19話『マリオ』
――アドニスは静かに部屋を後にした。
誰も居なくなった、豪奢な扉を静かに閉め、溜息。
彼がうんざりするのも、仕方が無い。
あれから、男妾たちは機嫌が良いまま、アドニスを残して後にしたが。あれほど扱い辛い存在はいないだろう。いや、あの二人に限らず、皇帝の妾は男女問わず面倒くさい存在が多いのだが。
出来るなら、もう話はしたくないと。思いながら、その場を後にする
幅3メートルはある。無駄に広い、白い壁の廊下をアドニスは歩く。
このまま帰りたいところだが、この後は上司に連絡だ。
あのメッセンジャー達との対話の直ぐ後に、あの上司と……。考えただけでもうんざりとするが。
それでも、仕事だと言い聞かせ。
廊下を右に曲がり、その先。無駄に大きな扉が上司の執務室。その扉の前へと立つ。
――扉を叩く。
完全防音なのに、無駄に戸を叩く。
上司の命だから仕方が無い。連絡は入れてある。ノブに手を伸ばす。
扉を開けつつ。「失礼します」そう唱えて、アドニスは部屋の中へと入った。
中に入って、一番に目に付くのは大きなローテーブルだ。
鮮やかな細工のされた豪奢なテーブルと、柔らかそうなソファ。それが真ん中にあって。
壁際には、これまた豪奢なアンティークキャビネット。その中には高級そうなカップがズラリと並び。
その更に隣のトロフィーが並ぶガラスケース。
ローテーブルを挟んだ奥。大きなテラスに出られる窓ガラスの前には、これまた豪奢な執務用のテーブルが置いてあり、エグゼクティブチェアー……――所謂社長椅子がある。
その椅子に、上司であるマリオは深々と座っていた。
年のころは40半ば。くすんだ金髪の、ぎょろりとした魚のような目を持つ、180㎝ほどの高身長の細身の男である。
その姿はサンマみたいだ。サンマ。
「アドニス!」
マリオの視界に入るなり、彼はがなり立てるような怒号を貰う。その細い身体の何所から声が出るのか。
アドニスは扉を閉めると、そのまま、後ろ手に組んで立ち止まった。
ずかずかと、マリオが歩いてくるのが分かる。
ほんの僅かな時間、マリオはアドニスの前に立ちふさがる。
アドニスは、これからの先の事を想定し、静かに目を閉じた。
「貴様!どういう料簡だ!仕事をほっぽり出して、帰るなんて!!」
――ほら、来た。
アドニスは無言だ。無言のまま、聞き流す。
マリオは不機嫌なままに怒鳴りまくっていた。
いつもは、エージェント達の仕事ぶりを褒めちぎるくせに。自身に少しでも害が出ると、取り敢えず、問題を起こした相手をがなり立てる。この男の悪い癖だ。
因みに何故アドニスが怒られているのか一応、簡単に説明すると。
先ほどの銀髪と金髪に睨まれた、怖かった。――終了。
実に、くだらない事だ。
いや、もっと正確に言えば。昨晩、連絡をしなかった事に対しても怒っているのだが。
アドニスは息を付く。今日で何度目だろう。
マリオの一方的な戯言を終わるまで待ってから、口を開いた。
「――……お言葉ですが。『ゲーム』の一件に関しては皇帝陛下から俺に一任されています。関係ない貴方に報告する義務はありません」
「なあ…!」
「貴方の命令は数日前に終わらせました。『バーバルが教祖を務める教団の壊滅』コレに従ったぐらいで調子に乗り過ぎでは」
――上司に対してとは思えない。言葉遣い。
だが、この男に対しては、ここまで言わないと付け上がるのだ。――……正確に記せば、「この男」ではなく、この『組織』の「上官」と言う立場に収まる連中全員を指すのだが。
この暗殺組織のトップになる連中は挙って、付け上がる。
最初は大人しく、へこへこ頭を下げているくせに。『組織』の人間を下に見るやいなや、豹変。
『組織』の人間は全員自分の言う事を聞く駒だ。『組織』のトップの自分は凄い。
そう馬鹿みたいに勘違いして。最後は「不敬」の一言で、部下に殺される。
下級貴族出身のボンボン。例えばマリオ。彼はアドニスが知る限り20番目の上司と言えば、理解できるか。
彼らは知らないのだ。自分達が名目上、造られただけの人形でしかない事が。
『組織』のエージェントより存在価値が低い事。
「不敬」の一言で、エージェントに殺される危険性を持つことを。
マリオには残念だが、この『組織』にはそういう人間がいると言う事。
彼自体、気が付いていないと言うのが、更に哀れと言う。
そもそも。噂では、もう面倒だから、次の「上官」はエージェントの中から選ぼうなんて皇帝は、お考えらしい。
今度は、誰が殺すか……なんて話が、組織内でちらほら上がっている。
一応言っておくが、アドニスは殺らない。殺す程の興味をこの男に抱いていない。
でも、親しくするつもりは無いし、目上の相手と思う気も無い。無駄だから。
と、まあ。長々と説明したが、マリオの説教を流しただけである。
「聞いているかアドニス、お前、僕になんて口を聞いてくるんだ!!」
そんなことなど露知らず、マリオは更にがなり立てる。
この男、意外と長くもったな。等と思いながら、アドニスは相変わらず無言。
仕方が無いと、マリオを見た。
「申し訳ありませんでした。聞いてますよ。次からは気を付けますから」
聞いてなかったので、取り敢えず。何時もの言葉を並べておく。
マリオは少年の態度に、頭に血が上ったようで、大きな目玉を更に大きくさせた。
「そう思っているのなら、ちゃんと態度に出せ!僕は貴様の上司だ!僕の命令は絶対だろう!」
つまり、もっと敬えと。しかも態々「上司」と「僕」を強調してきた。
エージェント達を「駒」に見ているのがあからさま。それ以上に自分は、皇帝より偉いとでも言いたいのか。呆れかえる。
仕方が無いと、アドニスは口を開く。
「――……そうですか、でしたら。貴方も『ゲーム』に立候補されては如何ですか?参加権は余りがでましたし、申し込めば参加できると思いますよ」
「…………へ?」
思いもしていなかったのだろう。
アドニスの前で、マリオは酷く間抜けた声を出した。
そんな彼の前で、無表情のままにアドニスは首を傾げる。
「違いましたか?――……皇帝直属である、我々が貴方の『部下』で、なんでも言う事を聞く犬とでも考えているのでしょう?我々が居れば皇帝にも勝てる。そう考えているのでは?」
この言葉にマリオは何も言わない。
呆然としているだけだ。
ただ、僅かに表情に「僕になら出来るかも」……なんて、馬鹿げた色合いを露わにし始めたが。
――……これは忠告であったのに、溜息。
仕方が無く、最後の言葉を叩きつけてやる。
「――……言っておきますが、貴方が『ゲーム』に名乗りを上げた瞬間に、俺の対象となりますので。ああ、ご心配なさらずに。俺を含め、エージェント達は貴方の後釜に座った人物の元で働きますから」
薄ら笑いを浮かべていた、マリオの表情が見る見ると青ざめたモノへと変わっていった。
彼のギョロリとした目が、アドニスを見る。少年の表情は「無」そのもの。冗談なんて微塵も無い。
――……流石に、この忠告は届いた様である。
目の前のサンマは青ざめたまま、張り付けたような笑みに変わっていった。
「じょ、冗談はやめなさいアドニス……。ぼ、僕が大義ある皇帝陛下に逆らうはず、な、無いだろう?」
――……だから、今の会話は、聞かなかった事しよう。――と。
目に見えて分かるほど、震える手で、アドニスの肩に触れて来た。
ここで、ようやくと、アドニスは口元に笑み。心底、小馬鹿にする物だったけれど。マリオに向けるのだ。
「では、その忠義は忘れないように。コレからも、皇帝の犬である我々にご指導お願いします。上官――……」
遂に、マリオは何も言わなくなった。
硬直したまま、動かない。
アドニスはまだ自分の肩を掴む手を振り払って、息を付く。
「もう、話は終わりですね」
顔を無表情な物へと戻し、クルリと背を向ける。
ドアノブに手を伸ばす。
――……ああ、無駄な時間だった。なんて飽き飽きしながら。
「――……っ!?」
その、外の異変に漸く気が付くのだ。




