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ボクの名は  作者: 深海くじら
如月

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三十八話 笠司、雨水(四)

 火曜日の朝は久しぶりに冷え込んだ。前夜、銭湯の帰りに見た星空があまりにも綺麗だったから、その予感はあったのだが。

 現場十時なので、九時過ぎには部屋を出ないと間に合わない。作り置きの固茹でたまごを頬張って、出勤の準備をする。このバイトとも週末でお別れだ。遅刻しないようにしないと。


          *


「東京、人多過ぎ。あいつらコロナとか怖くないのか?」


 仕事帰りに寄った(ツジ)の部屋には先客の長田(ダダ)がいて、コミティア帰りの戦利品を前に土産話を聞いていた。


「おー。勤労青年のお帰りか。おつかれさん」

「リュウジ、ひさしぶりー。元気そうだね」


 軽く手を振って買ってきた缶ビールのパックを炬燵の上に置くと、空いてる角に潜り込んだ。(ツジ)が、さんきゅ、と言って差し出した五百円玉二枚を受け取る。


「外、寒いか?」


 パックから赤星を取り出してさっそくプルタブを開けながら、(ツジ)が聞いてきた。


「まあそこそこ。でも曇ってきたから、明日はそうでもないんじゃね」


「早く春になんないかねぇ」


 相変わらずのゆっくりしたテンポで長田(ダダ)が呟いた。僕は肩まで潜り込みつつ、なにか様子の違う部屋を眺めていた。


「あれ? 本棚は?」


「バラして実家に送った。弟が使いたいって言ったから」


 見ると、正面の壁を占拠していた二台の本棚があった場所には段ボール箱が六箱ほど積み上がっている。


「これでも随分減らしたんだぜ、本。正親(サッチー)とかに手伝わせて半分以上ブクオフに持ってって、実家にも送って。そうやって厳選して、これよ」


 そうかあ。荷造りとかに手をつけないといけない時期か。

 そう思いながら、缶ビールに手を伸ばした。


「にしても、後輩を只働きさせるとは、さすがは前会長だな」


「馬鹿言え。あいつらには、プロテクト外ならどれ持ってってもいいって言ってやらしたから。言うなれば、現物支給」


 たしかに。どんだけプロテクトしたのかは知らないが、(ツジ)の蔵書なら貰う価値のあるのも結構あっただろうな。


「そうやって、やっとこさモノ減らしてもさ」


 珍しくビールに手を伸ばした長田(ダダ)が、自分の周り積み上げてある同人誌の山を見ながら笑った。


「すぐ増えちゃうんだよね、こんなふうに」


          *


「しかしお前さん、よく働くよねえ。明日も仕事なんだろ」


 日付も変わり、獲物も日本酒に切り替えていい感じに酔いが仕上がってきた(ツジ)が僕に話しかけてきた。慣れないアルコールを摂取した長田(ダダ)は、もう寝ている。


「明日は昼からだけど、今週は日曜までみっちり入ってる」


 だから手伝いはできないよ、と言って僕も杯を重ねる。

 (ツジ)は今週末でこの部屋を引き払って実家の軽米に戻るらしい。ひと月分家賃を浮かそうって算段だろう。次に杜陸(もりおか)に来るのは卒業式だけという。


「そんなに金貯めて、春休みはどっか行ったりすんのか?」


「新しい住居にどんだけかかるかわかんないから、とりあえず貯めてるだけだよ」


 でも旅行かぁ。考えてなかったけど、旅してみるのもいいかもなあ。


「東京はカネがかかるからな。今回行って改めて思ったよ。楽しそうなもんはそれこそいっぱいあるけれど、どれもこれもいい値段がついてやがる。安いのは牛丼だけ」


 そう言って(ツジ)は段ボールの山にもたれた。

 こうやって部屋飲みできるのも今日が最後だろう。本棚がなくなった部屋を見回して、僕は少しうら寂しい気持ちになった。

 そろそろ本気で出ていく準備を始めないといけないな、僕も。


          *


 土曜日の朝九時半に、僕は重い腰をあげて大家さんの家のドアを叩いた。僕のアパートの家賃は、毎月二十五日に直接手渡しで払う。もちろん銀行振込も対応してるのだが、その度に手数料を取られるのは癪だし、なによりも大家さんがそれを望んでいるのだ。


「はい、どうもね。それで、皆川さんはこの春にはご卒業されるの?」


「おかげさまで、どうにかこうにか」


「失礼かもしれないけど、ご就職は?」


「そちらの方も、滑り込みで」


「あらよかった。おめでとうね」


 大家さんは両手を合わせて喜んでくれたあと、ちょっと待ってと言って奥に引っ込むと、蜜柑を両手いっぱい抱えて戻ってきた。


「はい、お祝い。で、どちらの方なの、お勤め先。市内?」


 御礼して蜜柑を受け取った僕は、東京です、と応える。


「じゃあ春で退室されちゃうのね。あらあら手続しなくっちゃ」


 ぱたぱたとスリッパの音を立てて奥の部屋に戻っていった大家さん。玄関口に突っ立ったままの僕は、その後姿を見ながら、切り出してくれたことを感謝していた。

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