第9話
「ちょっと! 離してよ!」
クロエは、なんとかして掴まれた腕を振りほどいてウォルフから離れようとするが、精一杯の力を振り絞っても、まるで岩でも相手にしているかのようにビクともしなかった。
それどころか、ウォルフの抱きしめる力が強すぎて、息をするのもやっとという有様だ。
「誰を王にするか、考える必要などない。……お前は黙って俺のものになればいいんだ。」
そう言いながら、ウォルフはクロエの顎に手をかけ、強引に顔を上げさせた。
ウォルフのグレーの瞳が、ほんの数センチメートル先まで近づいてくる。
鋭い視線を避けたくて顔をそらそうとするが、ウォルフは顎にかけた手を離してくれず、そのまま話を続けた。
「グラーディでは建国以来ずっと、国で一番強い獣がその武力をもって国を治めてきた。草食動物や子供や、腰抜けの平和主義者には、この国の王は務まらん。」
ラヴィとリンネと、そしてレオンのことだろうか。兄弟たちに対して随分な言い様だ。
正直に言えば、クロエは今のところ、4人の王子の中で一番ウォルフが苦手だった。
初対面の時からやたらと乱暴で何だか恐いし、それにこんな風に強引に迫られると、男性にあまり免疫のないクロエとしては、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「あなたの言いたいことはわかったから、とりあえず離して!」
もう一度腕に力を込めて、何とかウォルフから逃れようとした瞬間、クロエの体を抑えつけていた力が突然消えた。
満身の力でウォルフを押し返そうとしていたクロエは、バランスを失って思わずよろけたが、地面に倒れこむ前に誰かに抱きとめられた。
「……レオン!」
どこから現れたのか、レオンは先ほどのウォルフとは対照的に、ほとんど力を込めずにそっとクロエを支えてくれていた。
ウォルフはどこへ行ったのかと首を巡らせて探すと、少し離れた場所で地面に片膝をつき、怒りの表情でこちらを見ている。その頰のあたりは、赤く腫れ始めていた。
状況から察するに、ウォルフは突然現れたレオンに殴られ、その勢いで数メートル先まで吹っ飛んだのだろう。
レオンはいつになく激昂した様子で、冷たく言い放った。
「国で一番強い獣が王か……。ならばお前は王にはなれないということだな。何しろお前は、剣技でも体術でも、一度も俺に勝ったことが無いのだからな!」
「なんだと……! 訓練場でどれだけに強かろうが、弱者の保護だの何だのと御託を並べて戦場でその力を使えないのなら、ただの腰抜けだ!」
レオンとウォルフは、今にもつかみ合いが始まりそうな勢いで怒鳴りあっている。
「何でもかんでも武力で制圧しようとするお前とは考え方が違うだけだ。戦いの前に話し合いをする余地があるなら、話し合うべきだろう。無駄な血が流れないのなら、話し合いに価値はある。」
「それが腰抜けだというんだ! 他国ならいざ知らず、ここは獣人の国グラーディだ。戦って勝ったものが、強い者が正義! ずっとそうやって国を治めてきたのだから! ……何なら今ここで、グラーディ一の剣士がどちらなのか決着をつけるか!?」
ウォルフはそう言いながら、腰に履いていた剣を抜いた。
レオンは、クロエの肩をそっと押して自分から離れさせると同時に剣を抜き、ウォルフに向かって構えている。
「ちょ、ちょっと! 2人とも何やってるの!? 兄弟喧嘩にしてもやりすぎよ!」
クロエはなんとか2人を止めようと声をかけたが、頭に血が上ったウォルフとレオンには、もはやクロエの声は届いていないようだ。
ジリジリと間合いを図りながら、今にもどちらかが切り掛かっていきそうだった。
まずい……。このままだとどちらかが大怪我をするかもしれないし、剣で切られれば最悪死ぬ可能性だってある。何とかして止めないと……。
クロエはふと、以前にもこんな気持ちになったことを思い出した。
勤めていた動物園でカンガルーたちが喧嘩をした時も、こんな風にハラハラした気持ちで止めに入ったのだ。
あの時はどうしたんだっけ?
……そうだ、確か……。
思い出して、クロエは大きく息を吸い込んだ。
「2人とも!!! ステイ!!!!! 剣を捨てなさーーーい!!!」
クロエが出しうる限り最大の声量で叫んだ途端、2人はピタッと動きを止め、持っていた剣を地面に落として、そのまましばらくの間麻痺したように固まっていた。
数十秒後、やっと少し動けるようになったウォルフは、肩で息をしているクロエの方を振り向きながら、驚いたようにつぶやいた。
「何だ、今のは……。体に力が入らなくなったぞ……?」
レオンも、まだ震えている自分の右手をまじまじと見つめていた。
「まだ体が痺れている……。これが、【獣を統べる乙女】の力なのか……。」
全力で叫んだせいでまだ息が切れていたが、深呼吸をして呼吸を整えようとしながら、クロエは2人の様子を観察していた。
どうやらグラーディでも、クロエの「動物たちに命令を聞いてもらえる特異体質」は健在のようだ。何とか2人の争いを止めることができて、本当に良かった……。
2人が大怪我をするのを防げたという安堵とともに、クロエはだんだんと怒りが湧いてくるのを感じていた。
ウォルフときたら、いきなり現れたと思ったら、クロエの意思を無視して強引に迫ってきた上に、やたらと喧嘩っ早いのだから始末に負えない。
レオンはレオンで、ウォルフから助けてくれたのは有難かったが、いきなり殴ったり、挑発に乗って剣を抜いたりして、随分とハラハラさせてくれるものだ。
「クロエ、今のは……」
レオンがクロエに話しかけながら、こちらに近寄ってこようとした。
一方ウォルフは、剣をしまいながらこちらに背を向け、どこかに行こうとしているようだった。2人に向けて、クロエはもう一度叫んだ。
「ダメよ! 2人ともまだステイ!!!」
2人の動きがまたしてもピタッと止まった。
先ほどの様子から見て、このまま数十秒は固まっているだろう。
クロエは、この際2人に少しお説教をしてやろうと、呆れた気持ちで話し始めた。
「2人ともねぇ、兄弟喧嘩くらいしたって別にいいとは思うけど、でもいくら何でも軽々しく剣を抜くなんてことは……」
ため息をつきながら話し始めたその時、クロエの背後から何かが飛んできて、頬をかすめて地面に落ちた。
月明かりに照らされて銀色に光る、短いナイフだった。
同時に頬がチリッと熱くなって、手を当てるとぬるりとした液体が手についた。
血だ。ということは、このナイフがクロエの頬をかすったのか?
以前リンネが、この中庭で言っていたことを思い出す。
「僕たち4人を次の王にしたくない種族も多いけど、そういう種族にとって【獣を統べる乙女】の存在は脅威だから、クロエが王宮にいることがバレたら、暗殺者を差し向けてくるかもしれない。」
ナイフを放ったのは【獣を統べる乙女】の存在を邪魔に思い、消そうとする種族の刺客なのか?
いや、狙われたのが自分とは限らない。
今ここには、次代の王候補の王子が2人もいるのだから。
混乱した頭の中でそんなことを考えながら、ナイフが飛んできた背後の方を振り向くと、今まさに壁から降りてきた刺客が、ナイフを構えてこちらに突進してくるのが見えた。
避けられるだろうか?
相手はもうほんの数歩のところまで来ている。
でも、クロエが避けたら、刺客はそのまま背後にいる王子2人の方へ進むことになる。
普段ならきっと難なく避けられるのだろうが、2人は今、クロエの「命令」の効果で体が痺れているはずだ。
……私のせいで、2人に怪我をさせるわけにはいかない!
クロエは覚悟を決め、2人を背中に庇うように立ち、目をつぶった。
「……ッ! クロエッ!!!」
刺客がクロエの首元をめがけてナイフを振り下ろした瞬間、レオンが後ろからクロエを抱き寄せた。
刺客のナイフは、月明かりを反射して銀色の光を放ちながら、レオンの左腕を切り裂いた。




