48話『あまりにも一瞬のものだ』
彼女の行動は、いつも奇天烈で、アドニスを翻弄させる。
男を誘う様に後ろから抱き着いて、胸を押し当てて、人前でも形振り構わず。
その度にアドニスは怒りを露にする。アドニスが憤慨するほど、シーアのセクハラは酷く、更に此方が困るほどに艶やかなモノに成る。結果、またアドニスが怒りを露にして、その繰り返し。
「……楽しんでいる、俺で遊んでいると思っていたが。思えば、俺が嫌がる行動ばかりとるよな、お前。少しでも嫌がれば、更に進んでその行動をとり続けるし」
これではまるで、シーアはわざとアドニスから嫌われる行動を好んでいる様だ。
だが、決して嫌われるのが好みだから、の行動じゃない。
アドニスから嫌われることを喜んでいる節があるが、それはあげるのなら、そう《安堵》だ。
「お前は、俺に嫌われると何時も安心した顔をする」
この言葉に、シーアは瞳を大きく広げた。
一瞬息を詰まらせて、抱きしめる手から、彼女が硬直しているのが分かる。
少しして、小さなため息が一つ。アドニスの身体に重さが加わる。
それは僅かな重みであったが、それがシーアの重みで。浮いていた身体を下ろし、床へと座ったのだと気が付くのには時間が少しだけ掛かった。
だが、それでもアドニスを抱き付く腕は離さず。動くことも無い。
降り立った彼女はアドニスよりとても小さく。肩から覗き込むように見せていた、彼女の顔も見えなくなる。
背中に、硬い感触が広がったのは直後。
シーアがアドニスの背に、埋める様に頭を置いたのだ。
「……察しが良くてきらーい」
ぐさり、まるで胸を抉り取る様な一言。アドニスは思わず胸を押さえた。
どうしてこうも胸が痛むかは分からないが。眉を寄せる。
「私はね、少年」
そんなアドニスに気付くことも無く。いや、気が付いたうえで、シーアは続ける。
「私は、君が心底。……嫌いなんだよ」
再び胸を抉る。でもなぜだろうか。今の言葉は本心には取れなかった。
「だからさ、少年にも私の事、嫌いになって欲しい訳」
背に顔を埋めながら、彼女は言った。アドニスは小さく声を漏らし笑う。
「なら、良かったじゃないか。俺はお前が嫌いだ」
「ん、なんで?何処が嫌い?」
何処がって、問われた事をアドニスは考える。
嫌、考えるなんて無駄だ。必要ない。
「人を常に馬鹿にした態度と、掴み処の無い性格と、セクハラ行為」
この言葉に、シーアは笑った。背中に振動が伝わる。どうやら本気で面白かったらしい。
振り返って、その様子を見たかったが動けそうになく、アドニスは天井を見上げて彼女の機嫌の良さそうな笑声が止むのを待った。
彼女の声が止んだのは、どれほど経ってからだろう。
「ん、成功だったようだ。良かった」
聞き取れないほどに小さく呟く声。
声と共に、彼女は満足げにふわりとアドニスから離れるのだ。
下着姿の彼女が再び目の前に現れた。
ただ、今ばかりは顔を隠す余裕がない。
彼女の言葉が、彼女の態度が、心の端にしこりを残したからである。
――成功だった。
なにが、だろうか。そんなに自分から嫌われることが、嬉しいと言うのか。
酷く腹立たしい気持ちが巻き起こる。本当に胸が痛い。
「……だったら、セクハラ行為はもう卒業だな」
痛む心を隠して、何とか言葉を口に出す。
気が付けば、シーアは黒い穴の前に浮いていて、今まさに中に消えようとしている所だ。
「もう、必要ないだろ。俺は充分にお前を嫌っている」
アドニスの言葉に、シーアは動きを止め振り返った。
赤い瞳がアドニスを映して、僅かに驚いた表情で見つめる。次に彼女はどんな表情を浮かべるのか、息を止めてまじまじと見つめてしまう。
「――いや、残念。君への嫌がらせは、まだまだ続くよ」
だが、シーアが浮かべる表情は変わらない。
「にたり」――いつもと変わらない不似合いな笑みだ。
ふざけるな、変態!
その言葉を放とうとして、止める。
どうしてだろうか。再度、胸に手を当てた。
先程迄痛んでいた胸が嘘の様だ。身体が軽く、僅かな喜びさえも感じる。
でも何故かは言い表せない。ただちょっとだけ己を気持ち悪いとは思ったが。
「ん……一石二鳥……?」
そして、更に言いようがない不安も胸を襲うのだ。
「ふふ……。じゃあ、少年、私着替えてくるからちょっと待っててね♪」
「あ、おい!」
不安が浮かぶと同時に、シーアが笑う。
問いかける前に、その身体は黒い闇の中へと消えていき。どうやら有耶無耶にする気の様だ。答える気が無いと言う方が正しいか。
これ以上の会話はもうしないと言事だろう。アドニスも彼女を引き留める事はしない。
下着一枚の彼女が側に居ると言う状態はもう限界だ。
ここで引き留めて、シーアの悪戯心に火をつけてしまったら最悪の事態を引き起こしかねない。だから、穴に消えていく彼女を見送る。
ただ、穴の中に消え、閉じようとしたその瞬間に、ひょこんと彼女は顔を出した。
「そうだ、昨晩の償いとご褒美としてな。朝ごはん、作って置いたぞ、主様」
「……は?」
白い指が部屋唯一の机を指す。
見れば、確かに何か、机の上に鍋が置いてある。
何やら良い香りがするなとは思っていたが。アレが原因だったのか。
「な、なんだ突然……」
困惑した様子で彼女を見れば、シーアは笑う。
「うん?あのね、流石に鍛錬だけじゃ、色々足りないかなぁって」
そう言って下着を指でつまみ上げる。
今シーアは、鍛錬の報酬としてアドニスの元に居候をして、衣服も用意してもらっているのだが。どうやら、報酬を貰い過ぎと考えたようだ。だから鍛錬にプラスして、料理を付け加えたのだろう。
ただ、シーアが選ぶ服は下着以外、全部古着であるし。彼女自体何故か食事を摂らないため、鍛錬の報酬としては元より釣り合っているとも思えるのだが
……アドニスは小さく息を付く。
どうやら彼女なりの昨晩の謝罪らしいと、察しがついたからである。
つまり、報酬云々は建前だ。怒り過ぎた、反省していると言う料理だ。違いない。
ただ、気になる点は幾つかある。シーアを見た。
「お前、こないだ鍋、爆発させていたよな?」
「あれは、わざとさ。私は意外と料理上手いぞ?」
やっぱり殴っても良いだろうか。
一週間前のアレは唯の嫌がらせだったのか、と苛立つ。
それから自分で言う事じゃない
「……食材は如何した?」
「あるモノで済ませたさ。卵と、スパム。あと米だな」
確かにこの家には、冷蔵庫に卵と、戸棚にスパムがあったはず。米もある。
ただ、チラリとキッチンを見る。目に映るのは大量の空き缶と卵の殻。
――いやな予感が霞めるのは何故だろうか。
「それから、手紙。来てたよ」
「……手紙?」
眉を顰めていると、シーアは再びテーブルを指す。
見て見れば、鍋の隣に白い封筒が存在した。そう言えば、夢うつつの中で鉄がぶつかり合う様な「がこん」と言う音がしたはずだ。あれはポストが開いた音だったか。と、今にして理解する。
「……他には、何も無かったか?」
「なかったぞ。その携帯端末?それも反応なかったし」
「そう、か」
手紙が来た、それは理解したが。
――何だろうか、この違和感は。
アドニスは小さく息を付く。それ以上は何も言わなかった、無言のまま机の側へ。
その様子を見て、シーアはニタリ。満足そうに笑って、今度こそ闇の中へと姿を消した。黒い扉が音もなく消える。
消えたと言っても、シーアは隣の部屋に移動しただけだ。彼女の存在が『組織』に知られて以降、アドニスの隣部屋に彼女の部屋は与えられたのだから。どうせ着替えたら直ぐに戻ってくる。
その間に、此方も出かける準備を終わらせなくてはいけない。昨日と変わらず、『組織』へ鍛錬に向かう為に。取り敢えず、用意された食事を食べようと。
「……まじか」
机の上の鍋を見て、驚愕することになったが。
用意された物。それはおそらくだが、簡単に「親子丼」だ。
鶏肉の代わりにスパムを使ったのだろう。食欲がそそる香りが漂ってくる。
ソレは良い。そこは良いのだが。
「鍋一つに親子丼?朝から?」
問題は量である。そのままの通り、20㎝ほどの鉄鍋にコレでもかと詰め込まれた白米と、その上にかかったフワフワの卵。
丼一杯何てレベルじゃない。朝から食べる量じゃない。
アドニスは眉を顰める。
これはどう見てもアレだ。何が褒美だ、新手の嫌がらせじゃないか、と。
キッチンを見れば、見間違いじゃなかった。沢山の卵の殻とスパムの容器。いや、スパムだけじゃない。ツナ缶やトウモロコシの缶詰まで転がっている。
あの女。どうやら冷蔵庫の卵と、戸棚のスパムを含める、目に付いた使えそうな缶詰を全て使用して「親子丼」を作ったようだ。
何度だって言う、朝から食べる量じゃない。
ただ、昨晩の出来事で腹が空いているのも確か。親子丼の香りに誘われてアドニスの腹の虫が鳴る。別に女の様にダイエットをしているとか、そういう訳じゃないが。普通に鍛錬前にこの量は辛い。筋肉は付いても良いが、太る事は避けたい。
だが……やはり、腹が空いている。親子丼の前で生唾を呑む。
我慢できそうにない。仕方が無く、側にあったスプーンを手に取る。そのまま一口。
「……上手いのが腹立つ」
反論できない程に美味しくて顔を顰める。全部食べ切れてしまうと言う自信が産まれる程に美味しい。
このまま、口に掻き込みたい気持ちを抑え、一度スプーンを置いて、鍋に背を向ける。
とりあえず、朝食を食べる前にシャワーを浴びよう。
昨日の今日で、身体が汗でベタベタし、気持ち悪くて堪らない。
この特盛と対峙するのはその後だと判断したのだ。
「ああ、そう言えば、手紙」
ただ、最後にその存在を思い出す。そう言えば手紙が来ていたのだな、なんて。改めて思いだし。白い封筒を目に入れ。
「……は、手紙……?」
――ただのその瞬間で、思考が凍り付くことになった……。
これが、先程から感じていた違和感の正体だ。
◇
……その間は、僅かな物だった。
アドニスは無言のまま封筒を手に取ると、端を乱暴に破り捨てて、中の白い便箋を出す。
「――っ」
便箋を開くと同時に、唇を噛みしめ、息を詰まらせる。
……コレが、此処に来るはずがない。
アドニスが、今住んで居るこのアパートは極秘情報だ。
殆どのエージェント達は『組織』の本拠地に住まいを持ち、そこで暮らしている。
ただ、あの場が合わない者達がこっそりとアジトから離れ暮らす。
アドニスもこのうちの一人だ。
一人暮らしの許しは取っているし、彼の住所を知るのは僅か、アドニスの上官だけ。だから、この場所はリリスやサエキ、カエルだって誰も知らない。知るはずがない。
アドニスは親元から離れて一人住んで居る。
そういう設定で周りに溶け込んでいる。
近所の総菜屋の女将だって、そう思っているからこそ毎日総菜を分けてくるのだし、勿論彼らはアドニスの正体を知らない、知るはずがない。この場所も彼らは知らない。
誰も、誰も此処は知らないのだ。
知っているのは『組織』の一部だけ。
この場所に住んではいるが、正式じゃない。廃墟同然のアパートを『組織』の名義で利用し、住み込んでいるだけ。
そもそも、戸籍が無いから、郵便物なんてモノは届かない。届くはずがない。
接する相手を常に警戒し、敵か味方か、自身の正体がバレないか、仲間にも誰にも住み家がバレない様に常に気は張って日々を過ごしている。
だから、だから。有り得ない。手紙が来るなんて。
違和感なんてものじゃない。
もっと、早く気が付くべきだった。
このアパートでは、ポストは絶対に開かない。
くしゃり……。音を立てて手紙が潰れた。
そこに記されている言葉は唯の二つ。
酷く達筆な文字で、はっきりと記されている。
「 挑戦状――。
『二の王』オーガニスト 」
――嗚呼、この手紙は在ってはならない。




