32話『神の御加護を』
ヒュプノス……。
彼女は周りに、そう名乗った。
1週間前の夜。アドニスとシーアの間に師弟という関係が定まった、あの後直ぐ。
2人に駆け寄って、彼女に敵意を露わにする『組織』の人間に彼女は言ったのだ。
『初めまして、皆さま。私はヒュプノス。この子の師となった――“神”だ』
そう、高らかに。優雅に頭を垂れる。張り付いた笑みを浮かべて。
あまりにそぐわない雰囲気を醸し出しながら。
だが、誰も『神』と名乗った女に、戯言だと言い放つ事が出来る物など残っていなかった。
ただ、ボロボロになったアドニスを前にして、恐怖を浮かべるだけ。
恐怖を捧げに彼女は笑う。
『なあに。其処まで怖がることは無い。さっきも言ったけれどね。私はこの子に使えている。――使い魔みたいなものさ』
宙に浮くと、彼女はそのまま空中で足を組み、座る。
その様子は、『組織』の人間を片端から叩きのめしてきた化け物とは、到底見えない。
男も女も関係ない。誰もが、見惚れる程に美しい麗しい女。
ただ、次にそのルビーの唇から出た言葉は、到底理解も出来ないもの。
『じゃ、貢物として。なんか、広い部屋頂戴。じゃなきゃ、みんな頭から食べちゃうから!』
ケロリと笑って。にこやかな口調で。至極当たり前に。とんでもない脅しであった。
だが、ここでも冗談と笑える余力は誰にも残っていない。
浮かべ向けられた笑顔が何より恐ろしくて、その脅しが何より恐ろしくて。
抗うなんて言葉が最後まで誰の頭に。もっと率直に言ってしまうと、マリオの頭には思いつく事すらなかった。
周りの制止を振り切って、マリオが彼女に捧げたのは、今この場。
この『組織』が運営する孤児院の一つ。その運動場であった訳だ。
今では此処は彼女の物。この場所も全てが全て彼女のもの。
空間も時間も、シーアの思うまま。
この運動場には、シーアの赦しがなければ入れず、時間も彼女の自由自在。
簡単に表そう。
この女。指パッチンで、この空間の時間を10倍ばかり変えた。
つまり、2時間が20時間になる。
ここで20時間過ごしても運動場の外では、たった2時間しか時が過ぎていない。2時間過ごせば、12分程度か。
此処では、10倍の速さで時間が流れている。――そう、この女があり方を変えたのだ。
しかも何故か体感感覚だけ、という謎のオマケ付き。
ここでアドニスが20時間過ごせば、体感的には20時間過ごす事になるのだが。
実際「身体」は、2時間しか経っていないと言う事だ。
ここで1年過ごしても、身体は約40日分しか経過しない。
10年過ごせば、1年。100年過ごせば、10年。
現実時間で身体の自然成長が進む。
だが、特訓や鍛錬であれば。また別。
自ら身に付けた成長は反映されると言う。
1年特訓すれば、1年の成果を。10年特訓すれば、10年の成果を。100年特訓すれば、100年の成果を。
その身体に蓄積できるのである。
否。彼女は笑う。
私の力がこんなものだと?
少年が望むなら、もっと都合よく作り変えてやるさ、と。
◇
「鍛錬にはいいだろ?」
けら、けらり。シーアが笑う。
アドニスや、ドウジマからすれば信じられない事だ。
だが、事実。
アドニスは手を見る。
現に彼は今まさに、10倍の速度で“化け物”を師とし成長を続けている。
彼自身にはまだ実感がない。
シーアと言う強敵の前で、身体の変化なんて気が付けない。
だが、それは傍から見れば、嫌という程に分かる変化をアドニスに与えていた。
――否……。傍からなんて、もう確認できない。
ドウジマはアドニスをみる。
「アドニス。お前大丈夫なのか?この女から聞いたぞ。此処では腹は空きにくいが、疲れは溜ると。身体を動かしているのには変わりないから。――20時間動き続ければ、普通に20時間の負担が掛かると」
「――疲れない」
ドウジマの心配を跳ね除けるようにアドニスが言う。
その言葉に声色に、嘘偽りも疲れも一切混ざっていない。
少年が疲れを感じていないのは、本当だと嫌でも理解した。
ドウジマは、また一度シーアを見る。
一度。一度だけ。彼女に、彼女の時間で手合わせを頼んだ。
それは深夜の事だ。アドニスが、その日の鍛錬を終えた後。声を掛けた。
ドウジマだって、鍛えている。だから、どれほどの物か。何処まで彼女に着いて行けるか。
彼女は承諾した。笑いながら。「いいよ」なんて。簡単に。
結果。シーアは手加減をしただろう。
いや、手加減なんてレベルじゃない。アドニスを相手取る時とは更に比べものにならない。
まるで足を全て引きちぎられたアリを相手にするように弄ばれ。
それでなお、4時間で限界を迎えた。
勿論、彼女の時間軸で、だ。
体験すると、親子ほどにも年齢の差がある、この子供に恐怖を抱いてしまう。
そして、その子供を虫けらのごとくあしらう女も。
「――……陛下がお前に『任務』を頼んだのが良く分かったよ」
「は?」
「……」
ドウジマの様子にアドニスは首を傾げた。
いや、なんと言うかだ。つい数刻前の事を思う。
シーアの時間軸で5時間ほど前の事になるのだが。
「……それ、サエキの奴にも言われたぞ」
「そう、か」
ここにサエキがやって来たのだ。
いや、実はサエキも毎日やって来るのだが。
彼もまたドウジマと同じように、この鍛錬を見つめ。見るだけ見て帰っていく。
来る度、見る度、険しい顔を顔に張り付けながら。
そして今日は溜息。
最後は、ドウジマと同じ言葉を零して帰っていった。
あの負けず嫌いで。大人気なくアドニスに突っかかってくるサエキが、だ。
険しい顔のまま、ポツリと。
『お前に下された『依頼』も、お前が選ばれた理由も分かった。―― 気を付けろよ』
だ、なんて。
鳥肌が立ったぐらいだ。
「それは、だな……」
ドウジマは目に見えて焦りを見せる。
頭を掻いて、溜息。仕方が無さそうに口を開いた。
「あのな、お前はキツ――」
「お客だぞ?入れるからね」
そのドウジマを遮る様に、シーアが顔を上げた。
二人が釣られて視線を上げれば、運動場の扉が開くのが分かる。
子供様なのに、音が響くほどの重たい扉を引っ張り、中に入ってきたのは少女が一人。
手に籠を持った、リリスだった。
◇
「あ、あれ!?上官代理!な、なな、なんでここに!?」
リリスはドウジマを目に入れた瞬間に、見て分るほどに驚き慌てふためいた。
彼女が来た理由に察しがついたドウジマは小さく笑み。口を閉ざす。
シーアの赤い瞳は細くなり。
アドニスは、また邪魔者が来たと眉を顰めた。
何てことない。
この女も。ここ毎日のようにやって来る。差し入れと言って、弁当を持って。
自然と、彼女が持つ籠に視線が向かう。
真っ赤になって慌てふためくリリスに、アドニスは小さく舌打ち。
これで、ドウジマとのおしゃべりもおしまいだ。
「おい、女。ヒュプノス、続きだ!」
「え?あ、あのアドニス。私、今日もお弁当を――」」
言葉を言いかけるリリスから目を逸らすと、立ち上がって。シーアを睨み見る。
「……」
だが、シーアは無言。
「な、なんだ」
「……べつに?まだ30分も経っていないよ?それに、正直お昼休憩はしっかりとった方がいいと私も思う」
ニタリと笑って、言う。
そんな時間が惜しい、そう言っているのに。
アドニスが言葉を口にするよりも前に、シーアはふわりと空を飛ぶ。
彼女が向かうのはリリスの前。
びくりと肩を震わす彼女を前にして。
「そなたも熱心じゃなあ」
なんて、また性格を変えながら。
ケラケラ笑いながら、シーアは籠を開ける。
中から取り出したのはサンドイッチ。
何の躊躇もなく、シーアはソレを一口頬張るのである。
「ほれ、少年。美味しいぞ?誓ってもいい、なんにも入っていない」
にたり、シーアがアドニスに向かって笑う。
「あ、当たり前じゃない!普通のお弁当よ!」
一番に我に返ったリリスが叫ぶが、シーアは気にせずふわふわり。
サンドイッチを片手に宙へと浮かび上がるのだ。
「せっかくのもらい物だ。女の子が君の為に作ったお弁当だぞ?食べるがいいさ」
そう、またニタリと笑って。
アドニスはシーアの様子に、更に眉を顰めた。
あの調子だと、弁当を食べ終えるまで、鍛錬は中止になるだろう。
いや、いつもあんな感じなのだ。
「お前、なんでリリスが来たら休憩に入る!」
「休憩の目安」
悪びれも無くシーアがアドニスの問いに答える。
それは「何方」の休憩だろうか。いいや、言わなくても分かる。
アドニスの休憩だ。あの女は自分に休憩が必要と判断しているのだ。
どれだけ彼自身が「要らない」と言っても。シーアは梃子でも動かない。
アドニスはシーアと違って休憩が必要な存在だと。
まるで、弱い存在だと言う様に。休めと軽視する。
それに、それに何だろうか。この腹立たしい気持ちは。
何故この女の休憩の目安は、決まってリリスなのだ。ドウジマでも良いだろう。
態々無事だと言う様に、此方に見せつけるように毒見までして。
何故休憩の後押しをする。
シーアとの鍛錬の邪魔をする女の味方に付く。
「なんだ、少年。大きくなれんぞ?食べるまで、きゅうけーい!」
そんなアドニスを見下ろし、シーアはニタニタリ。
サンドイッチを頬張って自由気ままに空を飛ぶ。
アドニスはもう一度、今度は大きく舌打ち。
「食う!寄こせ!」
「あ、う、うん」
この自分でも理解できない苛立ちのまま、リリスから弁当を奪い取ると、その場に座り込み。
シーアを睨み上げたまま、サンドイッチを口に放り込むのだ。




