82話『八の王』4
赤くなった世界にオレンジ色の青年が肩で息をしながら駆けこむ。
震える足で、荒く息を吐きながら村の奥へと、足を進める。
「う……ああ、あああ、ああああああああ!!!」
吼声――。
雄叫びにも似たその声は寂しい家々に反響し、だんだんと叫声にも似た泣き声へと変貌する。
邪魔な仮面をはぎ取り歪な火傷の後が残った顔が露わになろうとも、黄色の瞳からは止めどなく涙が溢れ、覆いかぶさるように腰を曲げると肩を震わしどうしようもない光景と事実を前に咽び泣くしか無いのだ。
「え、ええ。ちょっと、引くぞ?」
そんな悲しさを露わにする青年の前に、場に合わない女の低くも凛とした声が響く。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった姿のまま、彼は声がした方へと顔を向けた。
「泣きすぎじゃない?」
男の目に映ったのは、この『ゲーム』
イレギュラーが「ヒュプノス」と呼んでいた、先程の背筋に寒気が走るほどの美しい女の姿がそこにあった。
胸元から腹にかけて血染めで真っ赤にして、同じぐらい赤い瞳がアレクシスを見下ろす。
「あなだが!あなだが、やったんですが!」
しゃくり声を上げながら、血まみれの彼女に憎しみにも似た怒号をぶつける。
だが、残念。それはお門違いと言うモノだ。
どれだけ憎しみの視線をぶつけようとも、女の表情は一ミリだって変わりはしない。
「私じゃないさ。良く見て見なよ。彼ら、弾痕があるだろ?私がそんな武器持っている様に見えるかい?」
「だっだら、誰が――!」
誰がやったのだ。
最後まで言い切る前にアレクシスの頭に浮かぶのは黒い少年。
イレギュラーの皇帝が送り込んだ犬の姿。
「言っておくけど、少年……。え、っとイレギュラーの仕業でもないよ」
それもまた、目の前の女にすぐ様に否定されるが。
血まみれの手で女は美しい白い顎をしゃくる。白い肌が汚れるが気にも留めない。
だったら、誰が?
アレクシスは再び頭を抱え、涙を流す。
この村落の中で、どう見ても歪で不似合いな、見たことのない群衆が倒れ込んで居ようとも見て見ぬふりをして、誰が犯人だと泣きわめき。そんな実に情けない青年の前で、ヒュプノスは呆れかえった表情を作る。
「ま、泣くのは自由だけどさ。邪魔なんだよ。泣くだけなら、端に寄ってくれない?」
つまらなさそうに長く細い白い指が適当な方向を差す。
「なにが、邪魔だどいうんですが!」
「泣きすぎて何言っているか分かんないんだけど?本当に邪魔!」
それでも彼女の意思を邪魔する様に、縋るように、泣きわめくアレクシス。
彼を心からただ、純粋に邪魔だと判断したのだろう。ヒュプノスは彼の首根っこを掴むと軽々と持ち上げた。「何を」そんな言葉を投げかける暇はない。まるで、正にゴミでも捨てるように彼女の細腕は男を軽々と投げ飛ばしたからだ。
アレクシスの身体は塵埃の如く、簡単に宙に浮く。
どうすることも無く彼はそのまま、一番近くに在った空き家へと直撃した。
痛みで身体を丸める中、視点の合わない視線の先でヒュプノスと言う女は、倒れ込む一組夫婦の元へと歩み寄るのだ。
白い手が、白い指先が夫婦の胸へと触れる。正確に言えば、胸に大きく開いた風穴に。
ただ、それだけと言えよう。彼女が村人A、Bにしたのは。
ただ、その瞬間に溢れ出す血が止まり、真っ赤な穴が塞いでいったのは、嗚呼――。正に瞬く間。
「――!」
今まで動くことも無かった夫婦が揃って大きく息を吸い込む。
激しく咳込み、血反吐を吐き出す。それでも、彼らがゆっくりとその身体を起こしたのは其れから一分も経たないうちの事。
驚いた表情で、ぼんやりと、目の前の2人は自身を見下ろし、お互いを見つめる。
纏う服は血まみれで、穴だらけ。
しかし、その身体にもう傷と呼べる存在は1つも無く――。
「さて、次だな」
見届ける事無く女は背を向ける。
長い髪がふわりと宙を舞い、もう僅かな興味すら無くなったようで彼女は別の夫婦らしき人間の元へと歩み進んでいた。
「――神か……?」
彼女の全てを見ていたアレクシスの口から零れるように言葉が落ちる。
しかしソレは致し方がないと呼べる奇跡としか呼べない光景。
愕然と呆然と、夢幻のような情景。
「さて、こいつらも終わりだな」
そんなアレクシスの心など知る由もない。
ヒュプノスは一組の親子の元に近づいたと思えば、これまた簡単に人を蘇らせ背を向ける。
ただ、今までと違うと言えば、ひとつ――。
「ま、待ってください!待ってください、神様!この子も助けて!この子を助けてません」
「ん?」
縋るように、小さな子を抱きしめた生き返らせた女が掴みかかる。
彼女の腕に抱かれた子は見て分るほどに潰れていて、息絶えていた。そう。ヒュプノスは我が子に覆いかぶさり守った母親だけを生き返らせ、その子は直しもしなかったのだ。
村人からすれば、今のヒュプノスの行動は神に等しい。いや、神でしかない。
彼女はたった今不幸にあった自分達を助けてくれた、正真正銘の神であると――。
その心はアレクシスも同じだ。
この村は悲劇に襲われた。しかし、同時に正真正銘の神も助けに来てくれた。我々を見捨てはしなかったのだと。
「やだ――」
しかし、その考えはあっさりと崩れ去る。
邪魔くさそうに女の手を振り払い、ヒュプノスはさも当たり前のように言いのける。
「――」
「それだけ?じゃ、私忙しいから」
唖然とする母親を前にヒュプノスは、遂には興味も失ったらしい。当たり前のように背を向けた。
「ま、まって!待ってください!」
彼女に、また別の人物が縋りつく。
それは子を見捨てられた母親では無く、今まで咽び泣いていたアレクシスであった。
「なに?」
「助けて、助けてあげてください。その子も、貴女なら治せるのでしょう?」
「やだ」
縋り泣いて、懇願する。それをヒュプノスはやはり一言で切り裂く。
むしろ心から不思議そうに「なぜ?」と言わんばかりの表情。
だが、彼女は決して「出来ない」とは言葉にすらしない。
「なぜ、助けてくれないのです。――神よ!」
それでもアレクシスは縋った。
どうか、どうか、と頭を地面に擦りつけ無様に、傍から見れば情けなく。
しかしこの村の民の事を心から想い、願う。
「いや、今日は親しか助けない気分なんだよね」
神様には、そんな想いなど知った事じゃない。
「き、ぶん?」
唖然とした様子でアレクシスは言葉を零した。
一瞬理解できず、だんだんと彼女の言葉が頭に木霊し理解する。
――気分?
気分なんて言葉で――!
「子供は世界の宝って言うけどさ。子供を生かすのは大人なんだよね」
「――――」
喉まで出かけていた言葉は、その瞬間に詰まりきる。
「今のこんな世界でさ。君たちは大人でいられるのかな?」
赤い瞳は何処までも冷酷で、残酷で、何処までも真実を無慈悲に語った。
その瞳を前にアレクシスは目を逸らせない。彼女の言葉が頭に響き反響する。
彼女の只のその一言は、悲しい程に正しい。
でも、だからと言って、幼い子を助けない理由になんてならない。
ソレが、人で、あるのならば――。
――違う。違うのだ。
「――なぁんてね」
目の前の女は美しく微笑む。
ニタリと、美しくも歪な笑みをその顔に浮かべる。
アレクシスは、その表情から、瞳から目を離せなくなっていた。
「言っただろう?気分だって。何となくの気分で親猫だけを助けちゃったんだ。なら、今日は最後までコレを突き詰めなきゃ、ね」
ヒュプノスと呼ばれる女は、その言葉を最後にアレクシスに背を向ける。
もう瞳は彼を映すことなく、何時もの《色の無い瞳》で、子を守った親を彼女は直していくのだ――。
「嗚呼、そうか」
その中で、唯一取り残された青年はポツリと呟く。
今まで見た中で、見たこと無い程に一番美しい瞳を持つ女性を想い浮かべながら実にうっとりと。
渇望する様に、長い彼女の後ろ髪に手を伸ばし、笑みを浮かべる。
「――。神とは、ああいう目をするのか」
それは、産まれた頃より神と言う存在を心から信仰し、愛していた男が零した。生まれて初めて、愛すべき存在に投げかける囁きだ。