六十四話 笠司、春分(八)
杜陸とは違う早朝の空気。
戸越銀座の東端を横断して住宅街を上り坂、三叉路を右に折れてしばらく行くと、こんもり緑の小さな森が見えてくる。遊歩道を池に向かって半周し対角から外に出たら、小学校を右手に据えつつ戸越公園へ。水辺の近くでクールダウンがてらに軽いストレッチ。呼吸が整えば、また走り始める。園内を一周して再び住宅街に出たら、少し遠回りして会社の前の通りまで足を延ばしてみる。柘榴の木が数本ある小さな児童公園を素通りして坂を下ると三ツ木通り、脇に折れて細かい隘路をいくつか巡ればアパートは目の前。二キロちょいのジョギングコースだ。
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「お兄さんは少しスポーツした方がいいと思うよ」
先週の土曜、谷中の龍児宅で開かれたUターン歓迎会の席で、さわさんがはっきり告げた。
「グランピングのとき、みんなでワンオンワンやって遊んだじゃないですか。ほら、バスケットゴールがあったところ。あのときのお兄さんの動き見てて思ったの。このひと、ちゃんと鍛えればもっとカッコよく動けるようになるのにって」
僕も同意見、と援護するのはリョウジ。
「スタミナなくなったよねリュウちゃん。高校の頃まではもっと動けてたじゃん。中学のときだって、僕と一緒にクラス対抗リレー走って優勝したし」
一緒に走ったのは一年のときだけだろ。組替えした二年以降はいつもお前のクラスに負けてた。
とはいえ、と僕は思った。
たしかに大学に入ってからは、身体動かすことをほとんどやってこなかった。一年のときは授業があったから、水泳も球技もスキーもひと通りやったけど、それ以降は本当に何もせず、ただだらだらと過ごしてただけ。設営とかのバイトで辛うじて作業的なことはしてたけど、あれで鍛えられたのは腕力だけだったし。
「というワケで、私たちからのお兄さんへの就職祝いは、これでーす」
さわさんが部屋の隅にあった紙袋から取り出したのは、ジョギングシューズとトレーニングウェア。
「双子だと便利だよね。ウェアも靴も、サイズどころか試着までできるマネキンが居るし」
そんな流れで三月最終週の月曜日から、やむなく僕はジョギングを始めることになった。
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ハイライフエステート入来氏の計らいで八日間の前倒しを日割りで借りることにした僕は、深夜バスで帰ってきた二十四日の朝から戸越の新居に入居することができた。その日の便で届いた段ボールや家電を全部入れたら寝袋広げるのがやっとの部屋だったけど、空白が一日も無かったのは実に助かる。これもすべて御嶽さんの口添えあってのことだろう。有難いことだ。僕はなんにも返してあげられないのに。
昨日の夜に書き終えたお礼状&近況報告を菱沼装美気付で封に入れ、三月最終日のジョギングに携える。曇り空の下、汗で封書がへたらないようタオルで挟み、僕は走り出す。
定番となりつつあるコースの文庫の森を抜けた後、二ブロックほど遠回りした先に品川戸越郵便局があるはず。
ポストに落ちる軽い音を聞きながら、午前中の事務所でこの手紙を手にする御嶽さんの姿を思い浮かべた。年度が替わっても変わり映えのしない仕事を前に、いったいどんな顔をして、愛想もなくただ状況を羅列しただけの近況報告を読むのだろうか。くれぐれも文章に乗せないよう気をつけてはいたけれど、彼女の平らかな未来を願う気持ちは誰にも負けない僕の本心。いつか、できればそう遠くないうちに、彼女に合った出逢いが現れてくれることを切に願って。




