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ボクの名は  作者: 深海くじら
葉月

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百六十五話 瑞稀、処暑(二)

 朝の空港に向かう地下鉄の中で、私はひとり今週を省みていました。月曜の朝から金曜(きのう)の夕方に至るまでの会社での時間。語るべき言葉を見つけられなかった私は、結局のところ灰田さんになにひとつ伝えることができなかった。


 考えてみれば、栄さんが灰田さんの行動を待たなければいけない理由などどこにもないのです。たしかに学生時代は将来を見据えるほどの親密な交際をしていたかもしれません。でもそれは成就することはなく、灰田さんは彼女の親友と結婚してしまった。その時点で彼女の想いや覚悟はリセットされたのです。だから、完全なる没交渉の十数年間を経て互いにフリーになった状態で再会したとしても、関係を修復させなければならない責任など欠片も無い。

 私の憤りは、私が頭の中で勝手に作ったシナリオと違う選択を栄さんがしているからに過ぎません。半年近く机を並べて仕事してきた灰田さんへの過剰な感情移入も拍車をかけていると思いますが、これじゃまるで、子どものわがままですよね。つまるところ、私自身の経験値の足りなさこそがこのイライラのすべての原因なのでは、と。

 安曇さんの誘いに乗った栄さんは誰にも文句を言わせない独立した大人で、安曇さんの行動もどこからも非難されることのない真っ当で公平なアプローチです。ちゃんとした大人であるのは灰田さんも同じで、状況を楽観視してとるべき動きを逡巡していたのは純粋に彼自身が責を負うべき彼の落ち度でしょう。

 いずれにしても、私ごときが是非を問えるような話じゃない。それだけは間違いないのです。未成年の中高生が煩悶する|BSS《ぼくが最初に好きだったのに》なんて大人には関係ないし、まして隠れて応援してるだけの観測者に状況を覆す資格なぞあろうはずがない。


 それでも。


 頭では納得しても、私の苛立ちは収まりません。こんなことを抱えたまま十日近くも福岡(ここ)を離れて旅に出るなんて、気が重い。波照間の海を見たら、少しは気が晴れるのでしょうか。


          *


 羽田には定刻通りの午前十時に到着しました。

 飛行機ってすごい。さっきまで福岡にいたのに、席に座ってぼーっとしてたらもう東京。その間たったの一時間四十分。空港線で天神から唐津まで行くのとほぼ一緒じゃないですか。部屋から筑紫野の実家に帰るのだってそのくらいですよ。それに比べ、こちとらは日本列島の西の端から真ん中まで! 九州の北の方でこしょこしょやってるのとはワケが違う。

 ひさしぶりに乗った飛行機に感激して妙なテンションになった私でしたが、それでも手荷物受取で滔々と流れくる鞄の川を見つめるうちに少しずつ落ち着いてきました。母から借りた白いスーツケースを回収するころにはすっかり冷静になって、ここから祖母の家までの電車の乗り継ぎを頭の中で辿れるほど持ち直していたくらい。

 ゲートをくぐって広いロビーに歩み出た私は、品川まで出る京浜急行との接続を探して周囲のサインを見回します。ありました。なるほど、右手に進めばいいんですね。

 取っ手を伸ばしたスーツケースを引いて足を踏み出そうとしたそのとき、向かいの人波の中から呼ばれた気がしました。


「波照間さん、ですよね」


 旅行者とは違うラフな出立の青年が私の名前を呼びながら近づいてくるのです。知らない顔。知らない雰囲気。こんなところで誰かと会う予定なんて聞いてない。

 思わず重心を後ろ脚に掛けた私は、しかし次の瞬間に気づきました。このひと、知らなくない。実際に会ったことはないけれど、画面でだけなら何度も。


「皆川、さん……?」


「やっぱり波照間さんだ」


 不安そうだった青年の表情がからくりのように柔らかく変化(へんげ)しました。


「はじめまして。皆川笠司です。まさかこんなところではじめて会えるなんて、思ってもみなかった」


「こちらこそびっくりです。声かけられるなんて想像もしてなかったから」


 ショルダーバッグをスーツケースの上に置いて、きちんとお辞儀をします。


「あたらめまして、波照間瑞稀です。ZOOMではいつもお世話になりっぱなしで」


「それはこっちの台詞ですよ」


 そう応えながら、慌てたように皆川さんも頭を下げてきました。意外に近かったのか、上げようとする私の頭と皆川さんの額がぶつかって、思わずあとずさっちゃった。


 大丈夫でしたかと聞く私に、右手で額を押さえた皆川さんが空いた方の手で大袈裟に否定します。


「すいません。こっちは大丈夫です。いやホント、すみません」


 平身低頭の皆川さんを見てるうちに、私はなんだか可笑しくなってきました。皆川さんも苦笑いしています。



 迎えはおらず、ひとりで京浜急行の駅に向かうところと応えた私に、皆川さんは先導を申し出てくれました。ご自身のお時間は余裕があるとのことなので、ご厚意に甘えて改札まで送ってもらうことにします。


「お仕事ですか?」


「いえ、夏休みです。祖母を訪ねて」


「ご実家? え、波照間さんってご出身は東京だったんですか」


「中学までは。あ、でも東京と言っても端の方ですよ。狛江ってご存じですか」


 長い下りエスカレーターで、前に立ったまま思案顔で見上げてくる皆川さん。やっぱり知らないんだろうなぁ。


「すいません。ちょっとわかんないです」


「そうですよね。二十三区には入ってない地味な市ですから。場所は世田谷区の西になります。電車は小田急線一本しか通ってなくて、市内の駅も二.五個だけ」


「二.五個?」


 やった。釣れました。私が狛江市を説明するときの得意技。


「喜多見っていう駅があるんですよ、世田谷との市境に。その駅、ホームの半分は狛江市側にあるんですけど、住所も改札も世田谷区」


 いい感じに笑ってくれた皆川さんは、しかしそのあと、過去には無かった返しを持ってきたのです。


「なるほど。神奈川でいえば大船駅みたいな感じなんですね」


「おおふなえき?」


 思わず聞き返した私に、まってましたとばかりに語りを始める皆川さん。


「JRの駅です。鎌倉市と横浜市の境にあって、駅施設の三分の二は鎌倉市。所在も改札も鎌倉市なんですが、すぐ近くにつくられた駅前バスセンターの方は横浜市側にあるんです。たしか何年か前にバスセンターに直結できる改札も横浜市側に新設されたんだとか」


 へえ。喜多見の他にも、そんな(ぬえ)みたいな駅があるんですね。でもさすがは横浜市、ちゃんと自分とこの方にも流れをつくらせちゃうなんて。


「それ、狛江市にはとてもできない力業ですね」


 釣ったつもりが釣り返されちゃいました。おかげでひとつ賢くなった感じ。



 もう少しお話ししていたい気持ちもちょっとだけあったけど、羽田空港第1・第2ターミナル駅にはあっさり到着しちゃいました。私たちの偶然の邂逅はここで終わりです。


「この改札ってSUGOCAは使えるのかしら」


「JR九州のですよね。たぶん大丈夫だと思いますよ」


 皆川さんが請け負ったとおり、東京の自動改札機は普段遣いのカードで入場に挑戦した私を閉め出すことなく受け入れてくれました。

 私たちは改札の隣にある柵越しに、締めの挨拶を交わします。


「なかなかない偶然でしたけど、会えてとてもよかったです。なんだか肩の力がすうって抜けた気がします」


「こちらこそ、こんなラッキーな時間を演出してくれたなにかに大いに感謝したい気分ですよ」


 すっかり緊張のほぐれた私の本心に、皆川さんの返事が染みこんできます。ホント。旅の最初にこんなイベントが用意されてたなんて幸先よすぎ。


「次にお逢いできるのは来月五日の東京ビッグサイトですね。皆川さん、頼りにしてますよ」


「準備の方はまかせてください。僕がしっかり統括しますから・・・・・・」


 皆川さんの力強い返答が終わらないうちに、背後から大きな声が被さってきました。


「リュウジくーん、おむかえごくろーさん!!」


 咄嗟に振り向いた視線が捉えたのは、大声で皆川さんの名を呼ぶ小柄な女の子の姿。一直線で走り寄ってきた彼女は私の真横を素通りし、柵の向こうで呆然と立つ皆川さんの正面でぴたりと足を止めました。

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