三十五話 瑞稀、雨水(三)
今年の二月十四日は火曜日。でも、なぁんにもしないもんね。
去年は月曜日だったから、前日の日曜日は部屋に篭ってみっちりお菓子作りをやったっけ。おかげで独り暮らし始めたばっかのキッチンが鍋やらボウルやら網やら泡立て器やらで思い切り潤った。まぁその大半も、今では埃かぶり気味ですけど。
会社では若い子たちが義理チョコをバラ撒いてたりしてました。私も若いって言えば若いんですけど。
そうそう。届け物の用事があって総務の部屋に行ったら、窓際の灰田課長の席にきちんとリボンまで掛けた包みがいくつも置いてありました。栄さんの件があって、なんとなく灰田課長に注目することが増えたのですが、どうやら女子の間ではけっこう評判が良いらしくて。たしかによく見れば、背もそこそこあってスラっとしてるし、物腰も落ち着いててがつがつした雰囲気も無いし、おまけに独身。歳はちょっと嵩んでるけど、その分余裕もあるだろうということで、はなまる付きの狙い目案件なんだとか。
ふぅん、って感じです。
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翔子さんのカミングアウト、私だったらその場で怒って帰っちゃうかもしれないって思ったのですが、栄さんは違ったみたいです。十六年という時間が成せる業でしょうか。それとも、既に灰田さんが居なかったからかも。
金曜日の夜、二週間ぶりに訪れたパークライフで、栄さんはカウンターの内側からこう言いました。
「翔子はもともとおとなしい子やと。そん翔子が三年半溜め込んだ思いば吐き出した乾坤一擲やったんやけん、ぬるま湯に浸かって胡坐ばかいとったうちなんかが文句言えるはずもなか」
そう言われてみればその通りな気もしますが、やっぱり私は、横取りした翔子さんが酷いって思うのです。
「そりゃ瑞稀は事故んときん話しか知らんけんそう思うっちゃ。本来の翔子は控え目で自分ば抑える優しか子やった。あんときは、よっぽど思い詰めとったっちゃろうね。それにあん子はもう充分に報いは受けとぅばい」
栄さんは新幹線のときよりもずっとサバサバした顔をしています。この五日の間にいろいろと考えて、自分の中で何かの結論を出したって感じ。会ったことない翔子さんのことを気に病むよりも目の前の栄さんが少しでも元気になっていることの方が、私にとってはぜんぜんいい。
でも片脚失ってまで強く惚れ込んだ相手と結婚できたのに、どうして別れちゃったんでしょ、翔子さん。
「ミツルがな、言うたんやて。俺ば開放してくれって」
ひとり言のように口に出た私の疑問は、コロッケを揚げる音にもかき消されずに栄さんの耳に届いてしまったようでした。
「一緒に風呂浸かりながら翔子が言うたとよ。うちが三年半溜め込んで暴発させたんごと、こーよーさんも十三年間溜め込んどってたまらんごとなったもんばぶち上げたっちゃろうなって」
灰田課長のモテぶりを話題にしようかと思ってたのですが、とてもそんな軽い話はできそうにありません。なんて応えればいいのかもわからず、私はただ黙りこくってベルギービールを舐めていました。
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なんだか気が抜けた感じの日曜の午後、仕舞い込んでいたキンドルファイアが出てきたのでなんとなく起動させてみたら、積読になってたマンガを発見しました。
『ぼくらのよあけ』
先月の末だか今月の頭だかに創作仲間の蔵六さんから勧められたマンガです。あのときは彼の熱い推薦で思わず購入してしまったのですが、オフ会やらなにやらでバタバタしてて、すっかり忘れていました。単行本で二冊のボリュームですか。晩ご飯までまだ少し間もあるし、とくにしなきゃいけないこともない。うん。ちょっと読んでみますかね。
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正直、甘く見てました。蔵六さん、ごめんなさい。
冒頭にISSとか観測衛星とか出てくるから、きらいじゃないかな、くらいの気持ちで読んでいたんですが、これ、めちゃめちゃ面白いじゃないですか。
気がついたら夜になってて、最後の一話を読むときに、空腹のままじゃ集中できない、って思って急いでご飯つくっちゃったり。
たしかにこれは人に薦めたくなる。だってホントにわくわくするんだもん。
去年の秋、初出から十年越しでアニメ化されたそうですが、きっと制作した人たちも後から読んで感激して、絶対誰かに伝えたいっていう想いで映画にしたんだろうな、と思います。うん、間違いない。
人の想いの行き違いと修復、ロジカルな自意識同士の変わらない友情、人と人以外の繋がりやこだわり。なんかいろんなテーマがぎゅって詰まった素敵なジュブナイルSFマンガでした。こういうお話がつくれたら楽しいだろうなぁ。
私は新しい連作のことを考えます。初めて書く異世界ファンタジー。偶然ですが、これもジュブナイルを意識してます。旅に出る少女の成長譚。上手く着地まで漕ぎつけることができるかなあ。




