百六十四話 笠司、処暑(一)
めったやたらに仕事を詰め込んだ三日間を終え、めでたく僕は、社会人になって初めての夏休みに突入した。
とは言っても、とりたててすることがあるわけではない。
実家には墓参りで五日前に行ったばかりだからさすがに足を向ける気にならないし、明後日の約束のほかには誰かと連絡を取ったりもしていない。
虚しいくらい暇だ。
自分の交友関係の狭さにあらためて愕然とする。ちょっと遊びに誘う相手すら、誰ひとり思い浮かばないのだ。中学高校で友だちがいなかったわけではない。が、杜陸で過ごした四年のブランクが仇となったのか、いつの間にか誰からも声がかからなくなっていた。
ゆかりんの言ってたとおりだ。卒業して道が別れるとぱったりとなって、疎遠どころかそのまま完全に途切れてしまう。交友を継続していくには意識的なメンテが必要なのだ。それを怠ってきた僕などは、まさにこのていたらく。いま現在、誘って応じてくれるかもしれない唯一の存在はハヤトだが、彼は帰省で週末まで茨城だと聞いている。
こんなことなら仕事してた方が何倍もマシだった。わりと本気で、僕はそう思った。
小金ならあるが散財するにも当てがない。かと言って、こもって小説を書くには部屋が暑すぎる。
「とりあえず、出かけるか」
前に日葵から奨められた代官山の蔦屋書店は、実に快適な本屋だった。洋書に専門書、各種画集や写真集など普通の本屋ではまず見かけない珍しい書籍が、ゆったりした店内に設えた調度品のごとき書架に整然と収められている。普段なら手に取ることのない建築の作品集や旧いオートバイの写真集などを手に取って眺めていると、なんとなく豊かな気分になれる。
大判の洋書を一冊取り出し、ひとり掛けのソファに腰を落ち着けて開いてみた。フランス語の画集で、どうやら二十世紀前半期に公開された映画のポスターを集めたものらしい。現代のように写真で構成されたものなどなく、どれも絵画みたいなイラストばかり。レタリングが手書きのものも多い。
そういえば、ミュシャなんかもこの時代だったかな。
僕はあやふやな記憶の美術史を手繰ってみる。絵画の世界ではフォービズムやキュビズムが流行りだしていたけれど、一方では印刷技術が一般化して大衆に見せるためのポスターアートなんかも華やかだった時代。画面の情報量は今のものよりはるかに少ないが、そのぶん大胆な構図に目を引かれる。少し遡っての後期印象派やアールヌーボーなどは日本の浮世絵にも影響されたって言ってたっけ。
指紋がつかないよう気にしつつ閲覧した本を元通りの棚に戻して、別の書架に移る。空調は完璧だし、カフェもある。ここなら二、三時間は余裕で過ごせそうだ。
卒論を終えたら読もうと決めてすっかり忘れたままだったハードカバーのSFを見つけたので、上下巻まとめて購入した。二階のラウンジで珈琲を飲みながら買ったばかりの本を読む。サークルの連中が激推ししていた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、想定をはるかに上回る面白さ。これは大当たりだ。
のめり込むように読んでいたら知らぬ間に夜になっていた。腹が減ってはいたが、もう少しで上巻を読み終えそうだったので閉店の十時まで粘る。
七月に比べれば多少マシになったもののまだ蒸し暑い夜気の歩道を中目黒まで下り、駅傍の立ち食いで鶏天の載った大盛りうどんを食べてから家路についた。
うん。なかなかに充実した夏休み初日だったぞ。
*
二日目は午前中から大井町のお風呂の王様まで走った。背負ったディバックにヘイルメアリーの下巻とタオルと着替えを詰め込んで。昨日に続き、本日の空も抜けるような晴天。熱中症も危ぶむ日射しの下で汗はだらだら流れるけれど、前日サボったぶんくらいは取り返さないといけない。風呂あがりのビールを思い描きながら、僕は地面を蹴っ飛ばす。
ひとっ風呂浴びたあとは、館内の食堂でビールと山菜そばにいなり寿司。食後はカウチに寝っ転がって、うたた寝なんぞを挟みながら昨日の読書の続きにいそしむ。なんて素晴らしい夏休み。平日午後のスーパー銭湯で、僕は気楽なおひとり様を満喫した。
*
夏休みの三日目、八月十九日午前十時過ぎ、僕は羽田空港にいる。
地階の京急線改札からエスカレーターに乗って地上階に上がると、天井の高いだだっ広い空間に出た。スーツケースやボストンバッグのような大きな荷物を引きずるひとたちがそれぞれの行き先を目指して歩いている。どうやら到着便があったようだ。スーツ姿もまばらにあるもののほとんどはオフタイムの軽装で、その多くが少し疲れた顔をしている。おそらく帰省先から戻ってきたのだろう。
ゆかりんの指定では、待ち合わせは十一時に一階の『出会いの広場』ということだった。フロアはたぶんここであっている。定刻まではまだ余裕があるし、館内案内図で現在地と目的地を確認した僕はせっかくなので少し探検することにした。
見上げた黒い電光ボードには、到着予定時間と出発地、便名が一行になった案内表示がたくさん並んでいた。札幌、大阪、福岡、沖縄……。立ち止まって見入っていると、短いターンで表示の差分変更が成されている。△が〇になったり時刻が変わったり、一行が丸ごと消えて繰り上がったり。けっこう見飽きない。
奥で展望エレベーターが上下する大きな吹き抜けは土産物販売エリアだ。お酒や銘菓、東京ばなななんかもここにある。
吹き抜けの先も、さきほどと同様の到着ロビーになっていた。こちらにも到着表示が並んでいる。表示板の下は全面ガラスになっていて、向こう側では手荷物を待つひとだかり。奥の暗渠から現れたスーツケースが彼らの前を回転ずしのように流れていた。
ひとの流れをぼんやりと眺めていた目がなにかを捉えた。意識を向けて、視界を精査する。なんとなく見覚えのあるひとがいたような気がしたのだ。次々とひとを吐き出す到着ゲートに目を凝らし、いましがたの引っ掛かりを探した。
白いスーツケースを押しながらロビーに出てきた若い女性に焦点を合わす。ワンポイント柄の白Tにベージュのコットンパンツ。肩までの黒髪を揺らしながら慎重そうに歩む意志的な顔が、記憶の中の映像と重なった。
「もしかして、波照間さん!?」




