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ボクの名は  作者: 深海くじら
文月

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百四十五話 瑞稀、大暑(二)

 灰田さんが朝から声を上げて笑っています。


「こりゃ傑作だ」


「笑い事じゃ無いですよ!」


「いやしかし、これはもうやるしかないでしょ。瑞稀ちゃんも」


 私は憤然と睨み返します。でもそんなのは、灰田さんにはぜんぜん効き目無し。


「だってこれだけ理論武装されちゃったら、レンタルフォトでお願いしますなんてもう言えないよね。ここはひとつ腹決めて、瑞稀ちゃんもモデルデビューだ」


 七月十九日水曜日の朝は、皆川さんのメールのおかげで笑いで始まりました。いや、私は笑ってられないけど。

 昨日予定外の出張でいなかった灰田さん、気持ちの切り替えが済んだのか、今日はいつも通りです。無理してなきゃいいんだけど。


「付き合ってた子と別れた直後の話だったんで、転勤はむしろ助かりました。いまは心機一転、仕事もプライベートも充実してますよ」


 イヤホンから流れるインタビュー動画の台詞を聴きながら、私は一昨日(おととい)の夜のことを思い出していました。


          *


「一月に再会したときは本当にびっくりしたんだ」


 灰田さんはそう切り出しました。

 この話が終わるまでは絶対に口を挟まない。私はそう決めて、居住まいを正しました。


「来る途中、凍った歩道で転んだらしく、コートの裾と腰のところと濡れていた。そのことを話すときの照れた顔が昔のままで、十年以上の時間が一気に戻った気さえしたんだ」


「墓石に使う石の話を聞きに来た、と彼女は言った。だから俺も教えられることを問われるままに答えた。再会のときはそんなふうに淡々としてたよ。うちの会議室だったしね」


「二日後に逢って、お互いの近況を報告しあった。なんだかぎこちない夜だったよ。お互いに。俺自身、まだ独身だと聞いて色めき立つ心と彼女を裏切って翔子と結婚し子まで成してしまった過去とに挟まれて、うまく自分をコントロールすることができなかった。だからオトナの顔で対応してしまった。そういう仮面を栄が一番嫌うのはわかっていたのに」


 もちろんだけど一緒に酒を飲んだだけであとはなんにもなかったよ、と言わずもながを付け足した灰田さん。


「栄は栄で、混乱していたんだと思う。そのあとに、神戸まで行って翔子と会ってきたと言っていた」


「ブラックボックスを紐解きたかったんだろうと思う。そりゃそうだ。数ヶ月後には婚約するはずだった相手が、たった一度の事故のあとに突然親友と結婚するなどと言い出したのだから」


「栄は、あいつは誇り高く聡明な女だから、それが無理やりであっても一度納得したものは覆したりしないし、引き摺る姿を見せたりもしない。テープかケーブルでも裁ち落とすように四年間紡いだ関係をばっさり切って、以降の消息を完全に絶った」


 いや、絶ったのはこっちの方だったかもしれないけど。そう繋いで、灰田さんは切子グラスの冷酒をくいとあおりました。

 胡座を組み替え、後ろ手をついて背筋伸ばした灰田さんは、視線を下げたまま呟くように口を開きました。まだ、続きそうです。


「会ってわかった。栄は、栄の本質はなにも変わってない、と。でもだからと言って、簡単に元の鞘に収めるわけにはいかない。断絶の期間は長く、しかも俺は、謝っても謝り切れない不誠実な仕打ちであいつを傷つけたままだ。たとえお互いになんの障害がなかったとしても時間が必要だ、と思ったんだ。こっちも部署を立ち上げる準備で忙しかったし。そんなときに栄からきみの話を聞いた」


「あいつが薦めてくるくらいだから、波照間瑞稀という子は今のあいつと親しくしているのだろう。手元に置いておけば近況を知ることもできるかもしれない」


 そう言った灰田さんは正面を向き、それから頭を下げてきました。


「すまない。正直に言うときみを選んだのは能力や可能性よりもそっちの気持ちの方が大きかった。本当に申し訳ない」


 ですよね。まあ、そりゃそうだ。わかっちゃいたけど、少し落ち込む。


「でも今は違うよ。来てもらって良かったって思ってる。本心で」


 真っ直ぐに見据えてくる目は真実を語ってる。そう感じることができました。だから小さく頷きました。うん。私だってそれなりにはやれてるはず。

 その仕草に安心したのか、灰田さんはありがとうと小さく呟いてから本題を再開しました。


「とにかく俺は、たかを括ってたんだよ。あとは時間の問題だ、って。もうお互い若くないんだし、ゆっくりと修復していけばいい。いずれ時期が来れば、氷が溶けるようによりを戻すことができるに違いない。そんなふうに余裕かましてたんだ」


 灰田さんは深く肩を落としました。


「そりゃそうだよな。あれだけいい女なんだから、いつまでもちゃんとした奴に見つからないままでいるはずがない」


 語尾が消えいってしまいそうな灰田さんの台詞を聞きながら、私は自問しました。完璧に思えた上司がこんなにも小さくて弱々しい姿を曝け出したとき、いったい私になにができるのだろうか、と。人生経験の拙い私では、どう励ませばいいのかが皆目見当つかなかったのです。


          *


「今日は本当にすまなかった。瑞稀ちゃんの慰労のはずだったのに、こんな話になっちゃって」


 勘定を済ませた灰田さんが入り口で待っていた私に歩み寄ってきます。今夜の支払いは黙ってお任せしました。役不足ではあったけど、カウンセリング代ってことで。まぁ、ご馳走してもらってるのはいつもとおんなじなんですけど。

 人ふたり分の隙間を開けて横についた灰田さんは、先にたって足を踏み出しました。


「話としては聞いてたけど、悩みごとを聞いてもらうってのはそれだけでもホントに効果あるもんなんだな。知らなかったよ。翔子のときも、誰にも話さずにひとりで決めたからなあ」


 あのときも栄に話して一緒に考えれば良かったのかな。独り言のようにそうこぼして、私の上司は夜空を仰ぎました。



「どっちにしろ僕自身がなんとかしなきゃいけない話だから、ここから先は自分で考えるよ。聞いてもらえたことでいろいろと整理ができた。今日はホントにありがとう」


 じゃ、また明日、と言って灰田さんは改札を抜けていきました。

 あの夜の別れ際に、くれぐれも内密に、という定型の台詞が無かったのは、私を同じ船に乗る仲間だと認めてくれているからでしょうか。

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