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ボクの名は  作者: 深海くじら
弥生

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五十八話 笠司、春分(五)

 御嶽(みたけ)さんを仙北町まで送って部屋に帰った僕は、荷物を置いただけで鍛冶ヶ谷先輩(カジ先生)のところに逃げ込んだ。独りで夜を過ごしたくなかったのだ。十四日深夜に転がり込んでくだを巻く僕の泣き言を、翌朝も普通に仕事があるはずのカジ先生は怒りもせずに聞いてくれた。

 翌日以降も自分の決断への肯定と逃した魚への残心を往復し続ける僕は、結局日曜の夜まで居座り続けていた。



「アレだ。やはり映画版のフロンティアはハピエンじゃなかったところがよかったと思うワケだな」


 フォアローゼズのオンザロックを片手のカジ先生が、さっきまでTVで流れていたアニメ映画について語っていた。マクロスというシリーズの肝は主人公と彼をめぐるヒロイン二人の三角関係。その程度の基礎知識は僕も持っている。いま観終えたマクロスFも、ふたりの歌姫が主人公の取り合いをしていた。名も実も手にしている銀河の歌姫と、市井のアルバイターから一気に駆け上がった超時空アイドル。

 僕は御嶽(みたけ)さんを思いだした。二年から四年までのほぼ毎週の数日間を菱沼装美で過ごした僕にとって、御嶽さんは一番近くにいた異性だったと言える。主人公の日常サイド。いわばランカの立ち位置だ。じゃあ僕にとっての銀河の歌姫はいったい誰にあたるんだ?

 なんの迷いもなく脳裏に浮かびあがったのは鷹宮(たかみや)皐月(さつき)の涼し気な笑顔だった。十年前に出会って六年間思慕だけ深め、四年前の駅のホームで完全に望みを断ち切ってからも途切れることなく僕のコアに居残り続けるひと。僕という現象を形作る重要な十年間で、ずっと切れ目なく影響し続けてきたミューズ。常に届かず、常に追いつけない永遠のフロントランナー。すでに神格化されていると言っても過言ではない彼女の存在は、僕が日常で出会う女の子たちにフィルターをかける。誰も追い越すことのできない基準値が、僕の中に解けない呪いのように鎮座しているのだ。


 数日前の焼肉デートで、お互いを深いレベルで開示し理解し合ったと感じていたあのとき、僕の中の物差しは初めて皐月さんの呪縛から自由になっていたと思う。

 受け入れるという選択肢だってあったはずだ。じゃあなぜ、僕は御嶽(みたけ)信乃(しのぶ)を選ばなかったんだ?


 御嶽さんが抱えている日常は、たしかに僕を躊躇させるに足る現実だ。そして彼女と一体化しているその日常をも包括して受け入れていくのは、これから始まる僕の新生活には荷が重すぎるだろうということも頭では理解できる。でも、と僕は僕に返す。


 結局のところそれって、周りも自分もしょうがないって納得させられる(てい)のいい言い訳だよな。彼女を選ばない罪悪感を、子どもがいるって付加情報に押し付けてるだけじゃん。



 鍛冶ヶ谷(カジ)先輩は先生をやってるだけあって、問題の根っこを剝き出しにさせる会話が上手い。アニメの評論だった筈が、いつの間にか今の僕の核心に迫っている。


「お前さん、しのぶちゃんのこと良いなって感じてたんだろ。将来のこと、飲み込んでもいいかなって思うくらいに」


 照れ隠しにロックグラスをあおった僕は曖昧に頷く。そうなのだ。あの夜遭遇した御嶽さんの内面は、僕の眼鏡に充分(かな)った。少なくとも、未来を検討してみる案件として未決箱に放り込んでもいいくらいに。日照り続きだった僕の土地に初めて現れた恵みの雨。不安要素が無いわけじゃないけど、それも込みで前向きに考えられる高得点(スコア)の雨雲だった。それを敢えて、保留すらすることなく追い返したのは……。


「要するに、ケジメがついてなかったんだよな、お前ン中で」


 座椅子に背を預けてアーモンドを齧るカジ先生のご神託はまだ続く。


「今回のは大きな縛りがふたつあった。ひとつは四月からの環境変化。ぶっちゃけ遠恋ってヤツだ。お互いに外せない仕事環境がある以上、東京と杜陸(もりおか)って距離を埋めるのは当面は不可能だもんね」


 息をつくようにひと粒口に放り込む。カリッという乾いた音。


「もうひとつは時間。レスポンスタイムだ。しのぶちゃんはお前のひとつ下とはいえ、シングルマザーだから生活には余裕がないし出会いも少ない。無駄なことをちゃらちゃらやっとるヒマなんぞ無いのよ。つまり、飼い殺しして彼女の時間をいたずらに消費させるわけにはいかんってこと」


 炬燵が少し熱く感じる。カジ先生の洞察で見事にトレースされ、言葉にされた僕自身のコアが剥き出しになっているからだろうか。


「そこまで解ってる皆川笠司はその先を考えたんだな。たしかに御嶽(みたけ)信乃(しのぶ)って()は埋もれてはいるけれど、実は相当の好物件だ。見た目はいいし性格も嫌いじゃない。生活力もあるし地に足もついている。そしてなにより自分を好いてくれている。うん、いいんじゃね、これ」


 その整理は一関からの列車内でやった。御嶽さんとつき合うとしたら、娘さんの存在は不可分だ。だから若い恋人らしい二人きりのデートなんぞを期待することはできない。ただ自分は、そしておそらくは彼女も、その手のリア充イベントを絶対必要としてたりはしない。そんな環境にはいないのだ。


「でも、それらの山ほどのプラスをもってしても、マイナス分を差し引いた彼女の合計点は、例の先輩さんのハードルを越えられなかったんだな」



「しかしなんだ、お前も難儀なヤツだよな。最初見たとき、こりゃまたそぐわないのが入ってきたな、って思ったよ。見た目はさっぱりしてるしコミュニケーションも普通に取れる。女子相手にキョドったりもしなけりゃ無理にカッコつけたりもしない。おまけに関東モノ、しかも憧れの街トップランク独走の横浜出身と来た。なんでこんなイケてる大学生然としたヤツが、俺たちみたいなオタクサークルに入ってくるんだよって」


 フォアローゼズをロックグラスに継ぎ足し、ひとくち舐めてから、カジ先生は話を続けた。


「この部屋に流れて飲んだ最初のときにわかったよ。こいつは『こじらせ男子』だ、って。うちにいるコミュ障どもみたいな小惑星帯(アステロイドベルト)から抜け出たことのない岩塊とは全然別で、言ってみりゃ、大気圏突入の一番いいとこで角度間違えて弾かれて、そのまま楕円軌道をぐるぐる回るしかなくなったシャトルってとこだな」


 少し酔っ払ってる僕は、青い大気に弾かれて地上に下りる術を失った探査機(オービター)のコクピットをイメージしていた。目の前に皐月星の大海原が広がっていたはずなのに、水切り石のように跳ねた探査機はどんどん遠ざかっていくだけ。


「なあ。今回のしのぶちゃんの件、知恵のついた小惑星や大気圏突入できるシャトルならどうしたと思う?」


 首を横に振る僕に、カジ先生は眉を上げてこう応えた。


「とりあえずOKっぽい返事しておいて、その足で既成事実づくりに雪崩れこんじまうのさ。生まれてこの方続いてきた童貞人生ともこれでおさらばだ。あとのことは後で考えればいい、ってね」

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