112話『九の王』2
「ちぇ!やっぱり駄目かぁ」
まるで子供が悪戯を失敗したかのような声がする。
ニコニコ笑いながらナイフを構える女の姿が目に入った。
アドニスは次にシーアに視線を飛ばす。
ナイフを受け止めた細い手には相変わらず傷は一ミリとしてない。
銃弾を受け止めた女だ。――それ以上を受け止めて平然とする女だ。コレは当然。
だが、アドニスは僅かに彼女の異変に気が付く。
「――」
美しい顔が僅かに歪んでいる。
額と頬に汗を流しニタリと笑う口元は僅かに下がっている。
眉は寄せられ小さくも吐息が零れだす。
これで妙と思わない相方は居ないだろう。
「ヒュプノス?」
小声で彼女の名を呼んだ。
その言葉の節々には「どうした」その言葉が含まれていた。
たがシーアはニタリと笑う。視線は此方に飛ばさないまま、アドニスの前に立つとレベッカを睨む。
「別に、何てことないさ。――それより今はこの女だろう?」
笑いながら遠回しに集中する様にと促される。
ソレは分かっている。気が付いている。
いまシーアを挟んで向こうに佇む女。あの女は危険だ。
少なくとも今まで対峙して来た人物の中では一、二を争う程に。
それはたった今女の動きを見たからこそ。
今まで気が付かなかったほどに殺気の隠し方が異様に上手く。
動きも『三の王』は足元にも及ばず。動きだけを見るに、きっとナイフの使い方だけであれば『十の王』をも軽々と超えている。少なくとも手を焼いた『二の王』よりは遥かに強いだろう。
それが分かるほどの一撃を先程の彼女は放っていた。
はと、そこで理解する。
これは予想でしかないが。
「下がれるか!向かってくる前に追うぞ!」
シーアに声を掛けてからアドニスは地面を蹴った。
一瞬にしてその身体は教会から飛び出る。
その黒い眼に映るのはレベッカただ一人。
ニマリと笑って、確かに自身を映す一人の女の姿だけ。
カンっ――!
火花と共に金属音が鳴った。
目の前に此方を睨む金色の瞳が移る。恐ろしい程に真っすぐに何処までも純粋で無垢な色合いで、それでも真っ白な殺気を纏わせた瞳だ。
レベッカが、口が裂けんばかりに口角を吊り上げ笑う。
「ああ、やっぱり君は追って来るんだぁ。弱っている方から倒そうと思ったけど上手くいかないなあ」
「なにを、言っている?」
笑いながらレベッカは言う。
そんな言葉を聞きながらアドニスの頭は困惑していた。
アドニスは今、その首を本気で切ろうと一発を放ったのだ。それをレベッカと言う女はナイフ一本。それも片腕で受け止めた。そればかりか余裕と言わんばかりに笑っている。こんな事あってたまるモノか。
それに、弱っている方を狙った、だと――?
思わずシーアに視線を飛ばす。
右横腹を抑えて身体を僅かに丸める彼女の姿を。
その姿を見て思いだす。そうだ、彼女は当たり前のように平然としているが、彼女の脇腹には自分が王はずだった大きな傷が刻まれているのだ。痛くない訳がない。ダメージがない訳が無い。平気な訳がない――。
「し――」
「よそ見してる暇ないでしょ!」
思わずと彼女に気を取られているとき、目の前から声とナイフを振る音がする。
ナイフを伝い身体に感じていた重みが消え、慌てて視線を移すとナイフを振り上げるレベッカの姿が目に入った。
――速い。
一瞬この言葉が過ぎった。
だが刹那だ。アドニスは素早く体制を変え、再び金属音が響く。
黒いナイフを伝い銀色の小さなナイフの重みがひしひしと体中に広がる。
小柄な、それも女の力とは思えない威力と速さ。
僅かに眉を顰めてアドニスは力を込めて一気に押し返す。
「おっと……」
レベッカは後ろに飛び退き、身体はぐらりと傾いた。
追い打ちだ。ナイフを振り上げアドニスは跳び掛かった。
狙うは首――。
軽く撥ね飛ばすだけで良い。
そのはずだったのに。
――三度目。
金属の音が響く。
これにはアドニスはきつく眉を顰めるしかない。
かちかち音を鳴らしながら黒と小柄なナイフが鍔迫り合う。
目の前の翠の女はニマリと赤い口で笑い。黒の眼には映った金色の瞳に微かに狂気が混じるのが見える。
思わずとゾクりと背筋に寒気が奔った。
なんだ、この女は――?
疑問。
なんだ、この寒気は――?
恐怖。
なんだ、この威力は。
理解不能。
何故この女は、どうやってこの女は、何処からこの女は?
――アドニスと同じ威力を出せる?
信じられないモノを見た。
実に理解も出来ないモノだった。
目の前の女は、アドニスの一撃をいとも簡単に受け止めたのだ。
『組織』の中ではもう誰一人も、この一撃を受け止めることも出来ず。一般人からすれば蟻と人間の差ほどもある一撃を、だ。こうも簡単に受け止めるなんて――。
「くそ!」
一瞬、頭をシーアの顔が過ぎる。
体制を変え、その胴体に向けて足を廻し振り下ろす。
「おっと……」
「――!?」
その動きですら、レベッカと言う女には意味も無い行動だった。
金色の眼がぐるりと当たり前に足の動きを見定め、レベッカは地を蹴り上げ後ろに飛び下がった。
足先が彼女の纏うチャイナドレスを掠り、布の一部が敗れた。だがそれだけ。致命傷には及ばない処じゃない。
目の前でレベッカは地面に手を付き、しゃがみ込む形でニマリと笑いながら此方を見据えていた。
笑い方は違う。容姿も劣りに劣る。だが、一瞬再びシーアと重なったのは何故か。――違う。
彼女はシーアじゃない。だが、この見覚えのある動きはなんだ。
理解が出来ない疑問が頭から溢れ、理解が出来ず、アドニスは逃げるように後ろに飛び退いた。
「逃がさなぁい……!」
「っ――くそ!」
それを、その隙をレベッカが許すことも無い。
後ろに飛び退いたアドニスを、レベッカは当たり前のように追って来たのだから。
それも目で追うのがやっとのレベルの速さで、モノの一瞬でアドニスの目の前まで跳びやって来て。
大きくナイフを振り上げる姿が目に入る。
受け止めるのは面倒だ。
アドニスは空いた手で、振り下ろされる前にレベッカの腕を受け止めた。
この腕は邪魔だ。一瞬の迷いもない。一気に力を籠める。
――ゴキリ。
鈍い音が響く。
これならどうだと僅かに笑み。ただ、それも僅かな間だ。
黒い眼は目の前の女の姿を見て顔を見て、思わずと息を呑んだ。
「お前、なんで――?」
骨が折れているのだぞ。
思い切り、肉と肌を突き破り血が滴り骨が飛び出るほどに。
それなのに、なぜこの女は。
「――ふふ、ふふ。あはっははは!」
――笑っていられる?
金色の眼には変わらず狂気が混じる。
変な方向に曲がったまま、それでも絶対に握るナイフは手放したりもしない。
「さっすがぁ!」
腕を掴む手、僅かに力が緩んだ。
掴まれた腕をレベッカはいとも簡単に振りほどく。
後ろに飛び退き、彼女はアドニスから距離を取る。
その幅2メートルほどか。
真っすぐに此方を見据えたまま、女はニマリと笑いボッキリと折れた腕を見せつけた。
「いたいなぁ」
けらけらり。痛いなんて言いながら、その口調は平然としたものだ。
それどころか折れた腕を掴んでレベッカは反対に引っ張った。
血が音を立てて溢れ出し、避けた肉がぶくりと膨れ上がる。
凡人なら目を覆いたくなる光景。
「――な……?」
だがそれ以上にアドニスの目の前で信じられない光景が広がった。
へし折ったレベッカの腕。
千切れんばかりに垂れ下がった腕。
それが目の前で大きく変形していく。
ボッキリと二本に折れた腕は繋ぎ合わせ罅一つなく付き。
引き裂いた肉は神経が伸びたかのように、粘土でもくっ付けたかのように細胞と肉体が縫合。
避けた肌は嘘のように傷一つなく。手の先を開いて握る。レベッカはニマリと笑う。
そこにあったのは嘘のように元に戻った彼女の腕が存在していた。
それはアドニスですら流石に唖然とする光景。
信じられない光景。
いや、あり得る可能性であっても流石にこんな瞬時にはアドニスでも治らない。
細胞が、神経があんなに簡単に再生できるなんて、『限界』なんて物じゃない。こんな物、人の技じゃない。
「なんだ、お前は?」
「何ってなんだろうね?」
思わず問えば、レベッカはニマリと笑ったまま何事も無かったかのように直った腕を振る。
その腕にはもう傷と呼べるものは微塵も無かった。
「ふん」
その光景を見てか、後ろから声がする。
振り向けばドアの側、シーアが酷く青白い顔で忌々しそうに此方を見据えていた。
彼女の視線の先には勿論レベッカ。彼女の回復した腕を見て立て続けに口を開く。
「この世界の“人”とは実に悍ましい。――ここまでやるのか」
酷くつらそうな顔色のまま、がたりとドアに寄り掛かった。
先ほどからシーアの状態が異様に可笑しい。
右脇腹を抱え額からは冷や汗がたらたらと伝い落ちている。
まさかと思った。――そこまで傷が痛むのか。彼女が?
理解できない事が立て続けに起き、アドニスは眉を顰めるしか出来ない。
その隙をレベッカは付いた。
一気に地面を蹴り上げて女はシーアの元に一気に駆け寄る。
ナイフを振り上げドアに寄り掛かる彼女の頭にめがけて振り下ろす。
本当に隙を付かれた瞬間だった。
走っても間に合わない。それでも必死に地面を蹴り上げアドニスは駆けよる。
彼女にこれ以上の傷は付けたくない――。
「なめないで欲しいな……」
レベッカのナイフが頭に突き刺さる直前。
シーアはその赤い瞳でレベッカを睨み上げ、弱々しくも言葉を零す。
その刺青が刻まれた細い背からは黒々しい手が現れた。
「うぎゃ!」
大きな手は伸び、レベッカの首を掴み上げ一気に地面に叩きつける。
途端彼女の口からは潰れたカエルの様な声が漏れ、しかし直ぐに体制を変えて飛び退く。
瞬く間にレベッカはシーアから距離を取り、後ろから黒いナイフを握って襲い掛かってくるアドニスの一撃を紙一重で避けて更に飛び退いた。レベッカの腕に僅かな傷が出来る。それもほんの一瞬だが。気にしていられない。アドニスは今にも倒れ落ちそうなシーアを抱きとめて、一旦協会の中へと戻った。
「シーア!」
思わずと声を掛け、抱き上げて長椅子の上に寝かせる。
「……そんなことしなくて良い。いまは彼女を気にかけていろ」
その最中、弱々しくも耳元でシーアが言った。
赤い瞳が忌々しそうに視線を扉の向こうへと送る。
見なくても分かった。
後ろに人の気配。今までなかった鋭い殺気が醸し出されている。
「へぇ、その子。君、大事にしてるんだねぇ」
ケラケラ笑う。
アドニスはナイフを握りしめて一気に振り返った。
目前に金瞳の女が迫り来て、金属音が響く。
やはり女とは思えない程、重い一撃。
その上、この動きも全て知っている様な。
「くく、あはははは!」
レベッカは笑いながら追撃を加えた。
ナイフを何度も何度もアドニスの急所を狙って振り下ろす。
異様に早くて、強靭な打撃。
アドニスはその猛攻を何とか受け止めては流しつつ、シーアを守る体制を続ける。
「――わたしは、いい。どうせその女の攻撃じゃ、傷は付かん……」
背でシーアは弱々しくも呟いた。アドニスを気遣っての事だろう。
それでもアドニスは顔を歪めながらレベッカの攻撃を受け止め続けた。
「くそ!」
忌々しそうにアドニスは舌打ちを零す。
レベッカの一撃は異様に重たくて速い。
人を庇いながら守りに挺するのは産まれて初めてだ。
それを見破ってか、レベッカの一撃はアドニスではなくシーアを狙い始める。
彼女を守りながらナイフを受け止めていたが、予測が出来ない身体に付いていけなくなる。少しずつ、僅かにアドニスの身体には無数の傷がつき始めた。
これを後何分続ければ終わるのか。
体中に細かい傷を受けながら頭で僅かに思った。
ここでシーアを捨てれば、少なくとも反撃は出来るが――。
「少年――」
「黙っていろ!」
たとえシーアの言葉が正しく、その行動も正しくても、頭が拒否して身体も全く動いてくれないのだ。
「なんだ、思っていたよりも弱いなぁ」
重たいナイフの一撃が襲い掛かる。
受け止めて跳ね返した時、レベッカはつまらなさそうに呟いた。瞬間、僅かに攻撃の手が止む。
それはワザと隙を見せたのか。なんだって良い。シーアを抱き上げてアドニスは距離を取る。
教会の奥。寝室に使っている部屋へ。シーアをベッドに寝かせて再び部屋を飛び出た。
部屋を出れば、先程と同じ場所にレベッカは立っている。追ってはこなかったようだ。
倒れて動けなくなった足手まといを邪魔と思ったのか、気まぐれか分からないが、これで少なくとも戦いは易くなったはずだ。ただ反撃はまだ無理だ。ナイフを構えながら思う。
この女を早く外に出さなくては、この部屋から離さなくては。何でも良い彼女を守らなくては。
女がニマリと笑った。
「人を守る奴ってさ。本当に弱いよねぇ」
笑う女の手には黒光りする玉が一つ。
ピンが抜かれたソレが此方に向かって投げられる。
「――!」
投げられたそれが爆弾だと気が付いた時は既に遅い。
それでも顔を歪めて後ろを向く。
身体は勝手に動いていた、元居た部屋に再び飛び込む。
輝かしい程の光が放たれた時、アドニスは大きく手を広げてシーアに覆いかぶさった。
熱風が巻き起こり、全てを壊す。それが、アドニスの感じた最後の感覚だった。