29話『それは間違いだったのだ』
『……』
赤い満月の夜。
私は、この世界にやって来た。
目的の遂行の為に、ここに送り込まれてきた。
だと言うのに、何だろうコレは。
赤い瞳の奥に黒い少年が映る。
怯え、呆け、私に見とれている黒い瞳に顔。
この子は、私が殺しかけた子供だ。
巻き込んでしまった子供だ。
やってしまったと。我ながらに呆れた。
目が覚めたら、てっきりちゃんと用意されていると思って。
よく確認することも無く、この子供に手を上げてしまった。
彼の首元を見る。生々しい青痣。実に痛々しい。私が付けた痕。
一歩間違えれば、子供を殺すところまで到達していただろう。
この子供は、違う。
見間違えるはずが無い程、別人だというのに。
『――じゃあね』
だからこそ私は彼に背を向ける。
この子を見るのが何より腹立たしくて、苛立って彼から目を逸らす。
後ろから、私を掴もうと、少年が手を伸ばしてきたのは知っていた。
それを見て見ぬふりをして、殺しかけた子供を置き去りに、その場を去る。
私は、私が望む者を探す。
この世で私が唯一、憎しまなければいけない存在を。
探して、探し回って。でも、見つからない。
――いいや、居ないことぐらいわかっている。
いま、この世の何所にも私の望む存在は。
今後どうやったって、この世界には私の望む存在は生まれ落ちないのだ。
この怒りを、私は何処にぶつければいい?
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。
ただ、感情を露わにする。目の前の物を片端から破壊する。
帰ろうと、必死に努力する。
でも、何をやっても私は、この世界から出られなかった。
私は、この先何に縋ればいい。何を求めればいい。どうやって帰ればいい。
なんで、どうして。
―― 一つの考えが私の頭に浮かぶ。
口元に笑みが浮かぶのが分かった。
――私は、目の前の少年を見つめる。
到底男には好かれない性格を身に着けて、彼の前に立つ。
相変わらず、気に食わない顔の少年だ。
その子供に私は縋りつく。
『ねえ、私を飼ってみないかい?』
我ながら、吐き気がするほど。気持ち悪いと思う。
殺しかけた存在に甘ったるい声で誘惑するなんて。
それでも身体を使って、まだ幼いこの子供を籠絡してでも。
私は、この子供の側に居ようと決めたのだ。
口付けだってする。
何なら誰も触れたことのない、この身体だってくれてやる。
気持ち悪いのはお互い様だ。拒否を受けたって。私は子供の側から離れる気は無い。
『――いいよ』
だから。
その答えを聞いた時。
迷いなんて微塵もなく、私を受け入れた少年の姿を見て。
思った訳。
―― 子供ながら「人」とは相変わらず、私より気色が悪い。
心底気持ち悪くて。
私は笑みを張り付けるのが精一杯だった。
◆
アドニスは、駆ける。
目に映るのは、静かに佇むシーアの姿。
赤いワンピースを着こなし。
つまらなさそうに自身の手を見据えながら、地に足を付けて、微笑み佇む女の姿。
彼女の周りを、様子を窺いながら、駆け回る。
僅かで良い、隙は無いか。探りながら。
「!」
一瞬、目を細めた。
地を蹴る。向かうは女の元。
その背後に一瞬にして駆け寄り。身体を捻らせ、思い切り拳を振り上げる。
シーアはチラリとも此方を見ていない。頭は狙わない。その細い身体を狙って、振り下ろす――。
「――くそ!」
拳は宙を切る。
己の手を見据えたまま、振り返ることも無くシーアは難なく身体を左に寄せ、後ろからの一撃を避けていた。
アドニスは体制を変える。足を付け、体制を変えるように再び、僅かに身体を捻らすと今度は反対の拳。
――コレも無駄だ。シーアは難なくステップを踏み後ろへと。
「っ!」
それでもまだ、追う。左足を軸に、右足を彼女の腰めがけ回し上げる。
それも避けられると、勢いで回転した身体を変え。彼女を追い、また一度左拳。
駄目だ。シーアは軽く避けてしまう。
空を舞う花びらの様に、ひらひら、ひらひら。
攻撃の軌道を読んで、紙一重に見せかけて、蝶々の様に舞う。
「この……!!」
その美しさ。心底腹が立つ。
彼の手が彼女の肩に伸びる。
「おっと」
「――!!」
か細く、折れてしまいそうな肩を掴み上げる瞬間。
シーアは僅かに右手を上げた。
それは本当に僅かな動きだ。
肩に掛かった髪を払うような、ささやかな行動。
だがアドニスは、その僅かな動きだけで大きく反応を示す。
肩に伸ばした手は動きを止め。そればかりか速やかに腕を前に動かし構える。
己の身を守る為に。来るかもしれない彼女の一撃を耐えるために。
冷や汗が、頬を伝った。
「……まあ、じゃあ。ご期待に供えてあげようか!」
にたり、赤い瞳がアドニスを映す。
彼女の身体の足が流れるように、動く。
この間と同じ。その姿は正に愛らしいウサギの様。
ぴょんっと撥ねて、軽やかに、しなやかに。
アドニスの守に転じた腕へと、容赦大いにありありで振り回すのである。
「――い!」
腕にシーアの足が当たった。
避けるとか、かわすとか、避けるとか、頭の片隅にあったけど身体は動かない。
受け止めるなんて論外。
その少年にしてはガタイの良い身体は。まるで針を突き刺した風船の様に飛んでいく。
――凄まじい衝撃が一つ。
アドニスの身体は、壁に叩きつけられて。しかし、壁に穴を開ける程の威力じゃ、無い。
ずるりと音を立てるように、彼の身体は木製の床へと滑り落ちていった。
ああ、今日も敗北だ。