23話『ソレは遊び』4
「――……っ!!!」
刹那、すさまじい殺気が彼女に送られた。
アドニスは眉を吊り上げ、鋭い眼に憤慨をこめ。
感情のままに右拳を振り上げる。
狙うは勿論、彼女のその腹立たしい顔
シーアの身体がふわりと宙に舞う。
アドニスの左肩に捕まったまま、流れるように斜め上に。
拳は宙を切った。
構わない。
拳を作っていた手で彼女の腕を掴み上げ、その身体を容赦もなく投げ飛ばす。
シーアの身体は驚くほどに軽く。小さな身体は軽々と飛び行き、しかし壁に当たると言う直前。まるで、その場にクッションでも有るかの様に、ふわりと空中で止まった。
「――?」
「――っ!!」
黒の陰が駆ける。
赤い瞳に映るのは、足を高く振り上げる少年の姿。
険しい顔のまま赤い瞳を睨み下ろし、一気に足を振り下ろす。
シーアの身体は、また、くるふわり。
標的を失った足はそのまま壁へと衝突。凄まじい音と共に穴が開く。
まだだ。
黒曜石の眼にはまだ殺気が籠っている。
間髪入れず。体制を変え、身体を捻らす。
今度は彼女の細い脇腹に狙いを定め、長い足を容赦なく。斬撃にも成り得る一蹴。
だが、それも避けられた。
まるで縄跳びでもするかのように。シーアは迫りくる足に手を付けたと思ったら、華麗に跳ね跳び。そのままの勢いで後ろへと、距離を取る。
それでも少年は止まらない。
穴が開く程に地を蹴り、直ぐに彼女に飛び掛かって行った。
「おっと!」
今度は拳。その細い喉元に向けて。掴み上げて、へし折ってやろうと。
コレも、触れる事すら出来なかった。
シーアはあっさりと、今度は溝でも飛び越える感覚で左へ。
ならばと、空いた左手で今度は彼女の腹を抉り狙って拳を振り上げる。
彼女はステップを踏むように数歩後ろに下がり、掠りもしない。
そればかりか、標的に触れる事も出来ずに振り上げたままの、アドニスの左手を支えにして、クルリと宙で一回転するとアドニスの後ろへ。
その様子は、正に少年を小馬鹿にしている様だ。
アドニスは左足を軸に身体を回転させる。今度は右脚。後ろの彼女を狙う。
シーアは見越したように頭を下げ。髪の毛一本、掠りもしなかった。
「なんだい、なんだい少年!」
シーアがケラケラ笑いながら、漸く口を開いた。
その間もアドニスの殺気が籠った攻撃は続いていく。
殴って、蹴って、拳を振り下ろし。身体を捻らせ、また蹴って。
全てにおいて容赦なく攻撃を仕掛けていく。
アドニスは何も言わなかった。
ただ、目に怒りが籠って。我を忘れているかのように、淡々と彼女を殺す一撃を与え続ける。
傍から見れば、その様子は異常、恐ろしいの一言。
目で追うのがやっとの速さで、人間など簡単に殺してしまう一撃を、アドニスは容赦なく振るい落とす。
否、目で追う事さえ出来ない者の方が多かった筈だ。
現に、何とか目視出来ているのは、ドウジマとサエキ。
そしてこの騒ぎの中で目を覚まし、今現在身を隠すアーサーだけであっただろう。
アーサーに至っては、気付けば其処は恐ろしい戦地だったと言う他なく。
目を覚ました彼は、瞬時にデスク机の後ろに身を隠すのが精一杯だった。
マリオに至っては訳も分からず。頭を丸めて震えているぐらいしか出来やしない。
その巻き込まれた二人なぞ、お構いなし。
黒い二つの陰は「凄まじい」……の一言でしか表せられない攻防を繰り広げ続けるのだ。
「――……っ!」
どれほど経ったか。アドニスは漸くシーアから距離を取る。
アドニスから2メートルばかり離れて地面に降り立つシーア。
肩で息をしながら、アドニスはそんな彼女を睨みつけた。
「お前、人を何処まで馬鹿にする気だ!」
声を、振り上げる。その顔は怒りで染め上がっている。
「なにが?」
にたり、笑いながら白々しく彼女は首を傾げる。
ワザとだと気が付きながらも、アドニスは声を振り絞った。
「ついさっきの事だ!……いいや。昨日から続く、お前の俺に対する嫌がらせの事だ!」
シーアはニタリ。笑いながら目を細めた。
「えー。なんだいそれ?身に覚え無いなぁ?」
軽口を零して、彼女はまた宙に浮く。
その様子はアドニスを逆なでするには十二分だ。
拳をきつく握りしめ、周りなど見えていない様子で、再びシーアに飛び掛かっていく。
拳が彼女の中心を狙う。軽く避けられる。
「やめろと言っても、抱き着いて胸を押し付けてくる!セクハラ女!」
「――ふふ、あはは!別に良いじゃないかぁ。それぐらい」
「良くない!人前だろうが構わず抱き付きやがって!変態野郎!どっちの心象が悪くなると思っている!」
けたけた笑う彼女の顔面に、頭蓋を割る勢いで続けざまに拳をふるう。避けられる。
「それに、出鱈目な事を言いやがって!」
「ええ?出鱈目ぇ?私は本当の事しか言ってないけどな?」
「攻めたとか激しかったとが、下着の件とかワザとだろ!まるで俺に襲われたみたいな言い方だ!」
ニタニタ笑う彼女に足を振り回す。またジャンプして交わされる。
「人の事をご主人だとか勝手に呼びながら、命令は一切聞く気が無い!」
「聞いてほしかったのかい?私をいいように使いたかったの??いいよ、好きに命令して♪」
「そういう所だ!絶対嫌がらせだろう!」
きゃーと声を漏らす彼女を、掴み上げて投げ飛ばす。浮いている彼女には効果が無い。
「そもそも、俺はお前に殺されかけたんだ!5日前の事だ!」
「それはねぇ。悪いと思っているよ?だから、治しただろ。く・び」
「はあ!?」
「あれ、気が付いてない?首の痣。今朝消えていただろ?私が治したんだよ♪」
―― 漸くアドニスが止まる。
首元を押さえ。ああ、そうだと、気が付く。
5日前からずっと消えずに残っていた、あの痣の後。
シーアに付けられた生々しい青痣が今朝気が付いたら消えていた。
その前日までは、くっきりと残っていたのに。異変は感じていたが。彼女の仕業だったと?
「ほら!」
シーアが声を上げる。
は、と気が付けば、先ほどまで距離があったはずの彼女が目の前に居る。
にたにた、笑いながら指を差す。
「お礼はどうしたの?少年!」
「――……っ!!!」
アドニスは彼女の肩に掴みかかろうと手を伸ばした。
その手は、宙を掴むことになるのだが。
シーアの身体はふわりと浮いて、アドニスから離れた場所に降り立つ。
変わらないニタ付いた笑み。
アドニスは肩で息をしているのに、彼女は微塵の疲れも見せていない。
余裕を見せ、剰えこちらを小馬鹿にする笑顔を永遠と向けている。
その様子に、アドニスは息を整える暇も無かった。
今日を含め、たった二日の間に彼女が自身にしでかした、全ての行動に憤怒し、我を忘れて殺しにかかる。
爆発した原因は言わずもがな、先程の彼女の行動だ。
まるで、アドニスを貶めるような。
自分がシーアと言う女を弄び、ペットの様に側に置いている、と思わせる。誤解しか招かない表現を露わにしたこの女。もう我慢の限界だ。
ころす。殺す。絶対に殺す。
アドニスの中で、その言葉だけが渦巻く。
――……そもそもと、彼は思い出した。
そもそも、この女は何故此処に居るのか。
アドニスを追って来たと言う女。ああ、でもそれは――……。
「そもそも約定違反だろう!!」
今までで一番の声を荒げた。
それは、彼女が昨晩決めた時に定めた条約。
『詮索せず、深入りせず、邪魔をしない』
絶対に破るなと命じた筈の盟約。
それなのにどうだ。
思えばこの女。昨晩から早々に、今日も、全て。
破っているではないか――!!
何故今までソレを見て見ぬふりをしていたか。
いや、今朝は一回思い出したはずだ。
そうだ、その件について苦言を零そうとしたのに、この女ときたら――。
「――……く……ははは」
彼女の笑い声が響く。
お腹を抱え得て、ケラケラ笑う。
心底楽しそうな声で、小馬鹿にした笑い声で。
涙を溜めた赤い瞳が。何処までも興味が無い瞳が、アドニスを映し細くなった。
「いや、それ私。端から守る気ないからね!」
小さく首を傾げて、彼女は笑う。
何時ものように。
「純粋。気が付こうよ。――……少年」
ニタリ――と。
◇
頭が真っ白になるのが分かる。
血が出るんじゃないかと思うほどに、唇を噛みしめて。
―― 刹那、アドニスの姿は消えた。彼女に向かって跳び掛かった。
時間なんて一秒も要らない。次に現れたのはシーアの目の前。
鋭い瞳孔に美しい女の姿を映して。
その頭を叩き潰す。ただそれだけを決めて。
大きく振り上げた拳を、振り下ろすのだ――
「ね、少年」
そんなアドニスの前で、彼女はやっぱり笑った。
「今この瞬間に、君が負けたら。洋服も買ってよね♪」
また、戯言を一つ。
黒い彼女は、まるでウサギが飛び跳ねるかのように愛らしく。
バレエでも踊る程に美しく、身体を優雅にくるりと舞わせて。
その長い足は容赦なく、アドニスを蹴飛ばした――




