75話『開戦』6
長い黒いコートが音を立てて舞った。
グーファルトが振り払い、腰に付けていいた銀色のナイフに手を伸ばしたのだ。
青白い手はナイフの柄を掴み上げ、体制を変えると一切の迷いもなく下から上へ少年に向け振り上げる。
狙うは首、動脈をただ一点。一撃で仕留めよう――。
仕留める筈だった――。
少年の手は実に軽やか。
その黒い瞳は目の前の男を見据えたまま、チラリともナイフを追うことなく、だがその手だけは緩やかに腰に付けた黒いナイフに伸び腕を上げる。
――ガキィン……。
金属と金属がぶつかり合う音が響き渡り、ちかちかと飛び散る火花。
黒いナイフと銀のナイフを間に。
黒い少年と銀色の青年は殺気を伴い睨み合う形で鍔迫り合いと陥った。
その流れ、正に瞬きの間。
腕は互角と言ったところか。
銀色の眼が酷く困惑と驚愕の色に染まる。
だが、直ぐにその眼は別の色合いに変わった。
それはまるで待ち望んだ獲物が現れたかのような、獣の色へ。
「うあああああああああ!!1」
後ろ。女の雄叫びが轟いたのは次の瞬間。
蒼いドレスを、茶色の髪を狂ったかのように乱しながら『六の王』の女が、何処から取り出したのか拳銃を構えていた。
バンっ……と、銃声1つ。
アドニスは銃声と共に、一気にグーファルトを押し返すと地を蹴りあげる。
軽々と宙へと黒い影が飛び銃弾は彼に当たることなく通り過ぎた。
空中でその黒い眼は、女の瑠璃色の瞳に目を移す。
「こっんの!!野良犬がぁぁぁ!!」
髪を振り乱し、血走った眼と歪み切った顔。耳障りな金切り声。
実に狂っていると言う言葉が良く似あう。
女は、一瞬の間があったものの今がチャンスだと思ったのだろう。
以外にも体制を変えるのが早かった。
ドトールが止めに入る間もなく、手に構える銃弾を再度アドニスへ。
両の手でしっかりと握りしめると、その引き金を迷いもなく引いたのだ。
それも一発じゃない。二発。三発。四発。恐らく籠められる銃弾全てを、空中に居るアドニスに向けて放つ。
一目見て分るほど、女の腕は素人そのもの。
アドニスを狙ってはいるものの、銃弾の軌道は酷く不均一であり、急所処か身体に当たることも無いものが多い。避けるのは造作もないだろう。普通ならば。
だが、相手は今まさに空中に居る。その場から、避けられることは無い。この女は無意識のうちに、そう判断した訳だ。少なくとも、銃弾の一つは彼の胸を射貫く事が出来る事を信じて。
それもまた、相手が普通の凡人であるのなら――でしかないが。
高く跳び上がった先で、アドニスは天井に手を付くと同時に身体を横に回転させる。アドニスの胸を狙っていた銃弾は掠ることも無く飛び去り壁に穴を開けた。
まだ終わらない。跳び向かう拳銃はまだ三発。その全てが、少年にとってはのろのろと跳ぶ羽虫にしか見えやしない。
唯の虫だ。捕まえられるだろう?
空中でその身が地に落ちる前に、アドニスは浮かぶ銃弾へ手を伸ばす。
なぁに、掌が僅かに熱いだけ。ただ、それだけ。
つぎの一発が迫る。
拳を握りしめたまま、更にアドニスは空中で体制を変えた。
飛んで来た銃弾に足を延ばし、蹴り上げる。弾は壁へ。身体は前方へ飛ぶ。
最後の弾が飛び行く。
コレも簡単だ。クルリと空中で身体を回転させれば良い。
最後の弾はそんなアドニスの腰をぎりぎりに飛び越してゆく。
それはまるで水中でダンスでも踊っているかのように見えたのではないか。
一瞬であった筈なのに、その瞬間だけは時間が嫌にスローモーションに感じ取れるほどで、誰もが目を奪われた瞬きであった。
何が起こったかなんて誰もが瞬時に理解なんて出来やしない。
あのグーファルトでさえ唖然としてナイフを握ったままピクリとも動く事が出来なかった。
その隙を、アドニスが見逃すわけもない。
まだ空中に居たアドニスは拳を作った腕を大きく振り上げる。
狙うは一人。ほんの少し返すつもりで、水切りの石を投げる本当にそんな感覚で。
身体を捻らせるように、アドニスは手に持つ銃弾を弾き投げた。
だが、手弾で投げた弾は其処らの拳銃と全く変わりなく。
ただ一直線に、ド素人とは違って軌道は一ミリもズレる事無く。
呆然と佇んでいる、瑠璃色の貴婦人へとめがけて飛翔する。
瞬く間、鮮血が飛び散った。
ぐらりと、大きな体は宙に浮いて倒れ行く。
水色の瞳はぐるりと方向性を失い、オールバックだった銀色の髪は反動によって乱れ散る。
その様、正に人形の様。
手はぶらり。脚もぶらり。もう籠める力もなく。だらしなく口を開けて。
頭に大きな風穴を開けて。
『六の王』ドトールは一気に吹っ飛び、床へと倒れた――。
間抜けな音と共に寂れた床に広がってゆくのは赤い液体。
幾度か痙攣したのち、アドニスが着地したと同時に、ドトールの身体は遂にその動きを止めた。
周りは愕然としたまま。
アマンダもグーファルトも。
ドトールに引っ張り倒されて尻餅をついたままの蒼い瞳の女も。
まだ、現実に追いついていけていないのか呆然とこの場を見据えるだけ。
「ふん。ドトール・アンダーソン。――任務完了」
ただ少年の声だけが不気味に木霊する。
――。
血まみれの床を黒い靴が踏みしめる。
黒い眼は足元の死体を見下ろすと、ゆっくりと膝を付いた。
手がドトールの首に伸び、確認。脈は無い。やけどを負った手に鮮血が纏わりつく。
そんな手を振り払いながら、アドニスはゆるりと立ち上がった。
立ち上がる彼の手にはもう火傷の後すら微塵も無い。
彼が見据えるのは残りのメンバー。未だに呆然と佇んでいる『王』達。
「――まあまあだな。弾くのはまだ無理か」
どうしようもない怯えを前に、アドニスは僅かに視線を外す。肩眉を上げニヒルな笑みを浮かべると何処か自虐するような、小馬鹿にするような一言。それも瞬く間の事、次の瞬間にはアドニスは『王』を再度観た。再びナイフを握りしめ、正に獲物を狙う獣の眼光。いや、獣以上の眼。
「ひっ……」
その殺気に誰よりも先に反応し、腰を抜かしたのはジェラルドとマリアンヌ
全身の毛が逆立ち身震いが止まらない。歯はガタガタと鳴り響いて、瞳孔が定まらない。
ゆらゆらと合わない視点で目に映るのは殺気を纏う、無表情の少年唯一人。
「さて、どうするか」
その無様さはアドニスには『呆れ』しか浮かばなかった。
ナイフを構えて値踏みする。次の獲物はどれにする。
土煙と共に銀の閃光が奔ったのはアドニスの眼が僅かにも、銀色の視線と合わさった時だ。
今一度火花と共に金属音が鳴り響く。
ぶつかり合うのはこれまた同じ、黒いナイフと銀のナイフ。
アドニスは飛び掛かって来たグーファルトを睨み上げる。其処に色はない。
反対にグーファルトは酷く面白げな色合いを見せながら笑みを浮かべていた。
「こりゃ、想像以上の化け物が送り込まれたぜ」
音を立てながら互いの一撃を押し込み続ける。再度鍔迫り合い。威力はやはり五分か。音を立てながら2人は微動だにせず。互いに互いの強硬を受けていた。
ソレは時間にして一分ほど。彼らの鍔迫り合いを終わらせたのはこれまた再度、一発の銃声だ。
黒い眼はすぐ様に視線を音のした方角へ。重い一撃を片手で、軽々と銀のナイフを押しのけると一気に後ろへと飛びのいた。
グーファルトも同じ。一瞬身体がぐらりと傾いたかと思いきや、一気に足元を蹴り上げ後ろへ距離を取った。
その間を飛行したのは一発の銃弾は誰にもに当たることも無く、後ろの壁に穴を開ける。
土煙を上げながらお互いに距離を。
アドニスはナイフを構えたまま殺気は止まず。同じくしてグーファルトも片手を地面に付きながら、2人は後ろの人物を射貫く。
「くそ!」
両者の眼に映ったのはライフルを手にしたジェラルドの姿。どうやら今の一撃は彼の様だ。
良く見れば彼だけじゃない。その後ろ、マリアンヌも実に何処から取り出したのか、物騒なモノを抱えて恐怖を顔に張り付けながらアドニスを睨んでいる。
女の腕にあるのは大きくごつい銃。
片手拳銃なんて可愛い物じゃない。何処に隠していたと言うのか。ライフルでさえ可愛らしく思える代物。思わず、アドニスが今は無きオーガニストに苦言を思い浮かんだ一物。
黒々としたボディーに異様に長い筒。だらりと流れる様に付いた沢山の銃弾。
あの名称を何とか思いだす。組織で見た。
ああ、そう。――機関銃だ。
「っしねえぇぇ!!」
そんな名称なんかを考えているとマリアンナは絶叫に持ちない怒号と共に機関銃の引き金を引いた。
鳴り響くのは耳を塞ぎたくなるかのような轟音。まるで地鳴りのような響きと、数えきれないほどの弾が発射される。
普通はその威力で使用者も吹っ飛ぶか、気道が大きくずれそうなものだが、先ほどと違い銃弾の軌道は全て正確。
つい思ってしまう。
オーガニスト。自身を追い詰めたあの武器商人で科学者。
あの男はやはりどこまでも天才であり、こんな武器を売りさばくなんて要注意人物であったに違いないと。
『くく……あはは!!なんだそれ、実に面白い水鉄砲じゃないか!』
その轟音の中で、凛とした美しい声が響き渡ったのは弾が発射されたと同時の出来事。
刹那、時間が止まる。比喩ではない。それは本当に時間が止まったようにゆったりと、全員の前で弾丸が停止したのだ。
まるで、銃弾が飛ぶその場所だけ別の空間に陥ったかのような。理解も出来ず、言い表すことも難しい感覚。
その時間は僅か5秒ほど。だが、彼女には十二分すぎる時間。
『ふふん、少年。此処は私が掃除してやろう。今度はちょっとばかし本気を出す感じで♪』
止まった時間の中で高らかに、不似合い過ぎる楽しそうな女の声は響き渡る。
アドニスの前に立ちふさがる様に、彼を守る様に、突如常闇のような暗い穴が空間に現れた――。
銃弾の時間が戻ったのはその瞬間。
時を取り戻した弾丸は疾駆のごとく宙を切り裂く。
狙いは変わらない。変わったと言えば、アドニスをまるで守る様に現れた黒い穴だけ。
穴の中で、神様はニタリと紅色の唇で笑みを浮かべあげた。
黒い穴から白い腕が伸び出でる。
腕、じゃない。出て来たのは人。
濡羽色の髪をバサリと浮かし、白い真雪の肌。漆黒のドレス。
小さく花のような手を地面に付けて、大きく開かれた背には真っ赤な刻印。
血を吸い上げたような瞳をした彼女は、ルビーの唇を裂けんばかりに吊り上げて笑みを浮かべ敵を捉えた。
目に映るのは銀の銃弾。
どう見ても避けられるようなモノじゃない。
避けなくても良いのだから避ける必要もない。
何をするか?
ただ、口を開ければ良いだけだ。
あーんと口を開けて
――ぱくんと閉じるだけ。
ただ、それだけで彼女の銃弾はルビーの唇に挟まり止まる。
ほら、コレだけで十分なんだよ。――少年。
「は……あ?」
余りの事に二人分の銃撃は止まった。
白い身体がゆらりと起き上がる。
長く細い手が動く。
銃弾が彼女へ、白い肌に当たりて弾き飛ぶ。
火傷処か傷跡1つ付きやしない。
しなやかに滑らかに彼女は動いた。動くだけ。
ただ身体の何処かに弾が当たれば良い。柔らかいゴムの様に跳ね除ければよい。
飛んで撥ねて飛んで撥ねて、跳んで撥ねて――。
音を鳴らしながら跳ね返しては壁に穴を開けてゆく。
女にとってはそれだけで十二分。
彼女を狙って跳ぶ最後の弾丸。
白い手は人差し指を立てて、ちょいっと――。
鈴を転がすかのように跳ね飛ばした。
彼女からすれば、ただ突っついただけなのだが――。
それだけで銃弾は再び疾へと。それも先ほどよりも疾やく。
誰も避けられる筈も無く。マリアンナの頬に痛みが走り赤い線が浮かび上がった。
同時に、破壊音と共に崩れ去るのは後ろの壁。
土煙が黙々と巻き起こる中で、皆が愕然としていた。
――分からない。分からない。いったい何が起こったと言うのか。
ジェラルドもマリアンナも手にしていた銃を下ろし呆然と。
グーフェルトでさえもナイフを下ろし、動けない。
「ほーら!此処までやらなきゃ及第点にもならんぞ!」
その中で唯一呑気な声を発するのは、唯一人。
同じくどこか呆れたような溜息を零すのは少年が一人。
唯一彼女を知る少年はいつの間にか自身の後ろへと移動していた彼女へ黒い眼を後ろに向け、その名を呼ぶ。
「――ヒュプノス」
アドニスへと抱き着き、真っ赤な瞳に此方を映し撮ってシーアは何時ものようにニタリと笑った。
――。
アレは、何か。何か。分からない。分からない。
ただ不味い物だ。あの女も、そしてあの少年も。
今、この場に居るのは危険と本能が警告を出す程に。
マリアンナの腰が、がくりと抜けた。
――。その女を赤い少女はいち早く受け止める。
「逃げなさい!!!!!」
崩壊した屋敷中に少女の声が鳴る。
それが今まで傍観していたアマンダの物であると気が付くと同時に、グーフェルトは我に返った。
ジェラルドやレベッカも同じであっただろう。
グーフェルトが振り向けば、小さな身体にマリアンナを抱えて、険しい表情を浮かべ、それでも真っすぐに『王』を見据えるアマンダの姿があった。
最初に動いたのはレベッカ。
ニヤリと笑った彼女はぴょんと飛び跳ね、その場から移動するとヘジェラルドの首根っこを掴み上げ瓦礫へと、出来上がった出口へと跳んで行く。
グーフェルトは向けられた視線を追う様にアマンダを見る。鋭い視線だ。何か言いたげに、しかしそれも一瞬で彼女はマリアンナを抱えて同じように走り出す。
彼が小さく舌打ちを繰り出した。右手でフォックスを抱え、空いた左手で腰を抜かしたままの『六の王』の女の腕を掴んだのは同時。
女はまだ呆然とし、我に返っていない。このチャンスを見逃すわけには行かない。
グーフェルトは一度アドニスを見る。
得体のしれない女を背負い、真っすぐに此方を見据える。化け物と言えよう好敵手。
不思議な事に少年は此方を見るだけで追ってくる気配はない。あの殺気も、もうない。
今の少年に危険性は無い。だが問題は後ろの女。
あれから早く逃げなくては――。
グーフェルトは口元に笑みを湛えた。
「坊主、またな。今度こそ『ゲーム』で、どちらが勝者か決めようぜ」
だから送るのは唯、その一言。
刹那、グーフェルトの身体は一度残像を残すと同時に消え去るのである。
その場に残ったのはアドニスとシーアだけ。
消え去る銀髪の男を目で追いながら。
アドニスは酷く面白そうに、ようやく始まったこの『ゲーム』の本戦に黒い笑みを浮かべる。
※『ゲーム』開始。
離脱者ドトール・アンダーソン
備考特になし。
9月10日 誤字報告ありがとうございました!