67話『約束』中編
今の一瞬、彼女に対して恐怖を感じなかった。
こうして面を向かっている瞬間にも怯える事は無い。愚かしいが、実にソレが喜ばしい。
そんな感情をひた隠しにして、再び地を蹴り上げるとアドニスの身体は音を立てて後ろへと飛び下がった。
皇帝陛下の目前で手を付いて止まる。後ろから突き刺さる様な視線を感じつつもアドニスはシーアを睨んだ。
「申し訳ありません。陛下。お気になさらず、唯の化け物です」
謝罪を口遊みながら、立ち上がるとナイフを握り直し構える。
恐怖は無い。しかし当たり前だがシーアに対し、勝てる気は微塵も起きない。
むしろ、本気で跳び掛かろうものなら、この場で叩きのめされ地に這い付く事となろう。だが、自身に待ち受ける未来を予想しながらも、それでも今のアドニスに沸き起こる感情は《呆れ》ただ一つ。
殺気を纏った眼でシーアを射貫きながら、わざと溜息を零した。
「追ってくると思ったが、此処まで無遠慮とは……。おい、ゴリラ女。陛下の御前だ。頭ぐらい下げたらどうだ?」
勿論嫌味だ。彼女はアドニスの言葉に従う事は絶対に無い。と言うか、この嫌味が届かない事ぐらいわかっている。
現に彼女は動こうともしない。二つに割れた愛妾から溢れる夥しい血の中心でシーアは腕を組み、微笑。
赤い瞳が真っすぐにアドニスと、そしてモニター向こうの皇帝陛下を捉えているだけ。
瞳が細くなり、ルビーの唇が今までとは違う「ニマリ」という笑みを浮かべたのは次の瞬間。
「少年、この男が皇帝か?」
今までの掴み処の無い口調でもなく。ましてや子供らしい口調でも、知的や古風な口調でもない。威厳が溢れ出る《王》――いや、《神》を思わす、その声色で彼女は問いただした。
質問事態はアドニスに対してなのは違いないが、その視線は明らかに皇帝を捉えている。
どうやら、皇帝陛下にはこの《性格》で彼女は進める気らしい。
いつも思うが、ころころ性格を変える彼女は実に腹立たしい物だ。
いや、今はそんな事を気に留める暇なんて無いか。アドニスは脚に力を込めた。
彼女が、シーアがいつ跳び掛かっても対応できるように。
殺気を膨れ上がらせ、彼女に問う。
「何しに来た?」
「会いに」
アドニスの問いに、シーアは臆することも無く放つ。
自分に会いに来た――。
ではないだろう。その赤い瞳は変わらず皇帝を映している。彼女は間違いなく、皇帝に会いに来たのだ。
何故か?これも簡単。
気まぐれだ。
先程、半日ほど前の通話を聞き、あの時の様に遊び感覚でやって来たのだ。
前はエージェント達を片端から再起不能に上げていったわけだが、今は?
――何、平気である。皇帝はこの場にはいない。
被害にあうのはアドニスと、未だに後ろで愕然と腰が抜けたままの愛妾の二人ぐらいだ。
まあ、玩具をみすみす壊された訳だから、お叱りは受けるだろうが。
皇帝から受ける被害はそれぐらい。
謹んで御受けしよう。
其れよりも――。
アドニスの頬に冷や汗が伝う。
お叱りでも何でも受けるから、今は、今すぐに彼女を此処から追い出さなければ。
そう、皇帝陛下がお気に召す前に――。
『――アドニス。この女は、なにものだ?』
嗚呼、遅かった。
緊迫した空気の中で、実に場違いな感銘の声が渡る。
アドニスは顰めた。
しかし、答えを返さないわけには行かず。そして、この状況で振り向くなんてもっての外で、皇帝に背を向けたまま重たい口を開く。だから、彼の表情は彼女にしか見えやしない。
「言った筈です。唯の化け物……と」
『化け物……?化け物とな?――こんなに美しい存在が化け物と?』
後ろから感極まった音吐。
モニター向こうから、がたりと椅子が倒れる音、荒い息遣いが聞こえる。
皇帝がどのような表情をしているか?見ずとも分かる。
だって、彼女は今までで見たことも無い程に美しく麗しく、そして悍ましいから。
美しい物を好む王には、一目見た瞬間に欲しくなるはずだ。ソレはもう、喉から手が出る程に。
『なん、と。……なんと、完璧な、素晴らしい存在だ――!』
血走る眼をかっ開き、口元に狂気じみた豪笑、気が狂ったかのように目元に立てる爪、擦れ切った声を漏らしながら王は放った。その様子は恐怖さえ感じ、鋭い眼光はモニター向こうの【神】にしか、もう向けられていない。
その愛すべき王の異変に一番に気が付き、嫉妬に狂ったかのように表情を変えたのは残った愛妾たちだ。
特に少女の方は余程皇帝の様子が気に入らなかったらしい。太ももから金色のナイフを取り出すと立ち構え、シーアに殺気を飛ばす。
「止める」なんて暇は無かった。
少女は地を蹴りあげると、瞬く間に【神】の前へと移動した。――遅い。
アドニスから見て、少女の動きは鉛が付けられたような、まるで毛虫の遅さ。
《怪物》から見て、コレなのだ。
【彼女】から見れば、《以下》。下の下と言うレベルを更に下回る。愚かの一言でしかないだろう。
シーアの真雪の手が僅かに揺らめき水色の頭を掠った。
それだけで水色のカスミソウは、紅の彼岸花に変貌する。
血だまりの中に茎は堕ち、痙攣する白い枝は鮮やかな赤に染め上げ朽ち果て枯れた。
音を立てながら金色のナイフは、最後の愛妾の足元へ。
黄緑の髪は大きく揺らめき、膝から崩れ落ちる。美しい顔を恐怖に染め上げ、もう立ち向かう気すら湧かないだろう。
その中で、皇帝は驚嘆にも似た甘美の笑みを讃えるのだ。
『なるほど……。コヤツがお前に傷を負わせた女か!』
興奮した声が高らかに上がったのは間も無い直後の事。
ソレは紛れもなく、一週間前の青痣の事だろう。
アドニスは僅かに皇帝に視線を送ると、少しして小さく頷いた。
皇帝の眼の色が変わる。
次に皇帝から発せられる言葉は、もう決まったようなものだ。
何せ彼は元より、《化け物》に青痣を付けた人物に興味を持っていたのだから。
その人物が目の前に現れたとしたら。――欲しくなるに決まっている。
『寄越せ!!』
秒も無く、皇帝は腕を伸ばし彼女を求めた。
ソレはアドニスに向けられた命だったのか。其れとも目に映る彼女に向けられたものなのか。
どちらでも関係ない。
動けなくなるアドニスの前で怪訝そうに首を傾げたのは一人。
絶対的王者の前で動けるのも、また一人……。
「――不敬者が。何故私が貴様のモノに成らねばならん」
シーアが冷たい赤い瞳で拒絶を叩き込む。
顎を上げ、罵倒した色を表情に付け嘲り笑い。
僅かに胸を撫で下ろす少年の前で、皇帝の言葉を待つ事も無く、彼女は続けた。
「ただ、私は貴様に会いに来たのだよ。本当に漸く会えたと言うモノだ」
『何?』
一瞬怪訝そうな顔を浮かべたのは皇帝。
彼女の発言から、自身を狙う暗殺者だとでも思ったのだろうか。
その顔色は《男》から《王》の物へと戻ったようだ。
王の姿を見て、赤い瞳が細くなる。
「まて。私はただ話をしに来ただけだ」
彼女は皇帝に対して、暗殺する気所か怪我を負わす気も無いのだが。
ついでに言えば、無駄話なんてする気も無い。
「ただ、交渉を師に来ただけさ。『ゲーム』に関してね」
『……『ゲーム』、だと?』
一度だけアドニスに視線を移したのち、彼女は当然の様に本題へ。
少しの無駄話も世間話もすることも無い。
白い手が胸元へと伸び、自分を主張する様に置いて、彼女は言った。
「――私を、そこの少年の武器としてゲームに参加することを許せ」
それは初夜に彼女自身が押し付けた、しかし今まで不確かのままでの『皇帝から赦しが出れば』と受け入れされた申し出。
『武器、だと――』
「そして、もう一つ」
疑問にも似た声を彼女は制する。白く長い指が一本立つ。
「ニタリ」……彼女が何時もの笑顔を見せたのはその瞬間
「私達が勝ったら、この子に褒美を寄越す事を許せ!」
もう一つ。
彼女に取り付けられた《約束》を声とする。




