三十三話 瑞稀、雨水(二)
「あの事故な。翔子が仕掛けたんやって」
窓際の席で二缶目のビールのプルトップを開けて、栄さんは言い放ちました。
「十六年前の冬、雪ん降りしきる九州自動車道ば東に向かって走る車内でな、翔子は一世一代の勝負に出たっち言いよった」
十六年前? 翔子さんが片脚を失い、栄さんが恋人と別れる元となった事故の話?
私は合槌すら返すことができません。
「うちらが感じとったより遥かに強う、翔子はミツルんことば好いとった。そりゃもう、最初んところから。祥子に言わせりゃあ、好きになったんな自分の方が先やって」
栄さんはビールをひと口飲む。車窓に映る空は、向かう先の方から赤味を帯びてきました。
「こーよーさん。あ、昔っから翔子は光陽んことばそう呼ぶっちゃ。光陽さんの目はずっと栄ん方ば向いとう。けど栄はそれに胡坐ばかいて、自分のやりたかことしか見とらん。うちの方が彼ば幸せにできる。翔子はずぅっとそう思っちょった。そしてあの日が、あんときが最後のチャンスやて思うたと。彼ば自分に向き直させる」
言葉を差し挟むこともできず、私はただ聞き続けるしかありません。喉が渇いてきました。
「博多から門司までやったら一時間そこそこ。そん短か時間で、三年半不動やった妹ん地位ば恋人に昇格させるにはどげんしたらよかか。ただ告白するだけじゃ効き目なんか期待できん。いままでんおとなしかイメージば一変させるばり強かやり方が必要、そう考えた翔子は無茶ばしたと」
完璧にできあがってるカップルの片割れをたった一時間で変心させる方法。そんなものあるなんて、私には想像もつきません。
「いったい何をしたんですか、翔子さんは」
缶ビールを飲み干した栄さんは、深く息を吐いてから口を開きました。
「パンツ脱いだんやと」
「はあ?」
あまりの意外な答えに、私は思わず間抜けな声をあげてしまいました。通路を挟んだ席の老婦人がこちらを睨みつけてきます。口をつぐんで頭を下げた私は、その先を聞くために栄さんに向き直りました。
「当日ん予定ば二日前に確認した翔子は二晩じっくり考えたんやて。慣れん匿名知恵袋に質問ば書き込んだり2ちゃん覗いたりして、いろんなもん調べたんやって。で、出てきた答えがそれや。なんのこたない、単なるハニトラっちゃ」
憤然とした貌の栄さん。私はぽかんと口を開けていたかもしれません。
「寒かったろうに、いままで着たことも無かようなぺらぺらんミニワンピースばブラもせんで身に纏うてな。横に座るときにもこもこのコートを脱いで、そん格好ばミツルに見せつけたと。ミツル、目ぇば剝いてたげな」
憤然を通り越して呆れ顔になってる栄さん。でもその気持ち、わかります。翔子さんにも、灰田さんにも。
「高速は車も少のうて道も真っ直ぐ。雪が舞って視界は良うなかったはずやけど、翔子にはそげなもんは見えとらん。助手席に座ったまま身ィば捩ってパンツ脱ぐと、そればミツルに渡して言うたと。うちば選んで自由にしたって、って。で、そっからあとの記憶は無かっちゃ」
そこまで話したところで、栄さんは前の座席の背中にぶら下げたコンビニ袋に空き缶を放り込んだ。大きく息継ぎ。唐突に鳴り出したジングルに続いて流れる広島の到着を告げるアナウンスが途切れたあとも、私たちふたりは無言でした。
「病院で目ぇ覚めたとき、片脚がつまらんごとなっとったことよりも、気ぃば失うとった数日間ずっとパンツ履いとらんごたったことの方がショックやったって言いよったと」
広島駅を出て川を何本か渡った辺りで栄さんは話を再開し、乾いた笑顔を見せた。
「左足ば失うたんは完全に計算外やったけど、それでこーよーさんが円満に手に入ったけん、損得で言やぁ得やったかな。そう翔子は言うとったっちゃ。少なくともそんあと十年はね、とも」
男女の関係とか、恋愛とか結婚とかって、こんなにも全力で、場合によっては自らのルールやモラルを大きく逸脱させてでも奪い取りにいったりしなければいけないものなのでしょうか。私にはよくわかりません。いや、よくわからないのは私がまだ未熟なだけなのかもしれない。
黙りこくって流れる景色を追っている栄さんの横顔を、私は見つめています。私よりもひと回りも上のこのひともわかっているのでしょうか。背景の車窓は、いつの間にか濃紺が深くなっていました。




