43話『この気持ちは、なんと呼べばいいのか』
未だ沈まぬ太陽が、道場をオレンジ色に包む。
窓から差し込むそんな光を壁際で、倒れたままのアドニスはぼんやり夕暮れを見つめていた。
シーアが消えてあれから何時間たったか。
彼女がいなくなったのに、この【空間】では時間の流れが可笑しいまま、外では何時間経ったか全くわからない。
ただきっと、実際は一分も経ってないだろう、ソレだけは理解できる。
アドニスは天井を見つめながら、静かに目を閉じた。
オレンジの光が無くなり、暗闇の世界が広がれば先程のシーアの言葉が鮮明に流れる。
酷く醜く歪み切った美しい表情で、本物の感情と、偽物の憤りを露わにした姿。
容赦もなくアドニスを叩きのめしかれの全てを批判して拒絶して、去って行った彼女の姿。
少年が唯一壊さずに抱いていた《誇り》をも粉々に破壊しきった女の姿。
――「これで《最強》なんて笑わせる」
――「でもそれも嘘だよね。張りぼてだ」
――「どうして私を怖がっているの?」
――「私の事、好き?」
――「私を傷つける事を怖がっているの?」
――「君は《最弱》で《限界が存在する》ただの人間だ」
「――っ」
彼女に言われた言葉が頭の中でぐるぐる、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
歯を強く噛みしめ、腕で目を覆う。
先程の彼女の表情と言う表情が、鮮明に頭に浮かび上がるばかりで一向に消えてくれない。
彼女の口から只管に、アドニスと言う存在を貶めるために紡がれた暴言が響いて酷く頭が、ガンガンとハンマーで殴られた様な痛みが鈍く広がる。
――「《恐怖》という感情も、また《限界》だ」
彼女の口から容赦なく叩きつけられた、その言葉は。
どれだけ違うと否定しても、受け入れ難くても。
どうしようもなく、どうする事も出来ない、正論であるから。
あの女は、いつも正論を振りかざして、自身を切り刻む。
それも正義感や、人を見下すための快楽からじゃない。
心の底から純粋に思い、純粋な事実をそのままに、此方の事を思って叩きつけて来るのだから質が悪い。
「……一週間前の続きだな」
酷く熱い眼元を隠す様子に、アドニスは無理矢理口元に笑みを浮かべる。
一週間前、完膚なきまでに壊された驕りと言う名の自尊心。
【最強の化け物】の前では、アドニスなど弱い存在でしかない事を嫌でも分からされた。
今日、唯一最後の最後まで、心の奥底で残していた純粋な誇り、之もまた否定された。
彼女に対して抱いていた大事な感情を、彼女自身から否定され。
あの化け物から、アドニスと言う存在は何処にでもいる、唯の普通の人間と同じだ、と言う認定を送り付けられた。
「――違う……。なんだ、これは?」
アドニスは、困惑したように残った手も目元に添える。
溢れ出て来る水を必死に拭いながら、自身の中の矛盾に気が付き、声を盛らす。
「なんだ、これは……。気色わりぃ」
止まらない涙を押さえながら、己自身の気持ちに吐き気を感じる。
「なんなんだよ、これ。……なんで、どうして……」
涙が止まらない。鼻を啜り、顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を混じらせながら、幼い子供の様。
右手を顔から離して、左胸をきつく掴み上げる。
――痛い。
心臓を握り閉められたような、中から思い切り捻じられた様な感触だ。
ズキズキ、ズキズキ、感じたことも無い酷くて鈍い痛みが襲い掛かって、アドニスは身体を小さく丸める。
負けた。負けた。今日も彼女に、シーアと言う女に、負けた。
壊された。壊された。今日は大事にしていた、掲げていた物を、彼女に徹底的に壊された。
それは子供が一生懸命作り上げた、図工の作品を叩き壊されたような感覚。
生涯これ以上のモノは見つからないだろうと、大事にしていた宝物を壊された感覚。
――だのに、だと、言うのに。
アドニスは自身の身体を抱きしめて、想う。
彼女を、シーアの姿だけを想い浮かべて、痛む胸を押さえて涙をこぼす。
彼女に、負けた。
大切な物を叩き壊された。
「……なんで、悔しいと、思えない」
身体を抱きしめながら、苦しげに疑問を口にする。
自分の中で渦巻く感情が、理解できずに、勝手に流れる涙は決して止まってはくれない。
シーアに負けた。完膚なきまでに、誇りを叩き壊された。
だと言うのならば、アドニスの心は悔しさで満ち溢れているはずだ。
この涙は、全て悔しさから流すモノでなくてはならない。
あの女に対して怒りが湧き上がらせ、暴言を吐いて彼女を拒絶しなくてはならない。
だが、先程自分が彼女に浮かべた想いはあまりに違っている。
今、流れ止まらない彼の心は、悔しさとは全く違う。
――「気持ち悪いお前なんて、私は大嫌いだ」
彼女のその言葉が木霊する。彼女のその言葉が何よりも胸を抉る。
彼女に、シーアに、アドニスは全てを否定された。
自身が彼女に向ける言葉も、行動も、視線も、心底気持ち悪いと、手を振り払われた。
いつも作り物のあの顔に、心の底から、彼女本来の表情を浮かべて。
シーアは、アドニスと言う全てに拒絶を叩きつけたのだ。
それが何よりも辛くて。
だから、涙が溢れ出る。
只管に、只管に
本当に、心から。
――ただ、悲しくて堪らない。
悔しさが無いと、言えば嘘になるだろう。
負けたのだ、誇りを壊されたのだ、悔しさがない訳が無い。
でも、それ以上、彼女に自分の想いが否定されたことに、拒絶された事に。
どう表現すれば正解なのか、ちっとも分からない《悲しさ》が込み上げ、溢れて。
オレンジ色の道場で、少年の小さな嗚咽はいつまでも響き渡るのである。




