五十四話 笠司、春分(三)
「彼とそういうことになったのはその日が最初。北上は駅近にあるから穴場だ、と先輩から教えてもらったって」
青臭い僕の胸の痛みなどお構いなしに、御嶽さんは淡々と言葉を続ける。
「後悔もなかったわけじゃないけど、それよりも周りの誰よりも早く、しかも一番格好良かった相手から望まれてっていう優越感の方が圧倒的に勝ってたの」
紙ナプキンを一枚抜き取った御嶽さんは、皿の無くなったテーブルにそれを広げて何かを織りはじめた。ロールのように緩く巻き、途中からこよりのようにきつく捻じる。
「夏休みは毎日のように練習を見に行って、帰りは隠れてデート。週に一回の早上がりの日には、別々に動いて北上や石鳥谷にあるホテル近くで合流する。実家が太い彼との逢引にお金の心配はなかったから、普通の高校生カップルなら苦労する場所選びなんかも全部彼任せ。髪も染め、ピアスも開けて、外出着も派手になって。そのひと夏で、私も彼もすっかりそっち側の人になってしまった」
自動機械のように動く彼女の指先を見つめながら僕は感じていた。
この子はもしかしたら、過去をまとめて誰かに話すのが初めてなのかもしれない。話すべき内容の取捨も覚束ないまま、ただ記憶の蘇るままに語っているようにさえ聞こえる。
目の前にいる知り合いの口から紡がれる生々しい恋バナは、一連が未体験の僕にとってかなりの苦行だった。
「あの頃が幸せだったなんて、今はとても思えない。無垢で無知な田舎の女の子が初めて食べたリンゴの甘さにのめり込み、箱庭のような小さな世界なのにまるで全てを知ったつもりになっていい気になってただけ。過去も未来も考えず、ただむさぼるみたいに今を食べてる馬鹿な娘。あんな中毒患者のような日々が自分の青春の見開きページだったなんて、恥でしかないのに」
呪詛のごとき呟きとは裏腹に、手遊びのナプキンはいつの間にか真っ白な一輪の薔薇に変わっていた。
「新学期がはじまっても似たような感じ。成績は落ちてたけれど私はさほど気にしてなかった。まだ一年生だったし、本気出せば大丈夫。なによりも私は、練習見学で顔見知りになった追っかけ女子高生の中で完全に勝ち組だったから」
見事に整った造花を横に置くと、さっきまで器用に動いていた細い人差し指はタンブラーの外側を縦になぞりだす。上から下へ、まっすぐおろした汗の通り道。自重に耐え切れなくなった水の雫が加速しながら流れ落ちる。
「ろくな知識も持ちあわせてないくせにしたい気持ちだけで突っ走ってたバカップルなんて、失敗するのが当たり前ね。馬鹿で鈍感な私は冬の始めの体育館で倒れるまで、それが悪阻だなんて気づかなかった」
禁忌の言葉を吐き出したかのように深く息を継いだ御嶽さんは、タンブラーの足もとにできた水溜りにそっと薔薇を置いた。水を吸い込む薔薇の花弁はみるみる萎れ、形を崩していく。
「学校の保健室から私の親へ、私の親から彼の親へ。事態は瞬く間に関係する大人たちの知るところになった。周りはみんな、堕ろすことを薦めてきた。今ならまだ間に合う。冬休み中に処理すれば高校生活にだって傷はつかない。誰よりも強くそう言ってきたのは彼の両親だった。彼の野球部に知られないように。家名に傷がつかないように。あの人たちの論理はそれが全て。でも私は抗った」
くしゃくしゃに濡れそぼりただのゴミと成り果てた薔薇を見下ろす御嶽さんは、俯いた姿勢のまま訥々と語りを続けた。
「彼のことが好きだったとか授かった命が大切だったからとか、そういう綺麗な話じゃないの。私はただ、その半年やってきたことを無かったことにしたくなかっただけ。高校一年の私はちゃんとそこにいましたって叫びたかった。その一点に固執してたのよ。もうね、馬鹿に馬鹿を重ねただけ。周りの人も彼も私も、生まれてくる子さえもが誰一人幸せにならないって答えが出てるのに。そんな簡単な計算すら満足にできない私の我儘ってだけで」
御嶽さんは顔を上げた。
私ね、粘り切っちゃったのよ。そう締めた彼女の顔が、僕にはなぜか、少しだけ晴れやかに見えた。




