家の誇りを守る義務があるように、お前にはオヴェリス家の血を伝える義務があるのだ。貴人として生まれた者には果たすべき責務がある。己の責務を果たせ、ユーレリア!」


 側近の騎士がユーレリアの手を掴む。再び迫る襲撃者を迎え撃つため、オヴェリス公爵はユーレリアに背を向けた。


「お父様!」


 大きな公爵の背にユーレリアは叫ぶ。引きずられるように外へ連れていかれた娘を想い、オヴェリス公爵は小さくつぶやいた。


「……生きろ、ユーレリア。そして願わくば――」


 公爵の前に襲撃者たちが姿を現す。剣を握る手に力を込め、公爵は襲撃者の群れに切り込んでいった。


「――幸せになれ! 我が娘よ!」




 温かな石焼き芋の甘さがユーレリアの凍えた心を解きほぐし、気付けば彼女は見ず知らずの中年男に己の境遇を語っていた。館から出た後、彼女を守ってくれた騎士たちは一人、また一人と追手の刃に斃れ、あるいは自ら囮となって果てた。彼女は独りとなり、父から託された責務を全うすることもできず、この場で消え失せるのみと覚悟を決めたのだと。中年男は静かに、最後までそれを聞いてくれた。彼女が語り終わったとき、中年男はそっと手を差し出して彼女を立たせる。そして、ついてこい、と言うように彼女を先導し、都への道を進み始めた。




 中年男がユーレリアをつれていったのは、王都の中心にある広大な邸宅だった。王都で有数の豪商、ロバタ商会の会頭であるゴード・ロバタの私邸。誰もが簡単に訪れることのできるはずもないその家の門を、誰に咎められることなくくぐった中年男を、ロバタ家のメイド長である老婆がうやうやしく出迎える。


「万事、このロバタ家にお任せくださいませ」


 何も言わずとも、老婆は全てを理解しているらしかった。厳つい表情をわずかに緩め、中年男は老婆に頭を下げる。老婆は慌てて中年男を制した。


「私ごときに頭を下げるなどお止めください! 貴方様から受けた御恩は、我らが全てを捧げても返しきれるものではございませぬ!」


 少し不満そうに顔を上げ、中年男は外へと向かった。


「あ、あのっ!」


 礼を言いそびれていたことに気付き、ユーレリアは中年男の背に声を掛ける。しかし中年男は止まることも振り返ることもなく出ていった。独り残され、ユーレリアは所在なさそうに老婆を振り返る。老婆は無表情に話しかけてきた。


「ユーレリア・オヴェリス様でございますね? ご事情は全て存じ上げております。どうかここを自らの邸宅と思い、ゆるりと過ごされますよう」


 老婆はメイドたちに食事と湯浴み、そして寝床の準備を指示する。メイドたちは影のように音も立てず散っていった。


「まずは中へ。お召し物を変えませんと」


 老婆はユーレリアを中へと招く。「ご厚情に感謝いたします」と答えるユーレリアの声は硬い。老婆はわずかに表情を緩めた。


「ロバタ家に政治的野心はございません。貴女様を利用する考えはないと、どうかご信用くださいませ」


 ユーレリアは胸の前で自らの手を握る。野心はない、と言われてそれを鵜呑みにするほど愚かではない。


「ならばなぜ、私をお助けくださるのですか? ロバタ家とオヴェリス家に特別な接点はないはず」


 老婆は首肯し、冷たい声音で疑問に答える。


「そう、両家に特別な関係はない。だからロバタ家は、オヴェリス家の盛衰に興味はございません。ただ――」


 老婆はじっとユーレリアの目を覗き込む。


「――あのお方が貴女をお助けになった。ならばロバタ家は総力を以て貴女をお守りいたしましょう。我らにとって貴女が何者であるかなど関係ないのです。我らにとって重要なのは、貴女があの方に望まれてここにいること、ただそれだけなのです」


 ユーレリアは驚きに目を丸くする。王国有数の大富豪であるロバタ家にそう言わしめるとは、あの一見冴えない中年男にどんな力があるのだろうか?


「あの方は、いったい?」

「さあ?」


 老婆は小さく首を傾げる。


「私ごときには、あの方のことを知ることはできません。私にわかるのはたった二つのことだけ。一つは」


 老婆はまっすぐにユーレリアを見据えた。


「あの方に救われたのなら、貴女は生きるべき命だったということ」


 言葉を切り、老婆は外に視線を向ける。その視線の方向にはボーデン男爵の邸宅があった。


「そしてもう一つ。あの方を怒らせた愚者は、必ず滅ぶということ」


 老婆はユーレリアに歩み寄り、その手を両手で包んだ。


「様々、ご不安はおありでしょう。ですが今は、ゆっくりとお身体をお休めくださいませ。夜が明ければきっと、光は見えましょうから」


 老婆の手から労りが伝わる。ユーレリアは老婆の手を握り返し、深く頭を下げた。




 ボーデン男爵の私邸は強い緊張と焦燥の中にあった。門前には男爵の私兵が篝火を焚いて周囲を警戒している。オヴェリス公爵家を急襲したはずの部隊から、未だ作戦成功の連絡はない。男爵の苛立ちは限界を迎えつつある。


――いーしやーきいもー、おいも


 緊張感を削ぐような、不思議な旋律の歌が聞こえる。私兵たちの顔に戸惑いが浮かんだ。


――甘くておいしい、あったかほくほく、石焼き芋は、いかがですか?


 闇の中から歌の主の姿がぼうと浮かび上がる。台車のような何かを引いた、厳つい顔の中年男がそこにいた。私兵たちが一斉に剣を抜く。中年男は恐れる様子もなく近付いてくる。


「止まれ! 寄らば斬る!」


 私兵の一人が警告の声を上げた。しかし中年男は声が聞こえていないかのように歩みを続ける。プライドを傷つけられたのか、私兵は剣を振りかぶって中年男に襲い掛かった!


――ブン!


 私兵の斬撃はしかし、わずかに身を引いた中年男に届くことなく空を斬った。予想しなかった中年男の機敏な動きに、私兵は身体を泳がせる。中年男は素早く私兵に近付き、その後頭部に鋭い手刀を放った。私兵が白目をむいて地面に倒れる。他の私兵たちがざわめいた。


――ひとくち食べれば、夢心地。おいしい、おいしい、おいもだよ


 奇妙でコミカルな歌が、圧倒的な重圧を伴って広がる。近付く中年男に怯えるように、私兵たちは一定の距離を保って後退していく。


――仕事を忘れて、楽しい団らん、あったかおいもで、幸せに


 私兵たちの額にじっとりと汗が滲み、剣を持つ手が震える。しかし仕事を放棄して逃げ出すことはできないのだろう、誰かがわずかにかすれた声で叫んだ。


「一斉に、かかれ!」


 その声に呪縛を解かれたように、私兵たちは中年男に飛びかかる。中年男の瞳が妖しく光った。




「い、いったい、何が起きている!?」


 私室で次々と入ってくる報告を聞きながら、ボーデン男爵は狼狽した様子で叫んだ。今日は目障りなオヴェリス公爵家を滅ぼし、自らが王国の実権を握る記念すべき日になる、はずだったのだ。それなのに、オヴェリス公爵を襲撃した部隊からの連絡は途絶え、あろうことか自分が何者かの襲撃を受けている。まさかとは思うが、オヴェリス公爵の私兵が襲撃部隊を退け、そのままここを襲撃しているのだろうか? だが、報告では襲撃者はたった一人だと――


「どうなっておるのだ! 説明せよボーデン男爵! わ、私は、必ずうまくいくというから卿の話に乗ったのだぞ!?」


 ボーデンに負けず狼狽している第二王子がおろおろと無意味に周囲を見回しながら叫んだ。気付かれぬよう顔を伏せて舌打ちをして、ボーデンは媚びるような笑みを浮かべた。


「落ち着いてくださいませ殿下! 少々情報が錯綜しているようです。すぐに正確な情報をお持ちいたしますので、少しだけお待ちいただきますよう」


 そ、そうか、と第二王子は問いを納め、腕を組んでソファに座る。この、簡単に相手の話を聞き入れるところが第二王子を選んだ理由なのだが、今はその愚かさが鬱陶しい。


(自ら考える頭もないのだから、黙っておればよいものを!)


 小さく悪態をつき、ボーデンは頭を巡らせる。たった一人の襲撃者とはいったい何者なのか。そして、なぜたった一人の制圧にこうも手間取っている? 情報が少なすぎて判断ができない。そもそも襲撃者が一人という報告そのものが誤りなのでは――


「ご、ごほうこぐぇっ!」


 奇妙なうめき声と共に、兵が扉を開いて中に入ってきた、と思うとすぐに床に崩れ落ちる。口から泡を吹いて気を失った兵の背後に、見知らぬ中年男の姿があった。


――いーしやーきいもー、おいも


 それが侵入者だと気づき、第二王子が意味をなさぬ叫び声を上げる。ボーデンは辛うじて動揺を抑え込み、鋭く誰何の声を上げた。


「な、何者だ! 無礼であるぞ!」


――いしやきーいもやでーございます


 妖しく光る瞳に射抜かれ、ボーデンの身体が我知らず震える。うわずった声でボーデンは悲鳴のように叫んだ。


「誰か、誰かある! この不逞な輩を捕えよ!」


――あまいおいもで、リラックス。夜もぐっすり眠れます


 ボーデンの命令に応える者はない。もはやこの邸宅に、立って動くことのできる者はこの部屋にしかいなかった。ボーデンの顔が急速に青ざめていく。限界を超えたのか、第二王子が金切り声を上げて気を失った。


「ま、待て! いったい何が目的だ! 金か? 地位か? お前が望むだけのものを用意しよう! だから、わ、私と組まんか?」


 下卑た笑いを浮かべてボーデンが中年男の様子を窺う。冷酷なまでの無表情で、中年男は一歩、ボーデンに近付いた。


――泣いているお嬢さんを、笑顔に。重責に耐えるお父さんを、笑顔に。やさしい、あったかい、おいもを食べたら、世界は幸せ


 懐柔の余地はないと悟り、ボーデンはごくりと唾を飲み込む。媚びるように笑い、隙を突いて逃げようとしたボーデンの鼻先を、赤熱した黒玉砂利がかすめた。中年男が親指で弾いたのだ。黒玉砂利はボーデンの鼻を焦がし、壁を打ち抜いた。軋むようにぎこちなく首を向けたボーデンに、中年男は最後通牒を突き付けた。


――誰かを泣かせる世界を変える、いしやきーいもやでーございます


 己の運命を悟り、ボーデンは力なく膝をついた。




「お父様!」


 ロバタ家の私邸に自ら赴いたオヴェリス公爵に抱き着き、ユーレリアは歓喜の声を上げた。オヴェリス公爵は愛娘を抱き止め、労わるようにその背をさする。ユーレリアはポロポロと涙をこぼした。


「ご無事で、本当によかった――!」


 いささか複雑な表情を浮かべ、オヴェリス公爵は言った。


「とある御仁に救われてな。武家の男としては情けないことだが」


 襲い来る無数の襲撃者を切り伏せたものの、彼我の戦力差は覆うべくもなく、もはやこれまでと死を覚悟したとき、奇妙な旋律の歌が聞こえてきたのだという。そしてその歌と共に現れた一人の男は、あっという間に襲撃者を制圧し、何も言うことなく去って行ってしまったのだと。ユーレリアは「あっ」と声を上げる。その奇妙な旋律とは――


――いーしやーきいもー、おいも


 互いに口ずさみ、それがまったく同じメロディであることにふたりは目を丸くした。ユーレリアだけでなく、父もまたあの中年男に救われていたのだ。偶然、など考えられない。いったい彼は、どうしてオヴェリス公爵家を助けてくれたのだろう?


「ボーデン男爵はオヴェリス公爵家に対する偽の告発を第二王子に唆した嫌疑で拘束されました。もはや御身に危険はございますまい。堂々とお屋敷にお帰りなされませ」


 横に控えていたメイド長の老婆が淡々と報告する。ユーレリアは驚きと共に老婆を振り返った。


「それも、あのお方が?」


 たった一夜で状況がまったく逆転してしまった、そんな奇跡のような出来事が自然に起こるわけはない。老婆は首を横に振る。


「さあ。私は何も存じません。私が知っているのは、あのお方は半端なことはなさらぬと、ただそれだけでございます」


 ユーレリアは老婆に近付き、その手を取った。


「あのお方はいまどこに? 私、まだきちんとお礼を言っていないの」


 老婆は再び首を振る。


「この町にはいらっしゃらぬでしょう。必要とされるとき、必要とされる場所にあの方はいらっしゃるのです。もはや貴女様にあの方の力は不要と存じます。ゆえに、あの方は貴女様の前には姿を現さぬのです」


 そんな、とユーレリアは肩を落とした。その落胆ぶりにオヴェリス公爵はやや意地悪な笑みを浮かべる。


「惚れたか?」


 勢いよく振り返り、顔を真っ赤にしてユーレリアは抗議の声を上げた。


「ち、違います! 私は、その、お礼、そう、お礼を申し上げていないから!」


 しどろもどろの弁明を公爵は笑って受け止める。


「よいよい。もしあの御仁を我が公爵家に迎えることができるなら、あの無能な第二王子よりもはるかによき未来を得よう」


 ユーレリアは頬を膨らませて公爵をにらみつけ――ふと、寂しそうに視線を落とした。


「それが叶わぬことは、お父様もお判りでしょう?」


 公爵は表情を正し、そっと娘の肩に手を置いた。


「……そうだな。あの御仁は、財も地位も名誉も、求めてはおるまい。あの御仁をつなぎとめる価値を、我らは持っておらぬ」


 ユーレリアの両の目から透明な涙がこぼれる。両手で顔を覆い、ユーレリアは声を殺して泣いた。公爵は、生まれる前に消えた恋心を慰めるように、娘を抱き寄せた。


「我らはあの御仁に救われた。ならば、あの御仁に恥じぬ生き方をせねばならぬ。我らは我らのやり方で、世界をより良きものとする責務を負ったのだ」


 顔を覆ったまま、ユーレリアは小さく「……はい」と答える。自覚なき恋に破れた傷は、癒えるには少し時間が掛かるようだ。泣き続けるユーレリアを、大人たちが優しく見守っていた。




 ボーデン男爵は裁判によって有罪が確定し、家名断絶となった。第二王子は病を理由に離宮で療養することが発表され、二度と表舞台に現れることはない。オヴェリス公爵家は王家によって正式に名誉を回復され、以前に増して権勢を振るっている。婚約破棄の憂き目に遭ったユーレリアには縁談の話がひっきりなしに入ってきているが、彼女がそれらに興味を示すことができるには、もう少し時間が掛かることだろう。ユーレリアは今日も窓辺に座り、物憂げにため息を吐く。あの奇妙な旋律が、どこからか聞こえてくることを期待しながら。透き通るような青い空が広がり、白いカーテンが風に揺れ、冷たい冬の空気が部屋に入っても、ユーレリアはいつまでも外の景色を眺めていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] まず、えっ、うそ? 石焼き芋? あの? な感じの登場に驚くと共に、なぜか渋カッコいいお芋やさんに変化するところが面白かったです。(「ドクタースランプアラレちゃん」のせんべい博士が劇画調に変わ…
[一言] まさかこんな正義の味方が……! シリアスなのに笑えてしまいます。さすが曲尾さん! いしやきいも、懐かしい。昔は冬の風物詩でしたねー。
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