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ボクの名は  作者: 深海くじら
水無月
157/168

百二十二話 笠司、夏至(一)

 ハードな日々は、脳に余分なことを考えるリソースを与えない。

 そうやって六月の二週間を乗り切った僕は、徐々にではあるが、心に以前の安定を取り戻してきたような気がする。


 五月末のあの絶望的敗北を忘れ去ることはできない。おそらくは、一生。でもこの二週間馬車馬のように働いたので、いくら頭がフラッシュバックを起こそうが身体の方が強制的にシャットダウンしてくれた。おかげで随分と脳内メモリーがデフラグされてるのを実感できる。

 今でも皐月さんを思い出さない日は無い。今頃はたぶん有休消化に入っている筈の彼女は、渡米と各務(かがみ)との結婚の準備とで忙しいに違いない。いろいろな手続きをし、チケットを取って、身辺を整理し、様々な事柄にピリオドを打っていることだろう。

 そして当たり前だが、そこにはもう僕の存在できる場所などどこにもない。僕との繋がりはあの日渡された最後の句に収斂され、過ぎ去って省みることのない過去の出来事として完璧に封じられてしまったのだ。


 だから、考えるだけ意味のないことだ。

 彼女がそうしたように、僕も彼女を思い続けた十年と極端に密度の濃かった最後の一か月をまとめて箱に仕舞って、心の底に掘った深い穴に埋めなくちゃいけない。すべてが平坦で懐かしいだけのモノクロの卒業アルバムとなる日まで、掘り返したりすることが無いように。



 今の僕が余分なことを考えることのできる唯一の時間。朝のジョギングコース。

 もう思い出せることがないくらい、思い出すことに飽きてしまうくらい記憶のエピソードを深堀りするのがいいのか。それとも無理にでも蓋をして、別の新しい、もしかしたら未来があるかもしれないエピソードを再生して、脳の番組編成を埋め尽くしてしまう方がいいのか。

 ともすれば前者に走りがちな静謐な払暁を、それでも僕はなるべく後者を意識しつつ、アスファルトを蹴って前に進む。

 先週のリモート会議ではじめてお話しした波照間さん。最初の印象で似てると感じた芸能人の名前を思い出そうとあとから探し、一応見つけだすことはできた。だが改めて比べてみると、思ったほど似てるわけでもなかった。僕の記憶に残っているのはライブステージ映像。それも、何人もの女の子が入れ替わり立ち代わりヴォーカルを取るような、とにかく動き回っているものだった。でもネットで見つけた画像は静止画ばかり。記憶のイメージとも波照間さんとも一致するものではなかったのだ。

 画像で見る目元や鼻とのバランスは、たしかに記憶に新しい波照間さんのそれと似てる気がしないでもない。が、顎の線はだいぶ違う。そもそも波照間さんの方があきらかに落ち着いたオトナの雰囲気だ。どっちが好みかと聞かれたら、波照間さんの方って答えるかな。


 いいな、と僕は思った。

 ちゃんと、どうでもいい新しいことで脳の自由時間を消費している。

 小説を再開させることも考えたが、ヒロインであるAI人形(ヒューマノイド)のもともとのキャラクター造形を皐月さんモデルで脳内設定していたため、そこから思い出すべきでない記憶のループに流れてしまいそうで止めている。かといって、御嶽さんの記憶を引っ張り出すのもうまくない。どうしたってこの前の発作的北紀行を思い出してしまうから。

 そこへいくと、今回の波照間さんみたいなまったく新しいイメージの参入は実にありがたい。遠く縁の無い福岡という土地に暮らし、繋がりの範囲も仕事に限定されている無難な存在。実に自由で安心だ。打ち合わせのあとの少しくだけた会話を思い出すと気持ちがほっこりする。

 そういえば、と僕は意識を飛躍させる。

 月波さんも福岡のひとだって言ってたな。ツイッターでのやりとりだけで、顔も声も知らない小説仲間。あのひととやりとりしたDMの往還なんかもほっこり系だったっけ。



 出社して、シャワーと着替え、おにぎりにインスタント味噌汁、サンタさんの目覚ましというルーティンを済ませた僕は、自分の席で月曜の朝のメールチェックをする。

 波照間さんからは展示ブースの要件リストが届いていた。タイムスタンプは金曜の夜八時過ぎ。結構遅くまで仕事してるんだなと思いつつ、忘れないうちに受領メールを返信。

 続けてグループウェアの今日の予定を開く。すると、全社向けの項目に見落としていたリマインドがあった。


『関連会社持ち回り新人研修:

  ムラモト工芸令和五年度新人社員の当社研修を以下の日程で実施する。

  令和五年六月十二日(月)~二十三日(金)

  研修者:大文字隼人、葵日葵(以上二名)』


葵日葵(あおいひまり)ぃ~?!」


 思わず声を上げて呻いてしまった。

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