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ボクの名は  作者: 深海くじら
葉月

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百五十九話 瑞稀、立秋(三)

 十日ぶりに会う灰田さんは、少し日焼けしていましたが(ほか)はとくには代わりない様子でした。朝の挨拶をして席に着こうとする私にも自然に声を掛けてきます。


「読んだよ、田中すみれの物語。瑞稀ちゃんに任せてホントよかった。あれ読むと部屋への感情移入が高まるよね。生活の中のオルタって感じも伝わるし。瑞稀ちゃんの言うとおり、タオルと合わせてお客さん全員に配布しよう。で、時間もあんまり無いから、昨日星野さんにテキスト送って装丁まで頼んどいた」


 いきなりトップギヤです。もう装丁依頼を済ませてるなんて、灰田さん早過ぎです。でもいくら時間がないからって、総務部長とか役員とかのチェック飛ばしても平気なんですか。


「そんな心配顔しなくても大丈夫。今日中にちゃんと根回しして、明日の部長会には満場一致で通すから」


 これが代理店のスタイルなんでしょうか。とにかく動くときのスピード感が違い過ぎて、なかなか慣れることができません。予定通り来年に人が増えたりして先輩とかになったとき、あんな感じでできる気なんてまるでしません。

 本当に灰田さんは凄い。十日間のブランクなんてまったく感じさせずしっかり実務は回してて、さらに管理職までこなしてるとか、スーパー過ぎるでしょ。頭の中もバイタリティもレベチ過ぎて想像もできない。とても二週間前に元カノのことで弱音を吐いていたひとと同一人物とは思えません。


 感心してばかりもいられないので、私も手を動かします。全国的なお盆休みは来週。印刷所も星野さんとこも、今週末から来週の水曜までお休みと聞いてます。沖縄行きに合わせた私の夏休みは来週の終わりから再来週いっぱいだから、今週来週のうちに入稿やら更新予約のセットやらを全部済ませておかないと。


「あ、そうだ。僕と瑞稀ちゃんの名刺、増刷しとかないといけないよね」


 白板(ホワイトボード)に予定を書き込んでいた灰田さんが、そう言ってこちらを振り返りました。


「三百枚ずつでいいと思う。まあその数全部捌けたら大成功だよね。うん。どうせ増刷するなら、名刺も展示会仕様にしとこう。オルタのロゴとランディングページ(LP)のURLを刷り込むよう手配しといてくれないかな」


 メモをとる私に近づいてきた灰田さんは私の椅子の背もたれに手を掛けて、声を絞りながら、それと、と続けました。


「今夜はちょっと時間を空けといて」


 え? どゆこと?

 振り返ると、灰田さんはもう自席に戻って愛用のスコッシュに書類をまとめています。ホワイトボードに目を移すと、このあとの予定は九時半から社長室。


「詳しいことはあとでメールしておくから」


 いつもと変わらない調子でそう言い残した灰田さんは、後ろ姿で片手を上げてオフィスを出ていきました。


          *


 赤坂の駅から海側に少し歩いて、昭和通りを越えた先にある雑居ビルに着いたのは七時少し前でした。昭和に建てられた感じの古い六階建て。あまり手入れされてなさそうな外観に小さめの入り口。看板も出てないし、とにかく不安感しかない待ち合わせ場所です。どう考えても仕事の打ち合わせってシチュエーションじゃないですよね、これ。

 先週の夏休みの報告、なのかな? でもオフの報告会するような仲ではなかったし、やっぱり栄さん絡みなのかな。

 奥まったところにエレベーターが一基。横の壁に架けてある館内案内表示の三階に、メールで指定されたお店の名前がありました。とりあえずはひと安心。でも、怪しいのは変わりなし。これじゃあ完全に密会ですよ。総務の子たちに見つかったりしたら、絶対納得してもらえない。

 そんなことを考えながらエレベーターを降りると、目の前にいきなり格子の引き戸が現れました。ここ、合ってるよね?


 建物からは想像もつかない落ち着いた雰囲気の店内は、まだひとりもお客さんがいません。

 カウンター内側の板前さんと目が合いました。鋭い視線に射すくめられた私は、なにを話せばいいのかわからなくなって口ごもります。と、板さんから助け船が出されました。


「灰田さんのお連れさん?」


 はい、と頷くと、右手をあげて奥を指し示し、ふたつめと告げました。見ると、カウンターをぐるりと回りこんだ先に通路があるようです。


 手前からふたつめの、茶室の入り口みたいな小さな障子戸を指先で叩くと、中から灰田さんの声が返ってきました。靴を脱いであがると畳敷きで三畳くらいの狭い部屋に掘りごたつ。真向かいの壁には小さな引き戸があって、私が入ったときには、ちょうどそこから灰田さんが焼き魚を受け取っているところ。なるほど。ここはカウンターを個室にした感じなんですね。


「お疲れさま。先週はひとりでよく頑張ってくれたね。助かったよ」


 はぁどうも、と腰を下ろすと、向こうから引き戸が開いて生のジョッキがふたつ差し出されてきました。見ると、灰田さんの手元のジョッキはほとんど無くなってます。就業前にいなくなってたのはそういうことか。


「瑞稀ちゃんの冊子案なんだけど、社長にOKもらったから。これで大手を振って印刷に回せる」


 おざなりの乾杯でジョッキを捧げた灰田さんが昼間の成果を伝えてくれました。こういう根回しはホント手際がいい。でもたぶん、仕事の話はこれでおしまいなんでしょうね。

 がぶりと音が出る勢いでビールをひと息喉に流し込んだ灰田さんは、いつもよりずっとくだけた口調で話を始めました。


「今夜は来てくれてありがとう。なんかパワハラみたいで申し訳ないんだけど、瑞稀ちゃんしか話せる相手がいなくってね」


 私も腹をくくります。


「今日のってお仕事の打ち合わせ、じゃないんですね」


 照れ臭そうに眼を伏せた灰田さんが、小さく頷きました。

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