二百話 笠司、秋分(二)
衿香さんのマンションは、たしかに現場から近かった。駅ビルの通用口を出て、駅直結のタワマンを横目で見つつ川と並行の通りを歩くこと十分弱、コンビニの前で彼女が指差したのは、十階建てくらいの白い建物だった。
「築はちょい古めの1Lだけど、リビングはそこそこ広いから気に入ってるの。ここに男の子入れるのはリュウジがはじめてよ」
というのは嘘だけどと付け加えながら、えりかさんはバルコニーに通じる窓を開けた。澱んだ部屋の空気が秋の夜風と入れ替わっていく。
招待されたとは言え、つきあってるわけでもない若い(?)女性の独り住まいの部屋に誘われるがまま入ってくってのは人としてどうなのよ、と思わないでも無いのだが、電車を乗り継いで一時間以上かかる帰路を考えると、この近さは抗いがたいものがある。明日も朝早いし。
部屋着に着替えて奥の部屋から出てきたえりかさんは、コンビニで買ってきたお酒やつまみを手早くテーブルの上に並べている。
よく考えたら、女のひとの独り住まいの部屋にあがるのなんて初めてだ。ていうか、そもそも女の子の部屋にも入ったことなかった。ついつい部屋の中を眺め回してしまう。多少の生活感はあるものの、部屋はよく片付いていた。壁の一番目立つところに四人の女性が映った大きなパネルが飾ってあった。知らないロックバンド、みたいだ。
「ほら、あんまりじろじろ見ない」
すんませんと頭を下げて、僕はフローリングの適当なところに腰を下ろした。パネルの斜め向かい。
「ああ、それね。日本一のガールズバンド。いまはもう無いけどね」
窓を背にして大きなクッションにぼふっと座ったえりかさんは、手に持った缶ビールのプルタブを開けた。あわてて僕も、それに倣う。
「かんぱーい」
深夜の宴の始まりだ。
グラビアに出てた頃の切り抜きや高校時代に組んでたバンドの写真なんかを持ちだしてきたえりかさんは、やたらと自分のことを語った。
「彼女たち、高校時代から有名だったんだよ」
檸檬サワーの缶を持った手でパネルを指し示した彼女は、自分の写真に目を落して話を続けた。
「立川のライブハウスが企画した高校生バンドばかりのギグで、一度だけ同じステージに立ったことがあるんだ。もうね、なにもかもが違ってた。私らが超背伸びしてチャットモンチーの下手っくそなコピーを演奏ったそのあとに彼女らが舞台に上がったの。東京事変の名曲『群青日和』の超絶コピーからはじまって、最後にはオリジナルまで披露しちゃうんだよ。ギターはめちゃくちゃ上手いしリズム隊もしっかりしてた。でもとにかく、やたら背の高いヴォーカルの歌が凄くって。あれは完全に才能だよね。どうやっても勝てないって思った」
背中を反らせるようにして飲み干したえりかさんは、次の缶に手を伸ばす。
「ロックじゃ完敗だったけどルックスはちょい勝ってたんだろうね。そんとき雑誌の人に声掛けられたんだ。グラビアやる気ない? って」
私のルーツはまあそんな感じ、と締めた彼女は、唐揚げを口に放り込んでから僕を促してきた。
「お次はリュウジの番。ちゃんと面白い話もってきてよ。あんまりつまんないと打ち切って強制ちょめちょめに流れちゃうから、心してネタ出すように」
そう言われてもなにを話せばいいのかわからない。逡巡する僕を見かねたえりかさんは、薄地のカットソーを盛り上げる胸を突き出すようにして助け船を寄越した。いや、それが助け船と呼べるのであれば、だけど。
「じゃあさ、これ聞かせてよ。目の前にこんな立派なお膳がハイどうぞって据えられてんのに指一本出してこないこの超々メンドクサーイこじらせDTは、いったいどうやってできあがったの?」
こじらせDT。融通の利かない石頭の作り方、か。たしかに言葉にしてみたことはなかったな。悪くない振り返りになるかもしれない。
飲みかけの缶ビールをテーブルに置いた僕は、ゆっくりと口を開いた。
「はじまりは弟だったと思う」
いちど目をつぶり、それから開いた目をえりかさんではなくビールの缶に向けて言葉を紡ぐ。気持ち酔った頭で、慎重に記憶を辿って。
「僕の双子の弟は、僕と違って小学校のころからとてもモテた。双子だから昔はまったく同じだったんだけど、小学校二年の終わりに僕が事故でひと月半ほど入院して、戻ってみたら木造アパートとタワマンくらい差が開いてたんです。僕という相方がいないことで、あいつの社交性は爆発したんだと思う。学年が変わりクラスも変わったタイミング、僕のいないひと月であいつは一気にクラスの人気者になってました。とても埋め切れそうに無い彼我の差を目の当たりにして、僕は奴とは違う道を行こうって決めたんです」
ビールをひとくち。えりかさんの反応は見てないからわからない。
「中二のころ、あいつに最初の彼女ができました。テニス部で一番可愛いと評判だった同じ学年の子。詳しくは聞いてないから知らないけど、たぶんキスくらいはしてたんじゃないかな。同じく二年生の一月に、僕にも好きな人ができた。一学年上の先輩で、とても聡明なひとでした。僕は生徒会に入ってたんで、なんとか理由をつくって彼女との接点をつくろうとしたんです。でもあの頃の一年の差は果てしなく大きい。彼女が卒業するまでの一年間で僕ができたことは、住所を教えてもらって年賀状をしたためるのが関の山だった」
「一方で、弟は派手にやってました。最初の彼女とは半年くらいで別れ、ほとんど間を置かず次の子。あいつは結局、卒業するまでに三人とつきあってたっけ。県下一の進学校に入ってからもその勢いは切れず、弟は見るたびに違う女の子と一緒にいました」
「僕の方は、先輩と同じ高校の受験に失敗し、想定外の私立高校に進学しました。あのときの落ち込み様は、我ながら半端じゃなかった。でも高校にはあいつがいなかったので、僕を比較して見るひとはいなかった。同じ中学の奴は数人しかいなかったから。おかげで一年の夏休み前には僕にも彼女ができました。むこうから告白してきてくれたんです。その子とは一度だけデートしました。もちろん、高校生らしいプラトニックなやつ。でもね。なんかしっくりこなかったんです。自分の気持ちが。なんで僕はこの子と並んで歩いてるんだろうって」
「夏休みのある日、奇跡的に連絡がついたあの先輩とデートすることができました。ふたりで電車に乗って美術館に行くってやつ。僕はもう有頂天でした。彼氏彼女になったわけじゃない。彼女と僕の差は、まだまだ大きかったから。でも僕は、こここそが僕の居るべき場所だって確信したんです。一生このひとのことを好きでいられる、と」
「休み明け、僕は同級生の彼女に振られました。夏休みの間、僕からは一度も連絡を取らず逢いもしなかった。そのうえ、僕と先輩が一緒にいたところを彼女の友人に目撃されていたという証拠つき。でも僕は、かえって安心したんです。もう嘘のおつきあいをしなくてもいいって」
「弟の浮名は、学校が違うから詳しくは知りません。でもあいつが高校時代にいろいろとステップアップしていたのは間違いない。ファッションはどんどん大人びていったし、当時の僕には使い方すらわからないストレートな備品なんかも、机の中に入ってたから。そういうものを見て、想像して、僕はあいつのようになるまいって強く思ったんです。あんなあっちもこっちも手を出して、本気でも無いのにやることやって、そんなの犬猫と一緒じゃないか、とね」
「もちろん、弟だって一から十まで適当だったってことはないはず。現にいまのあいつは、二年近くつきあってる女の子と仲良く同棲してるし。あいつのやりかたは、いいなって思った相手と本気でお試しして、違うなって思ったらすぐ解消する、いわゆるトライ&エラーを重ねることで自分を高め、本当の相手と巡り会う機会を増やしていく、というものだったんでしょう」
「弟のスキームは合理的です。経験値を高めることは成長それ自体に直結する。でもそれは僕のやりかたじゃないんです。深い関係を持たなくても、セックスなんてしなくても、本当に通じるひとを見つけることはできる。そうしてそのひとと心を重ね合わせることができたそのときにはじめて迎える関係は、弟のやりかたでは絶対に味わうことのできない至高の悦びとなるだろう、と」
くはー、という声に釣られて顔を上げると、えりかさんが呆れ顔でこっちを見ていた。
「で、その先輩とはどうなったのよ」
核心を突かれた。でも勢いでここまで語ってしまった以上、それに触れないわけにはいかない。
「この春、再会しました。僕の気持ちに変わりは無く、彼女もそれに応えてくれる、そう感じたんですけど」
「けど?」
「一年前までつきあっていた男が突然現れて、彼女はそいつを選んでアメリカに行っちゃいました」
えりかさんはもう一度、くはーーーっ、と呻いた。
「ごめん。笑っていい?」
黙ってうなずく僕に、えりかさんは顔を顰めた。
「いや、馬鹿にしてるんじゃないよ。なんかね、すごいなって思う。純粋に。でもやっぱ、馬鹿だよね」
ですよね、と僕はうつむく。
クッションから身体を浮かした前のめりのえりかさんが、リュウジ、と呼び掛けてきた。
「例えば、波照間さん。リュウジはあの子をどう感じてる? その筋じゃベテランの私の見立てだと、あの子はリュウジのことを相当気に入ってると思ってんだけど」
はっきりした返事ができない。
たしかに僕は、波照間さんに好感をもっている。もしも近くにいるのなら、もっと親しくなりたいって思う。でも、あのひととはたぶん、縁が無い。物理的距離が広すぎて、交感を積み重ねることができない。
「リュウジ、遠くて逢えないのを言い訳にしてない?」
えりかさん、心が読めるの?!
「中学時代からずっと想ってた先輩とは、もう百パーセント駄目だってちゃんとわかってんだよね。心にケジメ、ついてんだよね」
えりかさんのこの念押しには僕もちゃんと応えられる。その通りだ。
「ならさ、可能性があるもののためにもっと抗いなさいよ!」
えりかさんの顔を真っ直ぐ見る。このひとは本気だ。本気で怒ってくれてる。
「波照間ちゃんとは何回ごはん食べた?」
はぁ? ごはん?
そういぶかしみつつも、僕は指をV字に示して応えた。二回。
「その二回は楽しかった? つまらなかった?」
楽しかった、と呟いた僕にえりかさんが大きくうなずく。
「あのさ、リュウジ。世界中にあんたの対象となりえる女がどれだけいると思ってる? きっと十億くらいはいるよ。そん中で、あんたとサシでめし食ったことのある女は何人いる? 千人? 二千人? リュウジのことだからきっと十人くらいが関の山だろうけど、仮に百人いたとして、そのひとたちは一千万人にひとりの上位入賞者なんだよ。二回もごはん食べた希少な相手が、縁が無いとかってあり得ないでしょ」
「まして、波照間ちゃんとは、いっしょに食べたごはんが美味しかったんだよね。ならもう、それだけで充分に一歩踏み出す理由となるでしょうが!」




