20話『ソレは遊び』1
本当に僅かな間だった。
アドニスは一度後ろに飛び下がると。
側にいたマリオの首根っこを掴んで、更に床を蹴りあげる。
「なに」なんて間抜けな声が聞こえたが無視。
邪魔だと投げ飛ばし、彼が部屋の隅に転がって行った時。
アドニスの身体が片膝を付き、壁際ぎりぎりに下がった時。
――その爆音にも近い音は轟いた。
つい先ほどまで手を掛けていた扉が壁ごと、吹っ飛び壊れる。
何か大きな物がぶつかる音。
木造の何かが壊れる音。
衝撃だけで周りのガラス全て粉々に砕け散り。
あれほど綺麗だった執務室は、唯のその瞬間に廃墟の様に荒れ果てた。
何かが飛んで来た。
事実を理解するには、時間が掛かった。
アドニスは視線だけを後ろに向ける。
部屋を壊した正体を目に映し愕然。息を詰まらせるしか無い。
ローテーブルを壊し、そのまま奥の机に叩きつけられた物体。
手に拳銃を握りしめたまま、デスクに寄り掛かりぐったりと気を失った。
――……それは人だ。
暗殺者の一人、アーサー。
たった今、アーサーが扉を壊し。中に叩き込まれたのだ。
それも、完全に気を失う程の威力で。受け身をとる暇など与えられずに。
喧嘩か?無い。
アーサーは皇帝に忠誠を使っている。エージェント同士の殺し合いはご法度。皇帝が定めた約定を、この男は絶対に破らない。
そもそも、アーサーはエージェントの中でも手練れ。
こうも簡単に彼を伸す事が出来る人物なんて、この屋敷内に居るはずがない。
外部からの襲撃?違う。
有り得ない。
だってここまで行くと、その襲撃者は化け物だ。
「おや、弱いですね。これぐらいで気を失うなんて」
壊れた扉の先で、そのせせらぎの様な美し声色が響いた。。
ああ、そうだ。アドニスは理解する。
居たじゃないか、一人。簡単に熟してしまう化け物。
ただ、アドニスは違和感に首を傾げるしかない。
違和感は拭う事が出来ないまま。
カツン……と音を立て、その化け物は部屋の中に入ってくる。
男物のシャツを見事に着こなし、艶やかな黒い髪をかき上げながら。
ルビーの唇に笑みを讃えた、美しい血のような瞳の女。
「とても弱いです。話にならない……」
シーアと言う存在が、ただ美しく佇んでいた。
◇
部屋に入ったシーアは、美しい笑みを湛えて部屋の中を進んでいく。
ボロボロになったローテーブルを踏み潰し、向かった先は奥。
ぐったりと倒れ込むアーサーの前だ。
彼の前で彼女は立ち止まり、何かを確認するようにアーサーの顔を覗き込んだ。
確認するまでも無い。彼は完全に気を失っている。
そんなアーサーを、興味が無いと言わんばかりに瞳に映し撮ると、シーアは溜息。
クルリと踵を返した。
赤い瞳は廊下の奥を映している。
アドニスは釣られるように視線を廊下に移す。
目に映ったのは、一人の男だ。
年のころは40代後半。白髪が所々に混ざり始めた灰色の髪に、緋色の眼。
無精髭を生やした、左手に拳銃を握りしめた男。
暗殺者の一人、ドウジマ。
その彼が、いつの間にか扉の側に立っていた。
「――おい、お嬢ちゃん気は済んだか?」
ドウジマが声を振り上げる。冗談交じりにも聞こえるが。
しかし、その表情や声には一切余裕がない。
そもそも彼も傷だらけだ。片方の腕は螺子曲がり、口元には血。同じように頭からも血は止めどなく滴り落ちる。その姿は、よく此処まで来られたモノだと感心するほど。
そんなドウジマを赤い瞳は無表情で見つめている。
いや、表情が変わった。
彼女の口元には、笑み。まるで子供の様な、無邪気な笑みを浮かべたのだ。
「――……いい加減にするのは、おじさんの方だよ!」
無邪気な声が響く。
それがシーアの口から発されたものと理解するには時間が掛かった。
アドニスに気が付いていないのか。シーアはそれこそ本当に、幼い子供の様に飛び跳ねる。
「あのね、僕言ってるでしょ!おじさんたちは僕には勝てないって?良いから早く少年の所に案内してよ!」
玩具で遊ぶように、楽しそうに飛び跳ねながらドウジマに長い指を向ける。
その様子に彼は顔を顰め、それでも僅かに笑みを浮かべた。
「あのね、お嬢ちゃん。いきなり押し入ってきて……。いや、突然姿を現して、それが聞き入れられると思っている訳?」
「知らないよ!僕はちゃんと、声を掛けたもん!」
だが、反対にシーアは興味が無い様で頬を膨らます。
刹那ドウジマの表情が険しい物となった。
「声を掛けた?」
「かけたよ!こんにちはーって」
「お嬢ちゃんからすれば、初めて会った奴の顔をぶん殴ることが、挨拶だとでもいうのか――!」
アドニスは状況を察した。否が応でも察するしか無かった。
簡単だ。この女『組織』の此の本部に乗りこんできたのだ。
『組織』にいたエージェントは反応してだろう。侵入者だと跳び掛かったに違いない。それを、彼女は片端から再起不能にしてきた、それだけ。アーサーが良い例だ。そしてドウジマもその中の一人。
今この場に一人しか来てないのを見るに、被害は相当のモノじゃないかとすら思える。
ドウジマが怒りを露にするのも良く分かる。
いや、彼でなくても普通は憤怒するはずだ。シーアに対する警戒心は最高潮に達しているだろう。
現に彼はアドニスに全く気が付いていないようで、此方をチラリとも見ない。
周りを気にする暇が無い程に、彼の怒りは頂点までに達し。目の前の化け物を殺す事だけに集中している。
それでも、そんな殺気を向けられて尚。
視線の先の御本人は、興味一ミリも浮かべていないのだが。
そして言い切る。
「どうでも良いじゃん!むしろ僕、被害者だよね!声を掛けただけで、皆して虐めて来るんだからさ!」
心底、本当にどうでも良いと言う様に。
彼女は気持ち悪いと思うまでに、子供らしくそっぽを向くのである。
そこでようやくだった。
彼女の赤い瞳が、アドニスを映したのは。
――いや、最初から気が付いていたはずだ。
部屋に入ってきた時。僅かに一瞬でも、この女は此方を見たのだから。
「ふざけるな!!化け物が――……!!!」
ドウジマの限界が訪れるのも同時。
その一言の端々に怒りの色を乗せて、ドウジマは引き金を引く。一切の容赦はない。
聞こえた銃声は5発。最初に2発。少し遅れて3発。
あの銃に装填できる全ての弾だ。
それをすべて撃った。迷いも無く、彼女へ。その頭と心臓を狙って。
銃口から飛び出した銀色の銃弾は、真っすぐとシーアの頭を狙い跳び掛ける。
狙いは外れていない。
そればかりか、アドニスには見えていた。
ドウジマが標的が避けると見越して、最後の三発は僅かに外した方向に銃弾を放っていることに。
目の前の少女が、どうかわし、どう動くか予測し。
急所に当たらなくても、その身体の何処かに必ず当たる事を計算して。
シーアは視線を前に戻すと。
飛んでくる銃弾を目に映し、その瞳を細めた。
ニタリと笑う。
その場からピクリとも動かずに。
彼女の隣を、予想を外した3発の銃弾は掠りもせず後ろに飛ぶ。
一発、二発と、三発、弾は壁に当たっていく。
弾が壁にめり込んだ音が聞こえた瞬間だ。
アドニスの頬に微かな痛みが広がり、後ろの壁に穴を開けたのは。
頬から流れる赤い血。気が付きながらも、アドニスは愕然とするしかない。
それはドウジマも同じだ。
目を見開き。今の光景を、愕然と、呆然と見つめるしかない。
撃たれた一発。
それが、アドニスの頬を掠めたなんて――
目の前で女が笑っていた。変わらず、口元を吊り上げて「ニタリ」と。
顔まで上げていた手を下ろして、赤い瞳が糸のように細くなる。
理解したくない。でも、アドニスの頭は理解しかない。
――……彼女はたった今、2発の銃弾を撥ね飛ばしたのだ、と。
あの細くて小さい手、1つで。
小さく横に手を振っただけで。
まるで羽虫を追い払うかのように。
振り払われた銃弾は当たり前に、別の方向へと飛んでいく。
速度を変えずに、方向だけをかえて。
それが、先程の一発。アドニスの頬を掠めた銃弾の正体。
違う。2発、じゃない
シーアは下げる手を胸元で止めた。きつく握りしめられた拳を。
彼女はまるでドウジマに見せつけるように、ゆっくりと開いた。
掌には銀色の銃弾。
ドウジマが放った銃弾……。
2発目の銃弾が其処に在った。
つまりだ。
この女は、1発目の弾丸を羽虫のように撥ね飛ばし。
後から来た、もう2発目をつかみ取ったのだ。
目の前に浮く、シャボン玉を子供がつかみ取る感覚で。当たり前に。
「くそ………!」
その事実にドウジマが気が付くが、遅い。
シーアは掌の銃弾を、親指で軽く弾く。
きっと掌のゴミを弾いたぐらいに違いない。
だが、それだけで十二分。
小さい銀色の塊は、一瞬にして彼女の上から消えた。
「ぐ、あ」
小さな男のうめき声。
アドニスの眼に、ドウジマの身体が後ろに倒れ込む形で宙に浮くのが見えた。
左肩に小さな穴をあけて、手にしていた銃は勿論地に落ち。
彼の身体は、廊下の壁まで叩きつけられるのだ――。
◇
「……がはっ!」
叩きつけられた先で男は揺らめく。
口から血を吐き出し、その場に倒れ込む
ドウジマは辛うじて意識はあるが、身体は動かせない。
身体が飛ぶ程の威力を持つ弾丸を食らったのだ。動けるはずがない。
これでアーサーに続き、ドウジマも戦闘不能。勝者は一人。
瓦礫の山とも表せる部屋になった中心で。
美しい女だけが静かに佇む。
――こんなもの、どんな表情で見れば良いと言うのだ。
アドニスは、ただ最後まで愕然と彼女を見つめるしか出来ない。
「ひ……いっ!」
部屋の隅で。マリオの恐怖に染まった叫びが聞こえる。
だが、その声には興味も無い様で、彼女が男に振り返る事は無く、もう一度笑む……「ニタリ」と。
そして、壁際にいたアドニスへと何事も無かったように顔を向けたのだ。
「さて、少年。置いて行くなんて酷いぞ!」
先程と大きく変わって。
腹立たしいほどに掴み処の無い口調と共に。