七十七話 瑞稀、穀雨(一)
そう言えば、先週は『エミールの旅』を一行も書いてない。
地下鉄の満員の中で私は思い出しました。どこで止まってたんでしたっけ?
ツイッターを開いて確かめると、ニライカナイ手前の町の廃屋の場面でした。ヤナハ少年のお父さんたちを襲った盗賊の頭を捕獲して、盗品を売ったお金を全部取り上げるシーン。うーん。ここだけ読むと、リヒラおじさんめちゃくちゃ悪人ですね。早いとこ続きを書かないと。
ちょっと気になったので、付いていたいいねからアカウントに飛んで、通読してるスレッド小説を見に行きます。私と同じ時期に同じようなことを始めた笠地蔵六さん。密かに「同志」と呼んで親近感を抱いてる彼の作品も、なぜかここ数日は更新をストップしていました。
スマートフォンを仕舞って人の流れのまま朝の改札を抜けた私は、ちょっと安心します。学生だった蔵六さんも四月からは新社会人生活に入ったはず。きっとご多忙なのでしょう。何処も同じってことかしら。私もまずは、目の前のことを頑張らなくちゃ。
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出すたびに真っ赤になって戻ってきたスライドでしたが、ようやく火曜日の終業前にOKが出ました。ここまでくるのに一週間もかかっちゃった。
灰田さんが担当したロードマップと予算表は、昨日すでに出来上がってます。チェックしてなんて言われてましたが、私なんかがツッコミ入れられるような中途半端なものであるはずもなく、実に明解なシート。
「これ、ヤマ場は九月ですね」
週単位でつくられたロードマップには、デザインやプロトタイプ制作などの項目が過不足なく配置されています。私が注目したのは九月の前半。そこには「東京ギフトショー出展」という太文字が書かれていました。
「うん、そうだね。でもそのときにちゃんとした受け皿を用意してないと、せっかくの飛び道具が無駄になっちゃう。だから元々の作業も手抜かりなく、だね」
仕事はしっかりあるよってことなのよね。はいと答えた私の顔は、少し引き攣っていたかも。
「まあそんなに構えなくてもいいから。社内の交渉ごとは僕の仕事だから、瑞稀ちゃんのお仕事が『ウェルネスターミナル』をちゃんと理解してもらえるツールやウェブサイトの設計がメインなのは変わらない」
灰田さんはそう言って、明るく笑います。
「でも東京には、どっかで一度同行してもらうことになるかな。あっちの本社にも同じ線路に乗ってもらわないといけないしね」
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「随分と着実に進んどるやん。波照間瑞稀、ただもんじゃなかとね」
「そんなに持ち上げないで。全部灰田さんが敷いたレールなんですから」
七時前に上がれたので、久方ぶりに寄ってみましたパークライフ。先月末以来です。カウンターには、お約束の栄さんの姿もありました。私を見つけたら当たり前のように手招き。考えてみたら、彼女の声を聞くのもあまちゃんの電話以来かもしれません。
「そげんしても、ミツルはほんなこつ瑞稀んこと可愛がっとうごたる。部署移ってまだ半月そこそこやろ。ようもまあ、そんだけ目まぐるしゅう新しかこと始めるもんや」
「ほんとにねえ」
たしかに可愛がられてるのは自覚してます。無茶振りもされるけどケアはちゃんと用意されてるし、拙い私の提案もきちんと俎板に上げてくれる。
「最初んプレゼンが効いたっちゃろうね。そいは瑞稀ん手柄っちゃ」
栄さんは私のグラスにジョッキを当ててきました。照れ臭くなった私は、お皿のコロッケに視線を移します。
ああこの感じ、なんかひさしぶりに身体を伸ばしたような気分。このところずーっと張り詰めてたから、身体中のバネが悲鳴をあげてたのかも。ここの空気で気持ちが潤ってくるのがわかる。
「ていうか、会ってないんですか、栄さんは?」
唐突に思い出した私は、栄さんに詰め寄ります。
そうなんです。灰田さんは栄さんの元カレ。いろいろあったけど、十五年ぶりに再会した今は二人とも完全にフリー。もう、さっさとくっつけばいいじゃないですか。
「誰にね?」
「誰にねじゃない!」
もおっ、ほんっっともどかしい!
「ミツルんごたぁ、まあいいっちゃ。あっちも忙しかごた。それに、うちも新しかこつ始めとうし」
軽くいなすのはいつもの栄さん。でも新しいことっていうのは初耳です。
「博多ん街で活躍しとぉ県外出身者のインタビューっちゅう連載企画ばい。先月にミチカズさん、あのホヤホヤのな、あん人の紹介をそん切り口で単発記事にしたら、タウン誌の編集から連載にしたかっちゅう話が来てな」
そう言って、涼しい顔でハイボールのジャッキを空ける栄さん。いやいやいや。聞いてませんでしたよ、そんな話。
「ええ! 連載なんて凄いじゃないですか。いつの間にそんなことを」
「あんなぁ瑞稀。うちかて毎日飲み散らかして過ごしよぉワケやなかとよ。腐ったっちゃライターん看板掲げとぉし」
第一カネば稼がんと酒も飲めん。そう続けた栄さんは、私に顔を向けてにぃっと笑いました。
「まあお互いよか感じに仕事が回り始めたごたぁ、愛だの恋だのはちょこっと横に置いといて、目の前んことばしっかりやっていこうやなかね」
なんか言いくるめられたような気はするのですが、確かに今は、栄さんも私もそういうモードに入ってる感じがあります。だから私も、渋々だけど頷きました。
「そげんこつより、あまちゃんの感想ば聞かせんしゃい」
栄さんの話題は、いつも通りあっちこっちを飛び回ります。週中の夜は、まだ宵の口みたい。




