65話『勝利』
「ふーむ、及第点だな。いや、無駄に化け物じみていたか」
空を見上げていると何処からともなく声がする。
辺りを見渡す気にはならない。どうせ今はまだ、姿を現す気が無いとそう思えたからだ。
目を閉じて僅かに俯く。いいだろう師の小言を聞いてやろう……と。
「……一応銃弾を足元に作ってやったけどさ。普通本当に使う?」
自分で囮になり、あの足場を作って置いて実に身勝手な言いぐさである。
「本当はさ、意地になって私の作った足場なんて使わず、三キロ飛ぶと思ったのに」
彼女はアドニスを化け物か何かと思っているのではないだろうか。
「――君なら、ソレが可能だと私は思っているのにな」
クスリと笑い声が響いて、俯くアドニスの頬を柔らかな黒髪が撫でた。
後ろに気配、温もりを。誰かが顔を覗き込んでいると言う事実を、直ぐに感じ取る事が出来る。
眼を開ける。
黒曜石の瞳に映ったのは赤い瞳。
口元に柔らかな笑みを浮かべ、実に誇らしげに微笑むシーアの姿がそこにあった。
初めて見る、それは。
心から賛美を送るかのような視線だ――。
「及第点だが。――それ以上であった。見事だったな、少年」
白い手がアドニスの頬を撫で、確かな言の葉を贈る。
それだけじゃない。
彼女の瞳、口調。コレはきっと……。
「慰めて、いたりするか?」
思わずと、口から出る疑問。
目の前の赤い瞳は静かに閉じられ、口元にはまた違う色の笑みが浮かんだ。
白い手が頬から離れ、温もりを失った頬には僅かな肌寒さが広がり惜しくなる。
シーアの身体はふわりと宙へと浮き、地に足を付けた。
風を浴び、ボロボロの黒いコートとドレス、そして黒い髪がふわふわと空を舞う。
ソレを手で掻き上げながら、彼女はアドニスの隣へと佇む。
「もういいのかい?幼馴染君との会話は」
「……ああ。アイツとの会話はもう終わったよ」
後ろ手に組ながら問う彼女に、アドニスは再び空を見上げながら言った。
だが、それも僅か。思う幼馴染から、隣の黒い眼は彼女を映す。
空を見つめ、何処か物悲しく美しい彼女の横顔を見つめながら、口を開く。
「……同情でもしたか……?」
「ああ!」
小さく零す様な問いかけであったのに、彼女は大きく頷いた。
赤い瞳が此方を見据え、僅かに優しげに細くなる。
「幼馴染君は、君の唯一の理解者であったかのように見えたからね」
「……俺を裏切った男でもか?」
「怒ってないだろう?」
「挑戦状を俺に送り付けて来たのは、きっとあいつだぞ?」
「そうだね。あの空飛ぶ機械を用意したのも彼。……オーガニストの情報と狙撃銃をくれたのも彼」
「なんだ。まるで、俺がアイツを許しているとでも言いたげな」
「許しているだろう?――確かに君はこの戦いの最中、裏切り者に対して怒っていたけど。あれは《呆れ》からだ……。最初から君は幼馴染に対して怒りも抱いてなければ『裏切られた』とも思っていないんじゃないか?」
「――――――」
ああ言えば、こう言うとは正にこの事だろう。
しかしアドニスは口を閉ざす。悔しいが――すべて事実であるから。
カエルが裏切り者である。これは最初から気が付いていた事だ。
アレは本人が隠す気すら無かったので嫌でも受け入れるしか無かった。
裏切り者のくせに、馬鹿みたいに裏切りきれてなくて。
最後まで《家族》に執着を見せ、どちらも手助けしたカエルに呆れかえって。
彼の行動に苛立ちを覚えたのも事実。
怒りは無い。ただ、心底呆れ返って、呆れ果てて。
でも、アイツはあんな奴だから。
裏切られた、なんて気持ちは微塵も思うことは出来なかった。
「――違う、そんな信頼しているんじゃない。もっとひどいよ……。俺は」
シーアから目を逸らし、アドニスは言う。
風を浴びながら、空を見上げ。胸に手を置く。
今、この胸には僅かな痛みは欠片もない。
本来なら裏切られたと僅かにでも怒るはずだが、その痛みすらない。
遂さっきあった出来事なのに。――もう、他人事だ。
アレでも、一番の親友で、唯一の兄弟であったはずなのに、な。
……何も感じない、何も想わない胸を抑えてアドニスは息を付く。
「――前にお前に言われたことを思い出したよ」
「?なんだい」
それは、もう三日前のなるのか。
シーアに言われた言葉だ。
彼女に叩きのめされて、最後に捨てるように彼女に送られた。
「俺には『色が無い』そう言っただろ?お前は」
「ああ、言ったね」
口元に僅かな笑みを作り、アドニスは俯く。
「確かに、色……無いな、俺は」
――色が無い。
親友であった筈の幼馴染に裏切られても彼の心は落ち着いていた。
彼のせいで死にかけたと言うのに、怒りも苛立ちも、呆れも、もうない。
彼が、抱えて捨てきれなかった家族の想いを聞いたところで理解すら出来なかった。
彼に、カエルにもう会えないと、分かっていても――。
どんな感情も、僅かにも浮かんでこないのだ。
――色が無い。
何の感情も浮かぶ事すら出来ない欠陥品。
色が、無い。
嗚呼、全く……その通りじゃないか――。
「――違うよ」
その思いを、側に居たシーアが否定した。
白い手が伸び、俯くアドニスの手を取る。
確かな温もりを前に、少年は顔を上げ彼女の顔を見据え、息を呑んだ。
赤い瞳が酷く何故か、困ったようなモノを見るような色を見せ此方に向けていたから。
その色を帯びながら、シーアは言う。
「ま、他人からすれば、ちょっとばかし切り替えが早いみたいだけどね」
細い指がアドニスを指す。いいかい?そう前置きして。
「感情が無い、本当に色の無い存在はね。最初から何も想わないモノさ」
最初から、何も思わない。想えない。
怒りも、呆れも、哀れみも
『へぇ。そうなんだ』と、こんな些細な興味も無い言葉すら思い浮かばない。
そもそも、そんな無駄な話を聞く気にもならない。
理由なんて一切聞かず、同情を僅かに浮かぶことも無く、ただナイフを無情に振り下ろし。
理解も出来ない自身の美学を掲げて、他人の想いを踏み荒らす……。
シーアは言う。
「――色が無い糞と言うのは、そういう奴の事さ」
赤い瞳の奥で、金色を滲ませ、万華鏡の色を帯びながら――。
◇
……アドニスは言葉を失う。
ただ無言のままに、彼女の瞳に釘付けとなる。
その色合いが一瞬で、シーアが瞬きと共に消えたとしても。
呆然とする彼の前で、彼女は何時ものようにニタリと笑うのだ。
「君は幼馴染に怒り呆れ、哀れんだ。その想いは確かなモノさ」
白い手がアドニスの頬を撫でる。
その手付きはまるで猫の頭を撫でるかのような優しい物だ。
「切り替えが早いだけだよ、君は。私が姿を現した時には、もう幼馴染君に感じていた気持ちを切り替えただけ。冷めたと言う方が正しいのかな?」
なんて小さく首を傾げ、口元が裂けんばかりの笑みを浮かべたモノ次の瞬間。
「いや、年相応の病気かもしれないけどさぁ。15歳だもんねぇ?」
「……は?」
今度はアドニスが首を傾げた。
彼女が言いたいことは、全く把握できない。把握できないが――。
なんだろう、実に腹立たしく、恥ずかしい何とも言えない気持ちになるのは。
にたにた笑う彼女を前にして、言い表せないモヤモヤを抱えたまま。
アドニスはシーアから目を逸らした。
シーアがケタケタ笑い、背を向けたのは正に同時。
「私が『色が無い』と言ったのは別の意味だよ?さっきの細やかな君の思い込みと違って、こっちの方が酷い」
ふわりと宙に浮くと、彼女はアドニスの正面に。その様子を視線で追う。
ビルの屋上から足を離して、その場に佇むように彼の顔を覗き込み笑い言うのだ。
「――君さ。なんで幼馴染君を殺さなかったの?」
「え?」
「幼馴染君だけじゃない。裏切り者と疑ったおじさんの事も。裏切りはご法度なんだろう?疑わしくは殺せ。なら、何故粛清しなかったのさ」
思いもよらない唐突な問いにアドニスの頭は白くなった。
ただ、それも一瞬の事だ。小さく首を振る。
首を振って、これ以上の無い答えを出す。
「依頼が無いのに何故殺す必要がある?」
それが、問題だとも気が付かずに。
シーアはニタリと笑った。
「ふむ、これは少々……。師として何とかせねばなあ」
ポツリと呟くように言って、シーアは背を向ける。
だが、何時ものようにその場を去る訳でなく、シーアの身体はふわりとアドニスの隣に降り立つ。
彼女の手がアドニスの手を包むように握り、優しい頬笑みが送られた。
「――!」
「でも、今はこの戦いに勝利した君を褒めねばな」
何時もの揶揄う様な笑みに似ていて、余りに違う。
まるで……大事なモノを失った自分に寄り添うかのような――。
その温もりが余りに暖かくて、小さな手をきつく握り返して
アドニスは、また、空を仰ぐ……。
◇
――ブブブブ
携帯端末のバイブが響いたのは、それから少ししてからの事だ。
何処か名残惜しい気持ちでアドニスはシーアの手を離しポケットに手を伸ばした。
電話の相手は「ドウジマ」
ここでマリオなら無視でも決めてやろうと思ったが――。
僅かに眉を顰める。彼にも、報告を。そして報告を聞かなかなくてはいけない。
それが最悪な事実でも仕方が無いと胸に留めて、「通話」ボタンを押した。
『アドニス……』
「なんだ」
電話先の男の声は明らかに落ち込んでいる様な、そんな声。
彼の報告を聞きながら、アドニスは小さく息を付いて、此方からも報告をする。
「こちらの任務は終わった。参照は後で送る。裏切り者の処分は皇帝にお任せするさ」
少しの間、電話の向こうで「そうか」と苦虫を嚙みつぶしたような声。
数日の間にこの廃墟は隅々まで調べ上げられ、少なくとも「オーガニスト」の本拠も見つかるだろう。
『組織』の開発部門にも調査が入るはずだ。その後は皇帝の御指示のまま『組織』が動く。
それが一連の事件の結末となろう。
「報告は以上だ」
これ以上の報告はない。
アドニスが端末の電源を切ろうとした時。
端末の向こうから「まて」と制止するドウジマの声が響いた。
これ以上何があるのか。
問いかけようとしたが、その答えは直ぐに送られる。
ただ、一言。
『皇帝陛下が御待ちだ』
この勅令。
アドニスは僅かに息を呑み、目を閉じた。
その時隣にいたシーアの表情に気が付かないまま。
「承知した」
鋭い黒曜の眼は、冷徹な色を帯び開く。




