111話『◇の王』1
「少年。しょーねーん!」
教会のベッドの上。ごろごろ転がりながらシーアがアドニスを呼ぶ。
その声は聞こえているが、アドニスは反応しない。
浴室の前でシャツを着ながら険しい顔を浮かばせたまま、チラリとも視線も送らない。
と言うかシャワーを浴びたが良いが、顔の熱と赤みが引かないので顔が見れない。
「少年。少年ってば!」
むしろあんな発言があったと言うのに、良く彼女は普通に接することが出来るものだ。
これ以上はうるさくて仕方が無いのでアドニスは背を向けたまま、声を上げた。
「何だ、うるさい!」
「にゃにさ!自爆しただけのくせに!」
「――」
ぶん殴ってやろうかと思った。
思わずシーアを睨み振り向いた時。
漸く合った赤い瞳がニタリと細くなる。
「お客人だよ」
「――!」
唯の一言でアドニスも表情を変える。
――客人。
それは組織の人間か?いいや。
表情、声色それら全てから察した。
その客人とやらは招かれぬ客の様だ――。
コートを手に取り腕を通す。
「だれだ?」
「ん?うーん」
「……いや、お前に聞いても無駄だったな。お前はどうする?」
再度視線を飛ばす。
「……着いて行った方がいい?」
少し考えアドニスは首を横に振った。
転がっていたシーアは身体を越し、ニタリと笑う。
「そう、だったら着いて行こう♪」
なんて実に天邪鬼に。「よいしょ」となんて声を漏らして側に走り寄る。
怪我の事も相まって来てほしくは無かったが、此処で彼女は引かないだろうと言う事は十分なほどに理解出来た。
それとも腹立たしいが、心配でもしてくれているのだろうか。
少しだけ考えてアドニスはシーアを見据えた。
「分かった。着いて来い」
「助けが欲しくなったら変わらなく合言葉を」
「…………分かった」
最後の言葉は勿論気に食わないが、仕方が無い。結果今自分は此処に居るのだから。
シーアを連れアドニスは部屋を後にする。今度は失敗も油断もしない。自身の感情に流されたりもしない。
腰の黒いナイフをしっかり握って、教会の出口へと向かうのだ。
◆
教会の出口に辿り着く。
その客人とやらは直ぐに見つけた。
なにせ協会の扉を背に、その人物は腰かけ待っていたのだから。
此方に気が付いた時、目じりに赤いメイクが施された金色の瞳が移り来る。
にへら、なんて口元が裂けたのは全く同時だ。
「あ、こんにちはぁ。まってたんだぁ」
大人の声だと言うのに、妙に子供っぽい口調。大きな胸を誇張する黒と金のチャイナドレス。
小さく手を振りながらにこやかに、此方に向かって走ってくる女の姿を見て静かに眉を顰めた。
名前は憶えている。『九の王』レベッカ――。
彼女が今この場にいて、無邪気に一切の殺気すら纏わず此方に奔り寄って来たのだ。
「止まれ……!」
此方に奔り寄って来る前にナイフを構えて制した。
反対に此方は殺気を纏わせて、睨み見る。
言う事なんて聞く筈も無い――。
そう思っていたが、意外にもレベッカの足はアドニスから3mばかし離れている場所で止まった。
にまにま、顔に似合わず。子供っぽい無邪気な笑みが此方に向けられ金色の瞳にアドニスが移る。
「どぉしたの?」
首を傾げ問い。
「どうした」なんて実に忌々しい。
無邪気に、無垢に、殺気なんて一切纏わず話しかけて来るが。
この女はどうやってこの場を割り出した。今この場に邪気が無いこそ反対に恐怖を感じる。
「ヒュプノス。お前、後を付けられたのか?」
殺気を纏わせたまま、後ろに佇むシーアに問う。
眼を合わせる前に彼女は静かに首を横に振った。
「私はそんなヘマはしないさ。今回ばかりは断言してあげる。――後は着けられてない」
赤い瞳に嘘は見えない。
彼女がそんなヘマをするとも思えず。
アドニスは再度目の前のレベッカに視線を戻す。
「――!」
視線を戻した時、その違和感は直ぐに気が付いた。
目に映ったレベッカは先程と変わり、此方を覗き込むように前かがみになっている。
音も気配も無く、距離を1mほどに縮めて――。
アドニスは地面を蹴り上げレベッカから距離を取った。
シーアだけが距離を取らずに真っすぐとレベッカを見据える。
結果、シーアを挟んで2人が相対する形となったが。
赤い瞳が細くなる。
表情は何時もと変わらない。ニタリと微笑んで。
しかし、その色の無い瞳には確かな殺気を籠めて。
一瞬だ。違和感が過ぎったのは何故か。
白い頬に汗が流れたのは気のせいなのだろうか――?
なんにせよ。
アドニスは視線を戻し、2mほど先にいるレベッカに戻す。
「もう一度聞く。お前は何故此処に居る?」
再度問い。
今度こそ僅かにも油断はしない。
此方に戻って来いと言う視線を一度シーアに送りながらレベッカに問い続ける。
「どうやってここを割り出した?」
今一番気になっている問い。
目の前に居た少女は身体を上げ、小さく首を傾げた。
「そこ、そんなに問題なのぉ?」
無邪気に心からと言わんばかりな応え。
だからこそなのか、得体のしれない不気味な雰囲気が醸し出ている。
何故か?当たり前だ。
この『ゲーム』の最中、アドニスの前で平然としている。それが唯の羊だと呼べるか?
全くの邪気を纏うことなくニコヤカに微笑む獲物が何処にいる。
少なくともこの女。
レベッカ。
そう呼ばれるこの女は、異常だ――。
「少年――」
「――!」
シーアに呼ばれ、僅かに顔を上げる。
だが彼女は直ぐに首を横に振った。
ちらりと此方を見据え、右腰に手を添えたまま赤い瞳に此方を映して。
眉を僅かに顰め、まるで気を取られるなと叱り飛ばすかのように。
「いいかい。何が起こっても気を取られるな」
「――」
――なにを?
そう声に出す直前の事だった。
その違和感が爆発したのは。
表すならまるで風船が破裂したかのような。
はっと我に返りアドニスは顔を上げた。
眼にレベッカが移る。
ニマリと笑った、まるで子供が玩具で遊ぶかのような満面の笑み。
金色の瞳に鋭い殺気を滾らせて、銀色のナイフを振り上げる女の姿が――。
直ぐに本性を現したのだと察しが付いた。
シーアに言われる間もなく気を抜かせるなんて間抜けはしない。
襲い掛かってくる女に向け、黒いナイフを振り上げるためにきつく握り直した。
「――ふん」
「ありゃあ?」
「――!?」
だが、女のナイフがアドニスに届くことは僅かにも無かった。
目の前で黒と緑が舞う。銀色の切っ先が奔るその中で、赤い瞳は静かに目の前の女を睨みつけていた。
色の無い瞳でしっかりと目の前のレベッカを睨み上げ、ニタリ。口元に笑みを浮かばせる。
「ふーん。やっぱり私に来たか。君の殺気、私にだけ送られていた物ね」
「――な!」
にまり、笑う黄緑の女にシーアは言葉を贈った。
彼女が振り下ろしたナイフを片手で掴み上げ、ニタリと笑って。
アドニスは思わずと驚きの声を上げる。
当たり前か。何せレベッカはアドニスではなくシーアに攻撃を仕掛けたのだ。
それも躊躇もなく、鮮やかに。それも今の言葉から察するにアドニスにすら分からなかった鋭く膨大な殺気をシーアにだけ送って。
これまでのシーアの様子に察しが付いて、アドニスは唇を噛みしめた。
――気が付かなかった。
シーアの異変、レベッカと言う女の異常差には気が付いていたが。
レベッカと言う女の殺気には僅かにも。身に纏っている事すら気が付かなかった。
普通は気が付く筈だ。自分に向けて送られている物じゃないとしても。アドニスは暗殺者として育ってきたのだから、暗殺者としてのいろはは全て叩き込んだのだ。だから僅かな殺気でも気が付けた筈なのに――。何故?
その疑問の答えに気が付く前に、目の前でレベッカが後ろに飛び退く。
軽く後ろに弾く様に跳んだだけで、その緑の女は教会の外まで出た。
音を立てながら片手を地面に付き滑り止めて。再度ナイフを握りしめて此方を睨み見る。
ニマリ。今度は避けんばかりの笑みをその整った顔に浮かべた。