三十二話 笠司、雨水(一)
十三日の月曜日、研究室の掲示板に今年度の卒業確定者の名簿が貼り出された。僕の名前「皆川笠司」は「原町田由香里」と「叢雲勝」の間にちゃんと収まっていた。
就職確定の報告をすると、老教授は破顔で喜んでくれた。よほど気に病んでおられてたようだ。叱られてばかりだった教授からこんなにも労ってもらえるとは夢にも思わなかったが、改めて自分が多くの人と関わって生きていることを実感する。
午後はバイト先の菱沼装美に顔を出す。本町通りの片隅にある事務所には菅原さんと事務の御嶽さんが暇そうな顔をして座っていた。御嶽さんは自分の事務机で、菅原さんは応接ソファ。挨拶もそこそこに、僕はいつもの流れで壁に掛けられた白板の月間予定表に書き込まれた現場と自分のスケジュールを確認する。
「え? 僕のとこ結構埋まってるじゃないスか。月末まで三日しか休みないですよ」
「社長言ってたじゃん。二月はこき使うって。大学の方はもう終わったんだろ」
ほぼ空っぽの湯飲みの最後のひと口を飲み干して、菅原さんが言った。
「いや、それはそうですけど。僕にも予定ってもんが……」
「なに言ってやがんだよ彼女のひとりもいねえ癖に。えらそうに予定とか、明日チョコもらってから言えってえの」
「そういえば社長、皆川さんに、部屋の解約だけは忘れないよう伝えといてって言ってました」
大笑いする菅原さんを気に留めるでもなく、御嶽さんが顔も上げずに淡々と告げた。菅原さんが追い討ちをかけてくる。
「そういう事務作業の肝心なとこ、リュウは忘れそうだもんな。チョコも無いのにおっちょこちょい」
そりゃたしかに、その手続きはまだやってませんけど。だいたいチョコとか関係ないじゃないですか。モラハラ? いや、バレンタインハラスメントだからバレハラか?!
「どうせ向こうの部屋もまだ決まってないんだろ。早めに探して唾つけとかなきゃすむとこも無くなっちゃうぞ」
ぼちぼち探してますよ、ネットで。そう応えながらスマートフォンに予定を書き込んでいる僕の傍らに、御嶽さんがお茶を置いた。
「私の従兄弟が東京で不動産屋やってるんだけど、何かの役にたつかしら」
気配に顔を向けると、すぐ横に立った御嶽さんが僕の顔を覗き込んでいた。僕は思わず後ずさる。
御嶽さんは人との距離感がちょっとおかしい。日常の九割は冷淡とも取れる塩対応で、社長や僕らだけでなくお得意様に相対しているのに、何かの拍子で予告無しに、今のような調子で距離を詰めてくるのだ。入社は僕がここに来るよりも少し前で、見た感じは二十代前半でも通るのだが、実年齢は社長以外知らない。結婚していると聞いた気もするけれど、その割に旦那さんの影はまったくない。いつも定時に入って定時に帰るが、自宅がどっち方面かもわからない。そう言えば、下の名前さえ僕は知らない。要するに謎の人なのだ。従兄弟がいるなんて話も、三年間顔を合わせてて初めて聞いた。
「もし当てが無いんだったら聞いときますよ。戸越銀座の近所でしたよね、エムディスプレイさん。あの辺りで、二十代の健康男子が毎晩寝に帰るだけの安いアパートという条件でいいですよね」
なにこれ? このグイグイ来る感じは。御嶽さん、なんかスイッチ入っちゃった? ていうか、そんなブラック企業なの、エムディスプレイって!?
「それともニューファミリー用1ベッドルームLDKの方がよろしかったかしら」
「前のヤツでいいです」
もう完全に弄ばれてるよな、僕。しかし、ここでバカ話してられるのも今月いっぱいでお終いなのか。
いろいろとツッコミどころはあるのだが、なにか言ったところで三倍にして返されるのがオチなので、僕は明日のシフトに入ってる仕事の資料を整理し始めた。
二月の第二火曜日、午後一時に事務所に行くと、もうみんな揃っていた。まあみんなと言っても社長と菅原さんと御嶽さんの三人だけだけど。この会社、僕が抜けたら本当に大丈夫なんだろうか?
今日の仕事は宮古のパチンコ店の装飾入れ替え。作業開始は夜十時だが、制作物やらなんやらを北上にある倉庫で引き取ってこなければいけないのだ。移動時間も考えると、遅くとも二時にはこっちを出ないと間に合わない。という予定表を、昨日僕が作った。出張作業員は菅原さんと僕。現場リーダーは、なんと僕がやるというのだ。
昨日の午後に菅原さんから言われ、その場で社長に電話したのだが指示は変わらない。
「小さかろうがなんだろうが、人を使う仕事を一から全部やってこい。もう充分見てきたはずだから」
やらなきゃいけないことはたくさんあった。現場作業についてはもちろんだが、それぞれの目的地へのルート確認、車の予定確保、食事タイミングと店の確認、深夜作業になるから終了後の宿泊場所手配、仮払いの申請と管理、その他諸々。
僕があちこちに電話したり資料つくってたりしてる間、菅原さんはソファに乗っ転がって昼寝をしていた。チェックをする気すらないらしい。
全部の準備が整ったのは夜八時を越えていた。事務所には僕ひとり。マジでいいのかこの会社。とも思ったが、これも社長から僕への手向けなんだろうな。
「多少余裕見過ぎなとこはあるが、少なくとも抜けは無いな。これの予定通りやってこい」
社長に太鼓判を押され僕は事務所の出口に向かった。
「皆川さん、ちょっと」
後ろから控えめな声がかかった。なんスか、と振り返る。声の主は御嶽さん。忘れ物でもあったかな?
いつもとは明らかに雰囲気が違う挙動不審の御嶽さんは、左右を見回してる。社長は衝立の向こうの自分の席でなにかやってるし、菅原さんは車に荷物を積んでるはず。つばを飲み込む音が聞こえてきそうなほど首を引いて、御嶽さんは紙袋を差し出してきた。なんだかわからないが、反射的に手を伸ばしてそれを受け取る。
「渡したからね。受け取ったんだからね」
意味不明の言葉を言い残して御嶽さんは自席に戻った。もうこっちのことも見やしない。いったいなんなの? 紙袋を覗き込もうとした途端、派手な音がした。見ると御嶽さんが分厚いノベルティカタログを机に叩きつけている。
「余分なことしてないでサッサと出掛けなさい!」
追い出されるように事務所を出た僕は、駐車場までの道すがら、手渡された紙袋の中身を検分した。
チョコレートだった。




