八十話 笠司、穀雨(二)
結局僕はひと言の声も掛けることができずただ遠くから眺め、以前と同じ駅で降りていく後ろ姿を遠目に見送るだけだった。こんな満員電車で、乗客を搔き分けながら会いに行くのはなにか違う気がしたのだ。
皐月さんがあちこちを見回したりするような人でないのをいいことに、僕は一度も目線を切らず彼女を見つめ続けた。
鷹宮皐月は四年前と変わることなく聡明で美しかった。いや、少なくとも僕の目にはそう見えた。
髪は伸びていた。黒髪がまっすぐ背中に隠れるほどに。中学時代のショート、高校時代のボブの頃から身に纏っていた大人びた空気も、完全に大人のそれになっていた。でも、違和感は無い、まったく。会社帰りだろうから当然だが、表情は動かない。周りが皆スマートフォンを注視する中で、彼女はひとり、金茶色のブックカバーを着せた文庫本を読んでいた。駅間で二枚、頁を捲る。深く腰掛け背筋を伸ばし、綺麗な鋭角を保った肘の先で静かに本を持つ手。走る電車の座席で、皐月さんは彫像のような姿勢のまま、俯いた視線と時折の指先を動かすだけだった。
軽いタッチで本を掴む左手がこちらから見える。柔らかく回り込む指の根元には、ひとつの装飾も見当たらなかった。右手には? 駅間に二回だけある機会に僕は最大限の注意を払う。が、確認することは叶わなかった。
到着予告の車内アナウンスと同時に皐月さんは本を閉じ、膝に置いた焦げ茶色のバッグの中に仕舞った。以前利用していた、そして四年前に足を壊していた僕が最後に見かけた駅。彼女はまだ実家に住んでいるのだろうか?
電車が停まり、幾人かがドアに向かって動き出す満員電車の混沌。前に立つ人の動きを確認してから彼女も立ち上がった。肩甲骨よりやや長い後ろ髪を揺らして、右回りで九十度向きを変える。彼女と僕の視線が交差することはない。だが人の流れに乗る瞬間、座席の柱に掴まった右手がはっきりと見えた。こちら側にも指輪は嵌められていなかった。
動く電車の窓から人ごみの中で階段に向かう彼女を探したが、見つけることはできなかった。それでも僕は、降車する群れの中に紛れてほんの一瞬だけ見え隠れした小さな頭を見送れたことで充分に満足していた。今日のこの邂逅をなにか神的なものに感謝したい、と柄にもなく思うくらいに。
*
すぐ入れと追い立てられて浸かった実家の風呂は思いのほか心地よく、しかもあり合わせと聞いていたはずの食卓にも、大量の千切りキャベツと鶏の唐揚げが盛り上げられていた。たまに帰るとこんなにも歓待してもらえるのか。有難いものだと胸の内で感謝しつつ、どんぶり飯を二杯平らげた。
食後のビールを飲みながら大谷さんの今季三勝目となる快投をニュースで見ていたら、飲みかけのビールとグラスを持って親父がやってきた。仕事の様子窺いだろうか。
もともとあまり喋らないひとだから、とくになにも言い出してこない。なんとなく黙りこくったままふたりして小早川さんの解説を聞いていた。
「WBCで同僚のトラウト選手から三振を奪ったあのスィーパーが、今日も威力を発揮していました。初回のロイヤルズの攻撃を三者三振という最高の立ち上がりでスタートした今日の大谷翔平は……」
「なぁにふたりして黙ってんのよ」
ビール片手にやってきたお袋が一番いい席に腰を下ろし、大谷さんの立ち上がりのような勢いで聞いてきた。
「仕事はどうなの? ちゃんとやれてるの? なんかちょっと瘦せたみたいだけど、ご飯はしっかり食べてるの? 洗濯物できてる? 脱いだ服置きっぱなしにしてない? 誰も見てないからって日頃から片付けてないと、いつまで経っても彼女とかできないわよ」
どれもこれも大きなお世話だよ。大学の四年間だって独りで暮らしてたんだから。あと最後のは、ホンっっっと余計な話。
心の中で悪態をつきながらも、風呂と揚げたての鶏唐を出してもらったという一宿一飯の恩義があるので、なるべく丁寧に答える。
「仕事は、まあ順調だよ。杜陸のバイトでやってたのと基本は同じだから、勝手知ったる、みたいなもんだし。飯もまあ食ってる。アパートの近所に渡辺えりみたいなおばちゃんがやってる飯屋があって、そこで出される大盛りのをいつも食べてる。さすがにコンロは一穴だから自炊はほとんどしてないけど。あと洗濯も、土日にコインランドリー行ってる」
ふんふんと頷きつつ缶ビールを煽るお袋。こういうときは親父よりもずっとオヤジに見える。
「で、彼女は?」
押し黙る僕に、追い打ちがかけられる。
「リョウジの半分でいいから、あんたも女の子連れてきてくれればいいのに。ひっとりも連れてきてくれないんだから。あんた、ホントはつきあってる子いるのに隠してんじゃないの?」
こうなったらもう観念するしかない。深々と頭を下げて、僕は応えた。
「すいませんお母さま。あなたの息子の片割れは齢二十三の今に至るまで、一度たりもまともな交際相手がいたことがございません」
「だってあんた、高校入ってすぐのとき彼女できたできたぁって騒いでたじゃない」
「ごめんなさい! あれは、ほぼ幻でした!」
成り行きとは言え、まさか両親相手に彼女いない歴=年齢を暴露することになるとは。あの風呂は、あの唐揚げは罠だったのか。どっかに隠れる穴は無いのか。
無言になってしまった居間に、画面の中で菊池柚花キャスターが番組を回す明るい声だけ響いていた。
「俺もな、遅かったんだ」
お袋と僕は同時に顔を上げた。親父は僕を見ている。
「長く憧れとった女がいてな、近所に住んでた六つ離れたお姉さんだった。小学校入った頃からなにかと助けられて、すっかり虜になってしまった。あくまで子どもの目で見ればだが、とにかく完璧なひとで、もう同学年の連中なんか話にもならなかった」
ふう、と息を吐き、ぬるくなったグラスのビールを不味そうに飲む親父。これで話は終わりかと思ったら、親父は再び口を開いた。
「もちろん交際などできるはずもない。あの時期の六歳差はまさに大人と子どもだからな。で、大学卒業したらプロポーズしようと心に決めておった。卒業間際の冬にたまたま帰り道が一緒になってな。妙に昔話ばかりしてくるなと思ったら、別れ際に言うわけだよ。春に結婚するからお別れだね、と」
お袋が目を丸くしている。どうやら初耳なのだろう。
「そっからはもう腑抜けだな。幸い就職は決まっていたし、仕事もそこそこ忙しかったから気は紛れた。でも女子との出会いや交際にはとんと食指が伸びなかった。しばらくして似たような人を探そうともしたが、簡単に見つかるはずもなかった。存在が大き過ぎたんだな。そうこうしてるうちに三十になった。そこで出会ったのが、あのひととは容姿も性格も似ても似つかない女性、つまり母さんだ」
そこまで呆然と聴いていたお袋が、ようやく反応した。
「そんなの聞いてないよ」
「初めて他人に話した」
「てことはお父さん、私が初めてだったの?!」
「恥ずかしながら」
ふはぁと呻いて、お袋は顔を手で覆った。ショックだったのは朴念仁と思ってた親父の大失恋か、自分が初めての交際相手だったことか。たぶん両方だろう。
まあそれはどちらも、僕にとっても吃驚だ。
笠司、と呼び、親父は僕に向き直った
「この話で教訓はふたつある。ひとつは、無駄に悲観したり恥ずかしがったりするなということ。人生には驚きが満ちている。生きている限りこの世の終わりが来ることなどないし、出会いも予想もつかない形で訪れる。いや、もう出会っておるかもしれん。実際、母さんと初めて会ったのは、付き合うよりもずっと前だったらしいし」
一瞬だけお袋と視線を交わした親父は、すぐに僕に目を戻す。
「もうひとつは、遠回りを恐れるな。自分の今の気持ちに嘘をつくことなどない。納得がいかないのなら好きなだけ悩め。いずれ悩むのに飽きるか、そうでなければ答えが見つかる。そのときは、逃さず動き出せ」
俺の言えることはこれで終わりだと話を締めた親父は、それから何事も無かったかのように席を立ち、新しいビールを取りに行った。
「お母さん、あんな話初めて聞いたよ」
空気の抜けたビーチボールのようにしぼんだお袋が卓に肘をつく。
いや、ホントだよ。たまにしかクチ開かん癖に、深いんだかなんだかわからん話でひとを煙に巻くだけ巻いて。
*
元リョウジの部屋のベッドで横になって、僕は考えていた。
親父は引導を渡されて、そこから時間をかけて復活した。そこに教訓があるとするのなら、僕はやっぱり鷹宮皐月と対峙すべきなんだ。




