五十二話 笠司、春分(二)
待ち合わせを五分ほど回ったところで、駅ビルのフロアから走ってくる御嶽さんが見えた。向こうも僕を見つけたのか、走るのを止めてゆっくりめのいつもの歩調に切り替えてる。
たっぷり三十秒かけて僕の前に到着した御嶽さんは、表情も息も普段のペースに戻していた。機嫌が悪い方のいつもの顔。下から睨み上げる瞳にひるみながらも、僕は虚勢を張って帰着の挨拶をする。
「ただいま。でもって、来てくれてありがとう」
「アポ取りが遅い!」
いきなり叱られた。
黒いマスクで顔半分が埋まった御嶽さんは、睨みつけていた眼を逸らすと少しだけ俯いて声を落とした。
「今日の今日じゃ、なんの準備もできやしない」
たしかにいつもと変わり映えしない、黒のダウンにデニムパンツとスノトレシューズ。少し整えたのかもしれない化粧も、額に滲んだ汗で浮き気味にぼやけてる。
「ひさしぶりなんだし、そう尖がらなくても。そうそう、東京の住居は決めてきたよ。バッチリ条件通りで、入来さんにはすごいお世話になった。いいひと紹介してくれてありがとう。ホント、助かった。今夜はそのお礼も兼ねてぴょんぴょん舎の焼肉ご馳走しちゃうから」
「焼肉……」
御嶽さんが焼肉に目が無いことは、以前参加した会社の忘年会で目の当たりにしたからよく知ってる。そわそわしだして挙動不審、視線は盛り皿と網の往復のみとなり、右手の箸は常に臨戦態勢。
一点集中ともいえるその知見のおかげで、数多の飲食店から一店を選び出すという難題をスルーすることができたのは本当にありがたい。他に考えることが山積みの今の僕には、余分な検討の遠回りをしてる暇などないのだ。
弛緩しかける目元を無理やり引き締めた御嶽さんは、何時なの? と問い質してきた。
「何時……って?」
「予約した時間よ!」
苛立ちを隠さずに、大きな一歩で僕に詰め寄る御嶽さん。
近いよ!
触れるぐらいの身体の圧と強烈な目力に怯み、僕は応えを噛んでしまう。
「……ろく、六時、です」
「あと十五分そこそこしかないじゃない!」
言い終える前に僕のバッグの肩掛けを掴んだ御嶽さんは、身を翻して足を踏み出す。出口に向かって急ぎ足。慌てて僕も歩調を合わせた。ストラップを引っ張る背中を見ながら思わず顔がゆるんでしまった。
そんなに急がなくたって。ここからなら十分もかからないって知ってるだろうに。
*
幸せそうにハラミを頬張る御嶽さんを見てると、僕も嬉しい気持ちになる。いつもそうやって笑顔でいれば可愛いのに。
僕の視線に気づいた彼女は、一瞬睨んでから恥ずかしそうにペースを落とした。
「ごめんごめん。あんまり美味しそうに食べてるんで、嬉しくなってつい見入っちゃってた。気にしないで食べて、食べて」
網に残った最後の一枚にしばし逡巡しつつも、取り上げて口に運ぶ御嶽さん。しっかり味わって飲み込むと、時間をかけて箸を置いた。
「……どこまで知ってるの?」
なんのことを? と聞き返すほど、僕だって野暮じゃない。
「ひとつだけだけど、僕より年下」
いきなりむせる御嶽さん。その答えは予想外だったみたい。
「仕事ができて、入社以来ずっと無遅刻無欠勤。いつも落ち着いてて、無駄口をほとんどきかない。大抵は無表情か、そうでなきゃ不機嫌そう。でも、たまに笑うととてつもなく可愛い」
赤くなり、目を白黒させる御嶽さん。いつもなら無言で返ってくる非難の目も、今日は無い。
「猫好き。昼休みにお弁当食べてるときのディスプレイは大抵猫動画。食べ物だと焼肉が大の好物で、とても幸せそうに食べる。とくにハラミのタレ付きが好き。あんまりしっかりは焼かない派」
肩をすくめて俯いてる。過去最高に年相応。今夜の彼女は初めてのものばかり見せてくれる。仕草も、表情も。
「社長の親戚で、仙北町でお母さんと暮らしてる」
そして、と続ける僕に、御嶽さんが顔を上げた。
「……四歳になるひとり娘のお母さん」
コンロのガスを切って身を起こした御嶽さんは、引き結んでいた唇を開いてぼそりと呟いた。
「全部、聞いてるのね」
僕は頷く。
「全部かどうかは知らないけれど、菅原さんと入来さんが話してくれた分だけなら。社長からはなにも聞かされてないよ」
付け加えた部分に安堵した様子の彼女は、ひとつ息をついてからゆっくりと話し始めた。
「私の生まれた村はとても静かで、毎日が同じことの繰り返しだった。同じ年頃は数人しかいなかったからみんな仲良し。小さい頃は毎日同じ顔触れで遊んでいたの。畦道走り回ったり、誰かの家でボードゲームしたり。動画見て覚えたパフュームの振り付けとかも練習して、神社の縁側に上がって女の子三人で歌ったりもしたっけ」
僕は目だけで了解を取って、自分のウーロンハイと彼女のジャスミンティーを追加した。火も落としたことだし、主菜の方はもう充分なのだろう。
「震災の年の夏に生き別れだった従兄、皆川さんも会った入来勤さんね、が現れて、翌年に訪ねてきてくれた伯母から東京の話をいっぱい聞いた。いままでTVでしか見たことのなかった都会の話。近所に住む引き籠りのお姉さんがマンガをいっぱい持ってたので、中学に上がってからは親に黙ってよくお邪魔してた。夕方過ぎまでふたりでずっと少女マンガを読んでるだけ。その頃から私、都会のキラキラした生活に憧れてたの」
思春期の御嶽さん。今の彼女とはうまく焦点が合わない都会志向だが、そのことは入来氏も口にしてたっけ。賢くて、少しの野心もあって、おかれてる環境に倦みを感じてる田舎の普通の少女。
「ちゃんと勉強して合格したら花巻の高校に行かせてあげるって父に言われて、私頑張った。おかげで目標だった高校に合格。初めての電車通学で毎日街まで通えることが嬉しくって、私、有頂天になってた。高校でできたお友だちと駅のカフェでお茶したり、マルカンデパートでソフトクリーム食べたり。入学したての四月五月は、とにかく毎日大はしゃぎしてた。そんな感じだったある雨の日、駅で高校生にナンパされたの。線路挟んで向こう側にあるスポーツが盛んな私立校の野球部の人たち。予定していた練習試合が中止になったので早上がりしたって言ってた。知らない男の子に声掛けられるなんて初めてだったけど、リーダーみたいな人がとても爽やかそうに見えた。どっちも同じ一年生の三人連れだったんで、みんなでマック。その場でLINE交換までしちゃって。今度観においでって言うので、翌週の天気の良かった放課後にはそのときの三人で練習観にまでいっちゃった」
届いたジャスミンティーを受け取った御嶽さんは、空いたグラスや皿を取りやすい位置に移動する。とても好ましい自然な動作。
フロアサービスの人が離れるのを待って、彼女は再び話しはじめる。
「今なら言える。あのときの私は間違いなくのぼせ上ってた。練習場の外野の同じポジションに立ってる何人かの中で一番格好良かった彼と仲良くしてる自分の姿に」
グラスを持ち上げ、ひとくち。僕もウーロンハイを乾いてしまった喉に流す。
「七月十二日、帰りのホームルームの最中に彼からLINEが来たの。すぐに会いたいって。慌てて入った女子トイレで返信し、一時間後に北上駅での待ち合わせが送られてきた。でもおかしい。優勝候補の彼のチームはまだ県大会の真っ只中の筈なのに。そう思って調べたら、予想外の初戦敗退という速報にあたって……」
その記事は、僕も聞いたことがある。ふたりのメジャーリーガーを輩出したほどの甲子園常連校が地方大会の初戦で消えた椿事は、当時の野球ファンの間で瞬間的に話題になってた。まさかそれが引き金になっていたなんて。
誰も触れたことのない真っ新な少女が、若くて元気なだけの野球少年と手を取り合って扉を開くさまを思い描き、僕は胸が苦しくなった。




