二百三十四話 笠司、立冬(七)
いつもより一時間以上遅い出勤の京浜東北線下り車内は乗車率七割程度で、運が良ければ川崎駅で座れる。もちろんだが、基本的に運の悪い僕は、予想通りつり革に掴まったままでスマホを見ている。
画面に映っているのは、つい今しがた届いた月波さんからのリポスト。
月波@tsukiandnami
頑張りましょう❣️
―――――午前8:40 · 2023年11月16日
いまこの時に、月波さんが僕のことを思いだしてる。この繋がってる感覚の満足感たるや。思わず笑みがこぼれてしまった。傍目には気持ちの悪いあんちゃんになってるはず。緩んだ頬を緊張させて、まわりに目線を滑らせる。通学時間には外れているから高校生はいない。よかった。誰も気にしてない。
しかしなんなんだろう、この感覚は。まるで飼い主と目線が合ったわんこみたいだ。たったひと言、それも定型文が返ってきただけだっていうのに、この尻尾の振りようはどういうことだ?
この感覚を覚えていないわけじゃない。あのとき、今と同じ電車に乗っていた。時間も方向もまるで逆だけど、アプリもⅩじゃなくてLINEだったけど。終電の車内で大井町に着くまでの間ずっと繋がっていたあの至福。
黒くなっていた画面に指を乗せると、もう一度、月波さんのリプポストが表れた。
*
「いや、だからさ、皆川さん。ここのシンボルの大きさは、絶対千ミリは必要なの」
パースから起こした設計図を前に、鳩山課長は自説を譲らない。
焦点はフロート正面の左右端に付けるスポンサーロゴパネルのサイズだった。二種類あるパネルの設計図上での最大径は、左右それぞれが八百ミリ。規定の車両最大幅は二千五百ミリだから、左右それぞれに千ミリ径の板面なんか付けたら、バランスもなにもあったもんじゃない。それがわかっている吉川さんは、課長の後ろに立って、すまなそうな顔で手刀を立てている。
この秋に|ショッピングセンターのテナント管理部門から異動してきた鳩山課長は、なにに対抗心を燃やしているのか不明だが、とにかく異常に鼻息が荒い。やる気があるのは大いに結構だけど、細かいところに理解不能なごり押しをしてくるのは困りもの。だいたいイベントの管理などやったこともないって言ってるワリに、やたらと自分のカラーを出したがる。それも、妥当なものはほぼ皆無。全体のバランスなんかガン無視だよ。
長い時間をかけて良好な関係を築いてきた吉川さんにしてみれば、突然やってきた見知らぬ上司にせっかく架けた梯子を蹴り飛ばされた心境だろう。今回も、自分が引き継ぎという名のテナントいじめのやり納めをしている間にパースが決まったことを根に持っての横車のようだ。
「明日、ちゃんと直した図面もってきて。言っとくけど、業者はあんたんとこだけじゃないんだからさ」
言いたいことだけ言って部屋を出て行った鳩山課長を見送ってた吉川さんは、肩を落として深い溜息を吐いた。
「悪かったな、リュウちゃん、無茶苦茶なのが出てきちまって。どうよ。なんとかなりそう?」
あく抜きに失敗したゴーヤを食べたみたいな顔をしてそう尋ねてくる吉川さんだったが、こちとらそれどころじゃない。
「デザインぶち壊しですよ。左右バランスもそうですけど、上も二十センチ上がるんでしょ。せっかくルーブルの柱っぽくした意匠も、足元が隠れちゃって台無しじゃないスか」
そうなんだよねぇ、と呻く吉川さん。いつもの軽妙な感じはすっかり影を潜めている。
「とりあえず、昼飯でも食いに行こっか。高架下の町中華だけど、今日は奢るよ。面倒かけるし」
資料をまとめて封筒に戻した吉川さんは、一度だけ僕を振り返ってからドアのノブを回した。着地点の目途を立てないと会社に戻れない僕もあとに続く。
昼飯くらいで納得できる話じゃないっスよ。マジで。
*
「あのひとさ、リーシングを追い出されたらしいんだ」
天津麺を蓮華に乗せたまま手を止めた吉川さんが話し始めた。どうやら少し熱かったらしい。
「あの調子でけっこうテナントを締め付けてたみたいなんだけど、そのやり方に腹立てた超大手が出ていくって言いだして大騒ぎになったみたいなのよ」
冷ましていた麺をずずっと啜った吉川さんは、コップ半分水を飲んでから話を続けた。炒飯を食べた蓮華でワンタン麺のスープを飲みつつ、僕は耳を傾けている。
「常務が出張ってなんとか収めたんだけど、とにかく鳩山は外せって話になって、いまいち社内のパワーバランスに疎いうちの部長が引き取るってことになっちゃったワケ」
一向に冷める様子の無い天津麺の早急な攻略を諦めたのか、箸を置きおしぼりで顔を拭った吉川さんは、投げ捨てるように言葉を重ねた。
「上の方はさ、どうせ掻き回すだけ掻き回して失敗するだろうから、そしたら本格的に干して居場所なくしてやるって算段っぽいんだけど、煽り喰らって失敗させられる身にもなれってんだよ」
お家事情で失敗させられる外注は?
ワンタンをちゅるっと吸って気持ちを切り替えた僕は、別の角度で尋ねてみる。うちまで失敗を前提にするこたぁない。
「鳩山課長って実際のところどんなひとなんですか?」
「実際のところねえ」
吉川さんは思案顔のまま麺を啜り始めた。どうやら食べられる温度になったようだ。食べてる間はなにも出てこない。僕も麺を攻略する。美味いな、これ。
「性格はきついけど滅茶苦茶なだけでもない、つー話は、彼の前部署の同期から聞いた。デフォルトは意地悪なんだけど、怒ってることの大半は納得できる理由があるんだ、って。テナントのしょぼい不正とか規則違反とか」
なるほど。
それが事実だとすると、今回のクレームの真意も本気で会社のためを思ってのことかもしれない。あるいは1メートルっていうのも単なる勢いなのかも。
僕は周囲に知った顔が無いかを窺ってから、こっそりと尋ねた。
「吉川さんは別に鳩山さんの失脚を一番に望んでるわけじゃないですよね」
「なに言ってんのリュウちゃん。俺ァよこはまパレードを愛しちゃってんだぜ。鳩山さんどうこうとか関係なく、成功させたいに決まってんじゃん」
吉川さん、喋るのは食べ終えてからにして。
とはいえ、そのスタンスが聞けたのはひと安心。
鳩山さんの指摘が正面のエンブレムだってのは間違いない。問題はそれをどう解釈し、どう表現して見せるのか。頭の中で開いた図面を輪郭からなぞってみる。
「吉川さん。ちょっと思いついたことあるんですけど、聞いてもらえます?」




