百二十六話 笠司、夏至(三)
金曜の夜。
東京ギフトショーはしくらブースのパース画を発注するのに必要なラフを描き終え、ひと息ついて時計を見る。時刻はもう九時を回っていた。
現場作業でもないのに、思いのほか遅くまで作業してしまった。
といって別に用事があるわけでも無い僕は、さほど急ぐでもなく帰り支度を整えはじめた。
夏休みシーズンを目前に控えた空白期ということもあって、明日明後日は仕事が無い。二階に降りると、デザイン室ではまだ何人かが作業デスクに向かっている。お先にとだけ声を掛けた僕は、ロッカーに溜っていた洗濯物をキャンバス地のエコバッグに詰め込んだ。すると、背後にひとの立つ気配。
振り返ると真後ろすぐに、頬を紅潮させた大文字が立っていた。あまりの近さに本能的に足を引く。背中がロッカーにぶつかって大きな音を立てた。
「あ、すみません。驚かすつもりはなくて」
いつもの投げ捨てるようなタメ口ではない、丁寧な言葉遣いの大文字。咄嗟に出た感じの謝罪だ。こいつもおそらく育ちはいいんだろうな。
「いや、こっちこそ悪い。ちょっとびっくりしただけだ」
僕も場を取り繕う。僕自身はこいつに悪感情を抱いてるわけではない。ただこいつの場合、わかりやす過ぎる。日葵にぞっこんで、その日葵がめったやたらにじゃれついてる僕のことを敵視しているのだ。
「なんか用?」
そう尋ねる僕に、しばし躊躇した大文字は意を決したように口を開く。
「皆川……さん、今日はもう上がり、ですよね」
頷く僕。こちらが続きを促すより早く、大文字は言葉を乗せてきた。
「とくに予定が無いんなら、これからちょっと飲みに行きません?」
意外な展開に言葉を失った僕は、彼と自分を交互に指さすジェスチャーで応じた。向かい合う大文字は、深い首肯を二度も繰り返す。
「……日葵は?」
「だいぶ前に帰った……帰りました」
「敬語はいいよ、同期だし。いつもと違うとなんか気持ち悪い」
僕の台詞に大きく息を吐きだすことで答えた大文字は、もう一度、どう? と答えを促してきた。
「いいよ。別に予定はないし。てか大文字、寮は千葉だったよな。電車、大丈夫なのか?」
「本八幡。十一時くらいまでは余裕で平気」
どうせ日葵絡みの話なんだろうが、誤解を解くにはいい機会かもしれない。できる限り嫌味に見えないよう気を付けて、僕は笑いかけた。
「わかった。じゃ、店は一十三でいいよな。飯も食いたいし」
*
梅雨の合間の晴れた夜空の下で、ほんの五分の道のりをひと言たりとも言葉を交わすことなく僕らは歩いた。縦列で、後ろに大文字、前に僕。重苦しい空気に耐えきれなくなる寸前に、僕らは暖簾をくぐることができた。
山盛りのキャベツが添えてあるヒレカツと煮込みメンチをシェアし、各々の前にはどんぶりの飯とウーロンハイのジョッキ。全部が出揃ったところで、僕はジョッキを上げた。
「おつかれ」
僕の掲げた杯の縁より少し下に、自分のジョッキをぶつけてきた。どうやら今夜の大文字は、マウント取りを封印するつもりらしい。
目の前の料理でダイレクトに刺激された食欲は、緊迫した空気を一旦棚上げしなさいと僕に命じた。大文字はなにか話したそうな様子だったが、それを無視して丼を掻き込む僕の健啖に溜息をつき、自分も箸を取った。
メインの皿があらかた片付いたところで、ようやっと大文字は重かった口を開いた。
「葵日葵のことなんだけど」
大文字のその切り出しを、僕は箸を小皿に添えて聴いた。
「あいつは皆川のなんなんだ?」
「高校の後輩」
僕はひと言、これ以上は無い簡潔さで即答した。大文字の眉が曇る。
「そんな誤魔化しを聞きたいんじゃない! もっと実際の、本当のホンネを聞かせてくれ。今更怒り出したりなんてしないから」
語尾こそ萎んではいたが、顔は既に十分怒っている。
「本音もなにも、それ以外に説明のしようがないんだが」
そこでひと息つけた僕は、目の前で歪んでいる顔に向かって、仕方ない、と告げた。
面倒極まりないが、もう少しサービスしてやろう。これは、僕自身が過ごしやすくなるために必要なことだ。
「高二のとき友だち三人でゲームを始めた、と彼女は言ってた。誰が一番の陽キャなのかって競争で、他の二人が勝手に選んだ見知らぬ男と仲良くなってみせるってのがルールだとか。で、彼女にあてがわれたのが当時高三の僕だったんだと」
氷の溶けかけたウーロンハイで一度のどを潤してから、僕は話を続ける。
「陸上部の練習で走ってる僕の足元にソフトボールを転がしてきたりとかってのを繰り返してたんで一応顔と名前を認識するくらいにはなった。でもそこまで。ただ、他の二人も似たようなもんだったそうで、そのときのゲームは結局誰もゴールまで辿り着けなかったらしい。ちなみにゴールって言っても、そんなたいしたもんじゃない。付き合うとか恋人同士になるとかって重たいもんじゃなくて、単純な場面を定めたツーショット写真を何枚だか撮ってくるってだけで」
真剣な目で聞いてやがる。ホントに真っ直ぐなんだな、こいつは。
「ところが、話には続きがあった。今年の四月、新卒で入社した会社の新人研修の講義室に、以前自分用に指定された男が偶然現れたんだ。そう、あのときの研修。ゲームのことを思い出した彼女は、高校時代につけられなかった白黒を今度こそ自分の勝利で決着つけるべく、研修を終えた僕に話しかけてきたってわけだ」
「なんスかそれ」
「僕が知るか。そんなゲームをやってたことすら知らん。まあとにかくあの研修の後に僕を引きずり回した彼女は、三葉ほどのなんてことないツーショット画像をコンプリートしてしっかり『陽キャマスター』の座に収まったらしい」
目を丸くして口も半開きの間抜け顔を晒している大文字は、息を継いでから呟くように言葉を発した。
「じゃあ本当に皆川は、葵と付き合ってるんじゃないんだな」
「これぽっちも」
僕はジョッキを傾ける。それに釣られるように、大文字もぐいっとウーロンハイを煽った。一気に半分近く中身を減らしたジョッキを置いた大文字は、それから思い出したかのように身を乗り出してきた。
「でもそれじゃあなんなんだ? ゲームは終ったはずなのに、今でもお前にまとわりついてる葵のあの態度は?」
「彼女が何を考えてるかなんて僕は知らん。ただ昔の馴染みで気安く感じてるのだけは間違いないと思う。そっちの会社でも結構注目されてんじゃないの、日葵。地なのかどうかはわかんないけど、あの性格にあの容姿だと、やっぱ目立つからねぇ」
腰を落とした大文字は、頷いて見せた。どうやら思うところがあるようだ。
「たぶん気ィ張ってんじゃないのかな。そんなとき、ちょっと知ってて気楽に自分をぶつけても邪険にされない相手を見つけたもんで、ひと休みする感じにじゃれついてる。そんなとこだと思うよ」
黙りこくって考えに集中していた大文字は、再び顔を上げてこちらを見た。
「でも、でもですよ。そういう親和性みたいなのが……恋、とかに変わってくることだって……」
そりゃあるかもしれん、と僕は突き放す。そろそろ本気で面倒くさくなってきたのだ。そんなんこっちの知ったことか。
「彼女がなに考えてようが、ぶっちゃけ僕とは関係ない。まだ具体的なこと言われたりもしてないし。ていうか、そんなに気になってしょうがないんなら、お前が自分で動きゃいいだろ?!」
「ですよね。それはわかっちゃいるんですけど……」
なんだよ。そんなに簡単にしゅんとすんなよ。
大文字、こんなに煮え切らない奴だったのか。この一週間、僕はこいつのジト目に悩まされ続けてきたってのに。