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ボクの名は  作者: 深海くじら
弥生

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五十六話 笠司、春分(四)

 彼女が出産を決めたところから、事態の主軸は親たちのターンとなった。父親の説得に従い絶縁を伝えてきた彼。学業の中断を薦めてくる学校。ここぞとばかりに正論と悪意を振りかざしてくる近所の人たち。仕事がうまくいってなかった彼女の父親は、不謹慎にも金儲けの機会と捉えてさえいた。味方と呼べるのは、専ら彼女の身体への気遣いに終止する母親のみ。


「男の人はもう誰も信用できなくなっていた。彼も、お父さんも、お祖父ちゃんでさえも。でもお腹の子だけは守りたかった。うん。ちょっと違うね。私が守りたかったのは、私のしてきたことが無意味なんかじゃないっていう私の意地みたいなものだったかも。子どもはその証明」


 今は違うけどねと付け足した御嶽(みたけ)さんはタンブラーを持ち上げたけど、溶けた氷すら残っていない。なにか頼む、と顔を向けた僕に無言で(かぶり)を振った。



(なつめ)はね、予定日より少し早くに産まれたの。三十六週目、六月の終わり。この子には私や彼とは関係のない名前を付けてあげたくて、産院の窓から見えた小さな花の名を貰ったの。黄色くて小さくて可愛い花」


 娘のことを語るとき、彼女の瞳が僅かに緩んで見えた。でもそれは一瞬だけ。


「学校はとうの前に辞めていたし産後のしばらくは宮守の家にいたけれど、慰謝料を取り立てて小金を得たお父さんはもうおかしくなってた。祖父母からは厄介者扱いされ、仲の良かった近所の人達も非難する側に回っていた。私と(なつめ)とお母さんの三人は孤立無援で、あの村にはもう住めなくなっていた。だからあの夏に社長が手を差し伸べてくれなかったら、私もお母さんも生きてたかどうかわからない」


 そこまで話し、御嶽(みたけ)さんは両手を前に伸ばして長い伸びをした。今までの彼女とは違う、重荷を下ろしてすっきりした顔を見せている。


「ね。重いでしょ、私。いろいろてんこ盛りだもんね。今日だって皆川さんいきなり電話してくるから、急遽お母さんに仕事休んでもらったんだよ」


 それはマジ申し訳ない。そう言って下を向き、僕は水になったウーロンハイをずずっと啜った。

 そんなに気にしないで、あの人もたまには休む方がいいのよと応える御嶽(みたけ)さんの柔らかい笑顔。このひとはこんな顔もできるんだ。


「社長、私に男のひと紹介してくれたりもしてたんだよ。お仕事絡みの関係ばっかりだったから三十代が多かったかな。でもほら、皆川さんなら知ってると思うけど、私、無愛想な上に頑固でしょ。お財布にしか見えないような男なんて要らないって決めつけて、全部突っぱねたの。諦めた社長が最後に連れてきたのが皆川さん」


「え? 僕、そういう候補だったの?」


「そうだと思うよ。直接言われたことは無いけれど、いきなり歳の近い男の子入れたりしたんだから。それにこんな長期で雇い続けたアルバイト、皆川さんしかいないし」


 とっておきのサプライズを成功させたみたいにクスクス笑いする御嶽(みたけ)さんは、なんだか満足げだった。

 彼女の自己開示(カミングアウト)のターンは終わった。次は僕の番だ。



「チョコレート、ありがとう」


 隣の席に置いたバッグから取り出した円筒形の包みを差し出しながら、僕は今日言うべき最初の台詞を告げた。御嶽(みたけ)さんは目を丸くしている。


「突然だったからびっくりしたけど、嬉しかった。白状すると、バレンタインにちゃんとしたのを貰ったのは初めてだったんだ。高一の始めの頃に二ヶ月だけお付き合いしたことはあったんだけど、イベントひとつ(こな)すでもなく秋まで()たずで。それ以降はなぁんにも音沙汰無かったから」


 差し出された箱入りのバウムクーヘンを反射だけで受け取った彼女は、信じられないという顔をしてた。


「そりゃたしかにうちに来てからは誰か彼女がいるって感じはしてなかったけど、でも皆川さん、都会の高校生だったんでしょ。そういうのみんないたりするもんじゃなかったの?」


 彼女の思い描いている都会イメージに、思わず僕は吹き出してしまった。御嶽(みたけ)さん、それは少女マンガの読み過ぎだよ。


御嶽(みたけ)さんは都会を過大評価しすぎ。彼氏や彼女に縁のないヤツらなんて山程いるよ。ていうか、相手がいるほうがむしろ少数派」


 僕に言わせれば、こっちの方がよほどくっついたり離れたりは多い。実際に御嶽(みたけ)さんはしっかり彼氏がいたんだし。それに比べて、帰省の度に聞く横浜の友だちの消息にはそんな浮いた話などほとんど上がらない。そりゃ龍児(おとうと)みたいに偏在する奴も、たまにはいるけど。


 そうなんだと呟く彼女は、俯いてしばし考えにふけっている。それから申し訳なさげに顔を上げた。


「じゃあ、余計に重かったよね」


 そんな顔を、少なくとも今させたかったワケじゃない。僕は大袈裟に首を振って応えた。


「想像もしてなかったからとても驚いたけど嬉しかったし、なによりも光栄だった。だって僕はずっと、御嶽(みたけ)さんに使えない奴って思われてると感じてたんだから」


 そんなことないよと、か細い声で彼女は言った。


「うん。わかってる」


 御嶽(みたけ)さんが息を吐き出しきる前に、僕は短く応えた。

 今日話を聞いて改めてわかったよ。きみは自分を表現するのが本当に下手くそなんだって。


「この一ヶ月間、いろんなことをしながらも僕は考えた。御嶽(みたけ)さんが僕に好意を持ってくれてることはわかったけれど、それがどのくらい深いものなのか。そして、僕はそれにどう応えるのがいいのかを。だって僕は、あまりにもきみのことを知らな過ぎたから」


 御嶽(みたけ)さんは無言で僕を見つめていた。真っ直ぐに。


「今夜一緒にいてきみの話を聞かせてもらって、僕は随分と新しいことを知ったよ。話の内容もだけど、それ以上に御嶽(みたけ)信乃(しのぶ)っていうひとの表情や仕草、どんなふうに鎧を着てて、どんなところから打ち解けていくのか、そういうことを」


 へんににやけた顔とかになってなければいいんだけど。そんなことを心配しつつ、僕は続けた。御嶽(みたけ)さんは微動だにしない。


「もっと時間があったらよかったのに。今僕は、本心からそう思ってる。この数時間で得た知見で、僕は昨日までよりずっときみのことを好ましいと感じている。なんならノリで付き合っちゃおっかって言えちゃうくらいに」


 御嶽(みたけ)さんはきっとわかってる。ここが頬を緩めていい場面じゃないんだってことを。

 僕の真剣さをきみが余すところなく受け止めてくれたなら、僕は救われる。でもその救いは、きみの希望を描く力をへし折ってしまわないだろうか。

 だがもう遅い。導火線の火は今まさに僕が点けてしまったのだ。僕を射抜かんとする強い視線に向けて、僕は、でも、と紡いだ。


「一方で僕は、きみがリアルに抱えてる現状について、本当の意味でぜんぜんわかってない。なんの準備もなんの覚悟も持ち合わせてないんだよ。そして二週間後からは、僕はきみのいる場所から五百キロ以上離れた新しい環境の下でおそらくは昼夜問わず馬車馬のように働くことになる。毎日新しい技を覚え、新しい人たちと出会い、さまざまな新しい物差しを自分の中に組み込む、そんな生活。確実にやってくる未知でしか無いその状況を目の前にして、たった今思いついたみたいな脆弱な約束を交わすなんて無責任なことは、僕にはできない」


 瞬きもしない彼女の左目の端から雫がひとつ浮かんだ。

 それでも僕は、引導を渡す。


「チョコレート、去年貰えてればよかったのに。それとも、秋までに僕が気づければよかったのかな。でもそれはたぶん無理だよね。きみが僕と未来を見てみたいって思ったのは、今年になって、終りが見えたからだったんだよね」


 小さく頷くきみ。雫が滑り落ちるのを隠すように。


「ありがとう。ホントよね、あなたの言う通り。私たちはタイミングが合わなかっただけなのね」


          *


 精算を済ませ夜の通りに出た。時刻は九時過ぎ。駅前だから人通りが絶えるほどではない。とは言え、尾羽根打ち枯らしたような若い女性をひとり帰らせるわけには行かない。

 母親に帰路につく電話をかけ終えた御嶽(みたけ)さんに僕は寄り添った。


「送ってくよ。なんかあったら寝覚め悪いし」


 ほんの刹那、思案顔を見せた御嶽(みたけ)さんは、僕が後付けした照れ隠しを引き取ってこう返した。


「そうね。家の前までっていうのは防犯上なんだけど、夜道をひとりでは危ないもんね。うん。明治橋まで送って。私が(かどわ)かされたりしないようちゃんと手を繋いで、ね」

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