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ボクの名は  作者: 深海くじら
卯月

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六十六話 笠司、清明(一)

 狭く急な階段を駆け足で上ると踊り場に大きな灰皿が置いてあり、その先に摺りガラスの嵌った扉が控えている。重い扉を肩で押して開けると、真っ青な空が広がっていた。南向きの正面には天と地を分かつように白くまっすぐ真横に伸びる新幹線の高架線路、左手の先には大崎駅前の高層ビル群。僕は大きく深呼吸する。

 今出てきた扉のすぐ隣、株式会社エムディスプレイの自社ビル屋上に無造作に置かれている倉庫のようなペントハウスのサッシを見つめ、僕はしばし躊躇した。本当にこんなところに寝泊まりしてるのか? 四隅に仮止めのようなアンカーを打ち込んではいるものの、大風が吹いたら飛ばされてしまいそうな四角い倉庫。とはいえ、永野(ながの)社長は僕に言ったのだ。屋上の部屋に寝てる三太(サンタ)を起こしてこい、と。

 もう一度深呼吸してから、僕は拳でサッシの(さん)を叩いた。


中込(なかごみ)部長、朝ですよ! 起きる時間ですよ!」


          *


「なにそれ笑える。社会人初仕事が寝てる上司を起こすことって」


 JR大井町駅前通りの並びにあるひとり焼肉のカウンターで、隣に座る龍児(リョウジ)が肉を返す箸を一旦置いて、ありえねーと笑った。

 たしかにあり得ないよな、と僕。上司が会社に寝泊まりしてるって話はイメージできるが、それはあくまでもスポット的に多忙なときに限るわけで、中込(サンタ)さんのように普通に住んじゃってる会社員なんて聞いたことが無い。しかも当のサンタさん、奥さんもお子さんもいるらしくて、当然だが都内の外れではあるが自宅もちゃんとあるという。じゃあ帰れよ、と思うのだが、通勤ラッシュの無い生活を経験してしまうともうあっちには戻れない、と悪びれもせず答えるのだ。今朝にしたって、朝の電車が嫌だから日曜の夜に出社して、そのまま真っすぐ屋上に上がって寝たんだそうな。


「それで奥さんは何にも言わないの?」


「俺だって今日一日しか一緒に居ないんだから詳しいことは知らないよ。ただ奥さんも最初は浮気じゃないかって疑ってたらしい。でも給料の口座は奥さんが押さえてて小遣い制なのにそんな調子のいいことできるはずもないしってなって、最終的に一回現地見て納得したんだって」


 そこまで話した僕は焼き過ぎ寸前だったたれのハラミを救い出し、そいつをアテに白飯をかっこんだ。それにしても、たれの焼肉と白飯はどうしてこんなに合うのだろうか。正直言ってこの組み合わせに酒の付け入る隙は無い、と僕は強く思う。脂の強いカルビやハラミだと、それは尚更。

 どうやらリョウジも同じターンのようで、今は焼肉とメシを交互に攻めている。春休みで研究室を早仕舞した上に、同棲しているインターン看護師のさわさんが泊まりのシフトということで、ヒマな夜を出勤初日の兄の話で埋めようと考えたのだろう。


          *


 初日の今日は、四階建ての社屋のあちこちを案内された。

 木材やパイプ、パネルボード、壁紙ロール、その他さまざまな装飾素材のストックが緩やかなルールに従って壁際の棚に整理され、中央に大型車三台分ほどの作業スペースがある一階の第一制作室は倉庫も兼ねていて、中二階をぶち抜いたくらい天井が高い。二階は二部屋に分かれ、それぞれ第二、第三制作室となっている。第二は作り物中心で第三は彩色物がメインだとか。三階はデザイン室。部屋の中心に巨大な出力機が二台置かれ、その周囲の壁際に複数配置されたマルチ画面のPCデスクに向かってデザイナーたちが作業している。この部屋には他にキッチンとシャワー室もある。

 僕の配属された業務部は四階。他に営業部と社長室と応接室が入っている一番会社っぽいフロアだ。二階と一階を繋ぐ荷物専用のリフトはあるが、人用のエレベーターはついてないから、各階への移動はすべてが外階段を利用する。また、三階と四階はなぜか土足厳禁で、両方とも入り口に小さな玄関がある。

 中込(サンタ)部長の説明によると、ここはもともと住居兼用の精肉所だったらしい。ということは、一階の作業場の元は解体場?


 すべてのフロアを巡り、それぞれの部署で自己紹介と業務内容の説明との交換に終始した一日だった。


          *


「しっかしリュウちゃんのスーツ姿、やっぱ見慣れないよね」


 まったくだ。しかも今は、油が跳ねないよう最新の注意を払っての食事だ。いったいなんの無理ゲーだよ。


「でも明日からは着てくるなって言われたよ。そんなんじゃ床に膝も付けないってさ」


「そりゃそうだ。装飾屋さんだもんね、リュウちゃんとこは」


 リョウジ(おとうと)がいつもながらの爽やかな笑顔を向けてくるので、僕も笑いを返す。


「そんなわけで、明日からはジーパンとワークシャツに逆戻り。せっかく買ったけどこのスーツ、しばらくはタンスの肥やしだな」


 違いないと言ったその口に、リョウジは最後のカルビを放り込んだ。


          *


 大井町の改札でリョウジを見送った僕は、踵を返して線路沿いのアーケードを戻っていく。戸越のアパートまでは歩いて三十分も掛からないだろう。腹ごなしにはちょうどいい。

 走ってくるんなら朝にシャワー使っても構わない、と中込(サンタ)さんからOK貰ったから、今夜はもう銭湯いかなくてもいいや。


 ヒューマノイドちさとが不在の深夜にサトルの家を襲来する前義父の場面(シーン)を考えながら、僕は人気(ひとけ)のない夜の坂を下った。途中立ち止まり、少しだけ西に傾いた気持ち扁平の月を見上げる。

 今日僕は、新しい日常を歩き始めた。

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