六十二話 笠司、春分(七)
「大谷クンは、まさに岩手の宝だよね!」
WBC決勝戦の翌日、袴姿の原町田由香里が部屋に入って最初に吐いた台詞はそれだった。
県の公会堂での卒業式を終えたあと、学部の中央食堂で開かれる予餞会までの繋ぎ。タクシー相乗りで駅弁大学まで戻ってきた僕らゼミ生は研究棟の大部屋で時間をつぶしている。
「リュウジくん知ってる? アメリカの野球ファンの間では、岩手県ってのが最高にミステリアスなエリアに指定されてるんだって。大谷クンと菊池雄星クン、佐々木朗希クンの三人を立て続けに輩出してる謎のスポット。言ってみれば野球界のエリア51って。今回のWBCなんかは、さしずめ二十一世紀のロズウェル事件よね」
なんだよ、そのロズなんとか事件ってのはとおざなりに返す僕に、いつもと違う凛々しいゆかりんがいつもと同じように詰めてくる。
「はぁ? ノリが悪いよリュウジくん。てか基礎体力無さ過ぎ。仮にもSF研なんだからそのくらいちゃんと抑えといてよね。きみと同じ横浜出身の先輩なら、今更『宇宙人ポール』なんぞ持ち出されても、くらいは返してくれるのに」
「いやいや、知らんがな。横浜出身のゆかりんの先輩なんて。あとSF研じゃなくてSF&ファンタジー研究所な」
精一杯の僕の返しなど空気のようにスルーして、ゆかりんは嬉々として持論を進めてくる。三年間、毎日のように繰り広げられていたゼミでの風景。
「まさか花巻の一私立高校が、ここまで世界的に有名になるとはねぇ。ま、朗希クンは大船渡だけど」
『花巻の私立高校』が胸の中でちくりと痛い。御嶽さんの人生を捻じ曲げてしまった元カレの学校。彼我の差はこんなにもあるのに。
御嶽さんとはあれ以来会っていない。元々、勤務先の菱沼装美以外での接点など無かった。街中で偶然会ったことも無ければ、メールや電話でやりとりしたことも無い。むろん、僕の携帯番号やメールアドレスの記録は会社の連絡網ファイルに残っているから、彼女の方がそれを知ることはできる。でも御嶽さんなら、そんなやり方での連絡などしてきたりはしないだろう。僕の方はと言えば、この前の待ち合わせだって事務所にかけた電話でことを済ませたし、あのときも連絡先の交換は敢えてしなかった。だから菱沼装美に電話する理由のなくなった僕に彼女の現況を知る術は、もう無いのだ。
「ちょ、聞いてんの、リュウジ!?」
ゆかりんの怒鳴り声で僕は我に返った。
「予餞会の会場ができたって。ほら、もうみんな移動しちゃったよ。きみが最後」
ほんとにもう、とゆかりんが呟く。
「最後の最後まで手ぇ焼かせるんだから」
*
大通りのバーで、僕はゼミ同期の数人と杜陸最後の夜を過ごしていた。ここで就職する者、地元秋田に帰る者、仙台の大学院に進む者、そして東京に行く僕。
時刻はまもなく十一時半。東京行最終の長距離バスが発車するまであと三十分。立ち上がった僕は、三人に別れを告げる。もしかしたら、こいつらとはもう二度と会わないかもしれない。さよならだけが人生だ、と言ったのは寺山修司だっけ? 酔っ払った頭では、そんな知識は辿れない。明日の朝、忘れてなければググってみよう。
「リュウジくん、駅まで一緒に行こ」
二次会の前に自宅に戻り、いつもの軽装に着替えているゆかりんが肩をぶつけてきた。断る理由を思いつかない僕は、おう、とだけ応えて前を向く。
思い返せばこの娘には随分と世話になった。二年前期の基礎実験演習でペアになってからこっち、研究室にいる間はほぼずっと一緒にいた。ZOOMの会議室だったりLINE通話だったりオフラインの研究室だったり。雑学に詳しく勤勉な彼女の助けで、いったい何本のレポートを落とさずに済んだことか。
小柄でよく動く瞳のゆかりんは、齧歯類の小動物を思わせる。横に並んで歩く彼女を見ながら僕は思う。こいつ、こんなに可愛かったっけ。酔いに任せて無遠慮に見つめていたら、黒い瞳と目が合った。
「そういえば言い忘れてた」
立ち止まったゆかりんは、僕の袖をつまんで口を開いた。少し溜めを持たせて僕を見上げる彼女の可愛らしい唇が次に発したのは、ゔぉ、という嘔吐反射だった。
しばし屈んで落ち着いたゆかりんは、ごめんごめんと言いながら背中を伸ばす。
「就職、ちゃんと決まったんだってね。おめでと」
「お、おう」
なにか違うものを期待してしまった僕は、勘違いした自分を恥じる。
「おう、じゃないよ。ホント、心配してたんだから」
僕のコートをぼすぼすと殴るゆかりん。
なんだよ、この可愛い生き物は。丸三年見てたけど、こんなん知らんかったぞ。おい。
バランスを崩してよろめくゆかりんを僕は抱きとめた。頭の中で財布の中身を計算する。このバスを逃しても、今夜の一泊と明日の帰りのバス代は大丈夫。加えて、明日の予定があるわけでもない。勇気の見せ所は今?
「ゆかりん、俺……」
見つめ合うふたりの真横に白い車が停まった。
あ、ばつ丸だぁ、と素っ頓狂な声を上げるのはゆかりん。
ドアだけが黒い運転席の窓が開いて、中から声がした。
「ほら、ゆかり。言われた通り、迎えにきたぞ」
「シンスケ!」
僕を押しやったゆかりんは倒れ込むように駆け寄って、運転席の男の首に抱きついた。
*
「あんなとこでじゃれてたらバス間に合わなくなっちゃうよな。どうせうちのゆかりが絡んでたんだろ。酔っ払うとやたらメンドクサくなるからさ、こいつ」
運転席のシンスケさんが愛想よく話しかけてくれた。ゆかりんは後部座席に倒れ込んで寝息を立てている。意を決して、僕は尋ねてみた。
「シンスケさんってゆかりんの……」
「彼氏。つか婚約者。てか、ほぼ一緒に暮らしてるし」
来春くらいには結婚する予定だし、と彼は歌うように続けた。ああ、そうだよね。そういう人、いるよね。だってゆかりん、めっちゃ安定してたもんなぁ。
「きみ、リュウジくんだろ。ゆかりからよく聞かされてるよ。出来の悪い弟みたいで目が離せないって。失礼な奴だよな。末っ子のくせして」
そっかぁ。出来の悪い弟かぁ。なるほどねぇ。一貫してるねぇ。
助手席でひとり納得する僕に、シンスケさんは笑いかける。
「就職おめでとう。ゆかりの奴、その知らせを教授から聞いてめちゃくちゃ喜んでたよ。その晩、うちで祝杯あげてたくらい」
僕には、炬燵で鍋を挟んで乾杯するゆかりんとシンスケさんの姿がイメージできた。暖かなその風景の中で、僕もまた愛されていたのだな。
バスの発車には二分前で間に合った。
ありがとうございますと頭を下げる僕に、シンスケさんが右手を差し出してくる。
「東京でも頑張って、周りのみんなに可愛がられてこいよ」
差し出された手を両手で握った僕は、杜陸の最後の言葉に万感の思いを込めて答えた。
「はい!」




