30話『あれから一週間がたって』
倒れた先で、アドニスはゆらり、揺らめいた。
身体が痛い、体中が痛い。壁に叩きつけられたのだ。当たり前だ。
それでも手を付いて、力いっぱい痛みに耐えながら、身体を持ち上げる。
ぎりりと、歯を噛みしめる音。眼には殺気を籠めて送るのはシーア。
「ころす……」
「ん?」
「――殺す気か!!」
若干痛みで震える声で叫んだ。絶叫にも近かった。
その言葉に、シーアは笑う。
「殺す気なんてとんでもない!殺すつもりだったら、頭が吹き飛んでいたさ」
心底小馬鹿にするように。しかし冗談には聞こえない言葉をサラリ。
お腹を抱えて笑う彼女を前にして、アドニスの表情は更に険しい物へと変貌していった。
何が腹立たしいかって、この女。彼女の言葉は事実だからである。
確かに先程、自分は完全に手加減されていた。もう、本当に腹が立つほどに。
アドニスは立ち上がる。痛みなどもう消えた。
「もう一回だ!」
「えー。まだやるの?まぁいいけどさぁ。今度はもうちょっと、本気出してもいいよ?」
ふわ、ふわり。シーアが宙に浮く。戯言を勿論当たり前に自然と少年に投げつけながら。
瞬間である。アドニスが壁際から消えたのは。
シーアの前に現れたアドニス。今度は回し蹴り。
彼女はいとも簡単に。その攻撃も、ふわりと身体を動かし避けてしまうのだが。
こうして、また攻防が始まった。攻防と言うのは若干謎だけど。
◇
これは、シーアと言う存在を師にして始まった鍛錬である。
一週間前のあの日、シーアはアドニスの『師』―― と言うモノになった。
師になったからには何が必要か。簡単だ、弟子を鍛えるのである。
数秒の思考の結果。産まれたのが、今日この日の出来事であり。
ここ数日ずっと、彼の怪我が治ってから毎日繰り広げられている。日々の出来事だ。
ちなみに、此処は『組織』が運営する。孤児院の運動場。
鍛錬と言う名の遊びを子供たちが強要されるこの場で。2人の「修行」は毎日数十時間、殆ど休みなしで行われている。
「おい。待て、アドニス!」
「!」
アドニスの「攻」が再びかわされた時。2人を止める声が上がった。
動きが止まり、視線だけを声がした方へと向ける。
目に映ったのは、運動場の入口。
そこにポツンと立つのは、ドウジマだ。
ドウジマの姿を確認した瞬間。アドニスの身体に身体に重みと温もりが感じる。
それが彼女の体温と言うのは、もう慣れた。
「……残念だったね、少年。休憩だ。行っておいで?」
耳元で囁き声が聞こえる。
何が「行っておいで」だ。離れる気は無いくせに。
などと、心で悪態をつくと構えていた手を下ろし。
渋々と、ドウジマの元へと足を進めた。
◇
「――なんだ」
女を背に纏わせながら、何事もない様にドウジマに声を掛ける。
その声には酷く落ち着いていて、一週間前までの焦り等は微塵もない。
ドウジマは小さく頭を掻く。
「お前さ、後ろに引っ付いてるが……。なんで、そんなに普通でいられるわけ?」
思わず、だったのだろうか。ドウジマが声を漏らす。
アドニスは息を付いた。
「慣れた。もう、どうだって良い」
「あ、っそ」
発した一言には、やはり微塵も動じる様な色はない。
だが、本気で慣れてしまったのだから。仕方が無い。
背に当たる感触も、わざと押し付けて来る行為も。広がる温もりも。どうしようもないと諦めたら気が楽になったのだ。本当に慣れただけだ。でも本当は何時も苛立っている。
――それは、さて置き。アドニスはドウジマを見る。
「で、何の用だ。俺は忙しい」
「一方的に弄ばれることが、か?」
小さな嫌味。僅かに眉を顰めたが、アドニスは目を閉じた。
「……依頼か何か?悪いが、俺は免除されている。仕事なら他に回せ」
あしらう様に、事実を。
『ゲーム』まで一ヶ月を切った。
つい先日。まだアドニスの折れた骨が完治していない時。
正式に皇帝から、アドニスには仕事依頼はストップすると言う通達が送られてきた。
「馬鹿げた依頼などに気を取られるぐらいなら、好きに動かせていた方が良い」との事だ。
実に丁度良いお達し。
だからここ一週間。アドニスは、籠りっぱなし。
皇帝の望みとは、大きくかけ離れているだろうが。
訓練と言う名目で。このシーアと言う女に一太刀浴びせたくて、その一心で|朝から晩まで此処にいる《現を抜かす》。
件の件に関しては、ドウジマは知っているはずだが……?
なにせ、今彼はこの『組織』の上官代理なのだから。なに、何故かって?シーアの一件でマリオが出勤拒否したから。結果、マリオの仕事がドウジマにまわって来た、それだけだ。
そんなドウジマは、頭を掻きながら溜息。声を荒げた。
「お前の事は、把握してるよ。だがな、20時間だぞ、20時間!少しは休め!」
この言葉にアドニスは口を閉ざす。
嗚呼、そんなぐらい経っていたのか。
気が付かなかった。
運動場の時計を見るが、時間は10時ぴったりに止まって動かない。
訓練を始めたのが丁度8時からだったから、確かに20時間か……。だが。
「必要ない。疲れてもいない」
アドニスは踵を返す。
「おい、女。もう一回だ」
「ええ?まだやるのかい?」
「当たり前だ。昼まではやる」
再び彼女を引き連れたまま、運動場の真ん中へ。大きな手が伸びて来たのは刹那。
シーアの首根っこを掴むと、アドニスから引きはがしたのである。
しかも、ふわりと。嘘のようにシーアはアドニスから離れていくのだから。
アドニスは歯を噛みしめながらも、立ち止まるしかない。
不服そうな視線が後ろに送られる。ドウジマにじゃない。シーアと言う存在にだ。
まるで猫の様に首根っこを引っ掴まれたまま、フワフワ。ニタニタ。
その隣で、ドウジマが鬼のような表情。
「や・す・め!!」
怒号にも似た、その声に。アドニスは舌打ちを繰り出した。




