七十話 笠司、清明(三)
ムラモトでの二日間の研修はちょっと予想外だった。
全てにおいて規模の小さい地方都市だったとは言え三年間現場で裏方を見続けてきた経験からすれば、正直言って研修レベルでの座学講習なんぞ既に習得済みに違いないと思ってた。でも甘かった。大甘だった。規模が違うのは売上や仕事の大きさだけじゃなかったんだ。そこには顧客のレベルや対象の違い、さらにそれに伴って段違いにレベルが広がる責任範囲とその重さ。さすがは天下のムラモト工芸、国を背負った仕事をいくつも請け負うのは伊達じゃない。今回事例として取り上げられた案件のひとつも、再来年開催の大阪万博だったし。
丸二日掛けて叩き込まれた新しい知見で頭がはちきれた僕は、普段とは全く質の異なる疲労でへとへとになっていた。
負け犬になった気分で長テーブルに広げた資料や筆記用具をのろのろとデイパックに仕舞っていると、背後から掛けてくる声があった。
「先輩。皆川先輩ですよね!」
振り向いた先の声の主は、ほぼ全員が黒一色の中でひとり目立っていた茶髪の女子だった。ウェーブのかかったセミロングは美人と言っても過言ではなかったが、正直まったく見覚えがない。別の「皆川先輩」がいるのかと周りを見回す僕に、彼女は勢いよく肩をぶつけてきた。
「ソフト部の日葵ですよ! 忘れちゃったんですか?」
ソフト部のひまり……。聞き覚えのあるその名前で高校時代の情景が浮かんだ。ひとり黙々とトラックを周回していると、なぜだか進路に転がってくる肉まんのようなボール。投げ返す相手はいつも同じだった。練習用ユニフォームの背中に大書された『葵ひまり』の文字。
「万年控えの葵?」
「なんて失礼な憶え方なんですか、皆川先輩は! ちゃんと私、三年ではレギュラーになりましたよ。八番ライトでしたけど」
外野の守備練習でいつもボールを後ろに逸していたあの子は、真っ黒に日焼けした黒髪ショートだったはず。こんなイマドキの容貌なんかじゃなかった。
あまりにも様変わりした後輩を目の当たりにして、僕はしばし固まった。
「あれ~、先輩。もしかして、綺麗になった私に見惚れちゃってます?」
そんなワケあるかと言い返そうとして、僕は周りの研修生たちの視線に気づいた。怪訝そうな女子たち、興味を隠そうとしない男子たち。空気の如く薄い印象で見過ごされていたはずの僕は、彼女とのこのやりとりで一躍注目される存在になってしまった。それも、あまり望ましくない形で。だが当の彼女は、そんな周囲の目などおかまいなしに僕との距離を詰めてくる。
「やあ、まさかこんなところで先輩と再会できるなんて、思いもよりませんでしたよ。しかも同期になっちゃって。私、先輩が岩手の大学行ったって聞いて絶望してたんですよ。そんな北の果て、箱入り娘の私が行けるワケないじゃんって」
ちょっと待ってくれ。たしかに僕は葵日葵を知っている。一学年下のソフトボール部員。僕ら陸上部とは同じグラウンドで練習してたし、ノックで声をかけられているのは何度も見かけた。でもそれだけだ。少なくとも差しで話をした記憶など一度たりともなかったはず。
「先輩、このあと予定とかあります? ないですよね。せっかくこうして逢えたワケですし、一緒に御飯でも食べに行きましょうよ。ね」
腕を取られて引きずられる僕は、背中が痛くなった。興味から敵意に変わった男子たちのレーザーのような視線を浴びて。
*
宮益坂のめったやたらにメニューの多いカレー屋で食事したあと、葵日葵は僕を先導してセンター街のゲームセンターに入っていった。
終始ご機嫌の彼女は歩いているときも食事のときも、ことあるごとに二人で収まる写真を撮っていたが、ここでもお目当てはプリクラ。手慣れた様子でブースを選ぶと、僕にはまったくわからない操作で次々と画面を進めていく。
「ほら先輩、ポーズして」
や。ポーズもなにも、こんなの初めてだから。
「もお、先輩ったら鈍臭いなあ。でもダイジョーブ! ちゃんとサポートしてあげます。それにこの機種はいっぱい盛れるし、たくさんの中から九枚も選べるから、初心者の先輩でも一枚くらいは奇跡のショットが撮れますって」
完全に日葵のペースに振り回されたままだった僕は、交差点を見下ろすカフェに連れてこられてようやくひと心地つくことができた。 宵の口だが、この街では真っ昼間と同じ、いやそれ以上かも。信号の変わり目と同時に、歩道を埋め尽くしていた人だかりが思い思いの歩き方でスクランブル交差点を渡っていく。
「先輩、わけがわかんないって顔してる」
日葵は僕を見て笑った。唇の端にフラペチーノのクリームが付いている。
「まったくわかんないよ。だって、高校の時も、俺たち話しとかしたことなかっただろ」
ストローでクリームをつつく日葵が口を尖らせる。
「ありましたよ、話したこと。私が一年のとき、体育館の行き方がわかんなくて迷ってたのを助けてくれたじゃないですか。あの運命的な出会いを忘れちゃったんですか?!」
すまん。全然憶えてない。
「いたいけな私の手を引いて、体育館の入口まで連れてってくれたときのあのぬくもり、今も鮮明に思い出せるのに」
いくらなんでもそれはない。
呆れ顔の僕に、日葵はペロッと舌を出す。ついでに唇に付いたクリームも舐めて、言葉を続けた。まあ全部嘘ですけど。
と、テーブルに置いた彼女のスマートフォンが振動を立て始めた。すかさず画面を開く日葵の顔に笑みが広がる。
「やったあ! 逆転勝ちィッ!!」
まったく状況が把握できていない僕を前に何度もガッツポーズを見せて歓びを満喫した日葵は、それからようやく事情を話してくれた。




