105話『三の王』6
かつん。
足音が響くたびに後ろで血しぶきが上がる。
かつん。
ふわふわ、黒い髪を優雅に舞わせて彼女が歩み寄る。
かつん。
ルビーの口元に小さな笑みを浮かべて。
かつん。
村人たちはその美しさに呆然と唖然と見送る事しか出来ず、見送ったが最後、頭が吹き飛んでしぶきと変わる。
かつん……と。
異常に気が付いて逃げ出そうとしても、もう遅い。
はじけ飛んで潰されて、いとも簡単に殺されてしまうのだ。
「やあ、遅くなってすまない」
ニタリ。
何時ものように笑って、血しぶきを紙吹雪の様に彼女は現れた。
赤い瞳、黒くて艶やかな髪。
しかしその肌に血の汚れは一滴も付きはしない。
その情景を見ながらアドニスは唇を噛みしめ。
アレクシスは目を輝かせて彼女を敬い見る。
いつでも綺麗な彼女を見て心から思った。
ああ、何が遅くなってすまない――だ。
「ヒュプノス!こっちには来るなと言ったはずだ!」
苛立ちを儘に口にする。
それに、あたりを見渡し唇を噛む。
こうも派手に登場してくるとは誰が思えようか。
そんなアドニスの事など知って知らず。
シーアはニタリと笑いやれやれと言わんばかりに手を上げた。
「そう言われても、コレが一番だと思ったんだけど」
「――はぁ!?」
どこか呆れるような言葉遣い。
思わずとアドニスは口を声を漏らした。
確かに、確かに彼女には命を下していた。
アレクシスの願いを叶えるなと言う命令だ。
ならばどうしてコレが、今この状況が一番と言う事になるのか。
そもそも今こうして姿を現す事こそが愚策。命令違反と言う奴じゃないのか?
アレクシスはシーアを求めていたのだから。
だからこそ腹立たしくなるのだ。
「何が一番だ!こんなところに出てこないのが正解だろう!こいつの願いはお前に合う事なんだろ!」
「ま、そうらしいけど……」
答えを振り絞ってもシーアは的を得ない声を出す。
その様子にアドニスはライフルを下げ、苛立った感情のままに彼女の側に寄り、忌々しくその細腕を掴み上げた。
「だったら今すぐこの場から――」
「ああ、ああ!神よ!来て下さったのですね!」
「くそ」
だがしかし、アドニスの言葉などもう遅い。
シーアに掴みかかったと同時に恍惚の声を上げる。
振り向けば、アレクシスが地面を這いながら此方に近づいて来ていた。
辺りはシーアのおかげで血の海だ。しかしそんなの関係ないと言わんばかりにズルリ、ズルリ、音を立てて這いずり寄ってくる。今まで抱きとめていた男など今はもう興味など無いと言わんばかりに地に捨てて。黄色の目がシーアとアドニス――。いや、シーアを映す。
「神様……。ああ、神様!」
涎を垂らしながらアレクシスはシーアに手を差し伸べて来た。
汚らしくやはり気色の悪い姿だ。彼女を庇う様にアドニスは前に立ちふさがる。
そんな少年すらアレクシスには見えていないようであったが。
「ヒュプノス。下がっていろ。姿を隠せ」
「……ソレは無理だね」
再びシーアに命令を出すが返って来たのは拒絶。
酷くイラつくのだが、怒りをぐっと我慢してシーアを睨む。
「命令を無視するのか!――言っただろう?この男が望んだことは何もするな!今コイツの前に姿を現すのが命令違反だ!気が付かなかったのか!」
「でも君の本当の願いってやつは、私にこの男の心をバキバキに折ってほしい――そうじゃないのかい?」
「――は!?」
◆
アドニスとシーアの間に静寂が広がる。
まじまじと此方を見つめる赤い瞳が、アドニスに興味を示さない瞳が少年を映す。
何故、それを?理解出来たのか?
彼女の口にした言葉はどうしようもなくアドニスの本心だったからこそ、驚きが隠せない。
「お前心を――」
「君のは読んでいない。顔に出ていただけだ」
心を読んだのか?そう問おうとすればその前に答えが変えて来た。
顔に出ていた、だと?理解が追い付かず、思わずと首を傾げる。
「なんだ。気が付いていなかったのかい?」
そんなアドニスにシーアは小さく笑む。
揶揄う様にニマリと、幼子を慈しむように、心から小馬鹿にするように。
「その感情は何とも顔に出やすいんだ。君はさ、この”なよなよ君”に一泡吹かせたくなったんだろ?何があったかなんて知らないけど。君はさ、私の件で彼にイラついたんだろ?だから、この男の心を、私への幻想とやらを粉々に打ち砕きたくなった」
なんて。
――ああ、その通りだ。
心で思う。
ずきりとした痛みを感じた胸を抑え、アドニスは俯く。
そうだ。
自分はアレクシスと言う男に苛立ちを感じたのだ。
苛立って、この男の幻想を粉々に砕きたくなったのだ。
でもそれは何故?疑問が頭に出てくる。
呆然と佇む。
そんなアドニスの様子にシーアはクスリと笑った。
「何故かは考えておくと言い。実に下らない事だから」
そう付け加えて。
シーアの視線がアレクシスに注がれたのは同時の事。
赤い瞳がアドニスから離れて、黄色の目に向けられる。
その姿はまるでアドニスに興味も無くなったかのように――。
するりとアドニスの横を通り過ぎるとシーアはアレクシスの前へと佇む。
「それで、坊や。君は私に何を望んでいるの?」
ニタリ。此方の気持ちも知らないままにシーアは笑いながら問いただす。
這いつくばる男を見ながら酷く楽しそうに。――それでも興味も無いと言う瞳で。
「くくく……。あは、あはははははは!!」
そんなシーアを前にして大きく声を高らかにアレクシスも声を出して笑った。
片腕で腹を抱え、嬉しそうに、楽しそうに。
黄色の瞳が辺りを見渡す。目に映るのは血の海だ。
辺りに四肢が、頭が転がり、生きている物は一人としていない。
みんな死んだ。今度こそ。全員。
大いに笑って、時間がピタリと止まったように行き成り笑い声は止む。
「何を願う?――もう十分です。叶いました」
だがその声色には喜びがひしひしと詰まる。
そこ言動に、様子に、アドニスは僅かに我に返り首を傾げた。
今なんと言った?もう叶った?再び腹立たしさが溢れ出す。
思わずと舌打ちを繰り出し、男を睨む。
「叶った……だと?それはこいつが姿を現したからか?」
忌々しそうに同じようにシーアを睨み。やはり命令違反だと非難を浴びせる。
だが、シーアは酷く無表情でアレクシスを見下ろしていた。
ちらりともアドニスを見ようともしない。ソレが更に腹立たしい。
だから、その怒りの感情のままにもう一発、アレクシスに弾をくれてやろうとライフルを構えた。構えた時だった。
アレクシスの黄色の瞳が色を宿したのは。
それは先程と同じ。狂った色合いの瞳。
いや、それ以上のモノ。
無邪気に、純粋に、幼子の様に。
小さく首を傾げて、首を横に振りながら、シーアを恍惚に見上げる。
「だって、みんな殺してくれましたから」
それこそが至高と言わんばかりに心からの賛美の笑みを浮かべて。
◆
一瞬、この男の言っている意味が分からなかった。
言っていることは『八の王』と良く似ている。
だが『八の王』の様な澄んだしかし黒々とした復讐心が彼には無い。
ただ純粋に心から今の状況を喜んでいる様なそんな言葉。
その様子は狂っているとしか言えず、得体のしれない狂気しか見えない。
愕然としているとアレクシスが腕を伸ばす。
血まみれの手がシーアの足に伸び、彼女を汚す。
アドニスが苛立ちを覚える前に彼は笑いながら口を開いた。
「ありがとう!ありがとう神様!みんな、コレで皆幸せです!こんな世界で”神様”に殺されて皆幸せです――!」
涙を流しながら笑って。
何度も感謝の言葉を口にする。何度も頭を下げて言葉を発する。
その中でシーアだけが冷静だった。無言で男を見下ろして笑みも浮かべないままに、しかし呆れた口調で口にする。
「君、狂っていたんだね。何時からだい?何時から狂っていた?」
「いつ……?」
彼女の問いに、アレクシスは首を傾げた。
小さなため息を一つ。赤い瞳がアレクシスを映す。
「君の願いはさ、皆で一緒に殺されることなんだろ?この村の住人全員が、みんなで等しく死ぬ事。死ぬ事こそ幸せだ。死こそが安らぎだ。老若男女関係ない。みんなで手を取り合って、笑顔で死ぬ。――これこそが一番の幸福――。ソレが願いなんでしょ?」
冷静に、無感情に。
辺りが一瞬にして静寂に包まれる。
血なまぐさい風が辺りに吹き荒ぶ中で、アレクシスは笑みを湛えたまま不思議そうに首を傾げた。
「はい!」
ただ大きく頷いて、肯定する。
静かな中でアレクシスはキラキラした目でシーアを見上げる。
「凄いですね貴女は!僕の願いに気が付くなんて!どうして分かったのんですか!?」
「別に。私は君の心を読んだだけさ」
アドニスを置いて行って、2人はさも当然の様に会話する。
一人は恍惚に笑って、1人は無感情のままだからこそ異常さが際立つが。
2人の会話をアドニスは呆然と聞き入っていた。
理解出来なかったからだ。
この男はなんて言った?
死ぬ事こそが幸せ?
皆で死ぬ事こそが願い?
この男が、そう願ったのか?
なよなよ泣くばかりで、1人死ぬだけでわんわん泣き喚いていたこの男が?
村人一人を殺しただけでアドニスを「人殺し」と呼んだこの男が?
彼の言動と願いがまったく一致しなくて、理解出来なくて唖然とする。
「でも、僕の願いが定まったのは遂、一昨日の事なんです!」
アドニスの存在など見えていないかのようにアレクシスは続けた。
シーアの足に頬ずりをして、笑顔で理解も出来ない言葉を話す。
「一昨日、貴方が村人の皆を、僕の信者を生き返らせたときに、ああやっと表れてんだと思ったんです!」
彼の言葉を聞きながら、頭の隅で漠然と理解も出来なく考える。
昨日態々彼女を引き合いに出して、シーアを此処に引き出す事までの事をこの男は考えていた。
元からこの男の狙いは自分との戦いではなく、彼女と言う存在だったのは嫌でも理解できる。自分はソレに利用されただけの事。何故、彼はシーアに此処まで執着するのか?
こんな人に興味すら抱けない存在に何を求めるのか?
理解できずに呆然としたまま事の成り行きを見守る。
いや、思わずと口に出ていた。気持ち悪いこの男に、理解できないこの男に。
「何故其処までこいつに執着する?」
アドニスの問いにアレクシスが此方を見て首を傾げた。
此方の発言を全く理解できていない顔だ。アドニスは続ける。
「こんな女の何所に執着する?何を求める?」
「だから殺して貰う事です!」
問えばまた理解できない事を言う。
「お前は俺が男を殺すだけで人殺しと喚いていたじゃないか。なのに、皆殺して貰う事が願いだと?矛盾している。なんだお前は、気持ち悪い」
正直に心を吐露する。
それでもアレクシスは自分こそ理解できないと言わんばかりに首を傾げる。
「違います。等しく”神様”に殺して貰う事が僕の願いです!」
「だから――」
何を?
その言葉は出てこない。
こいつは自分の矛盾に気が付いてないのか?
そう思えて来て言葉がつっかえて出てこない。
この男はこんなに気持ち悪い奴だったのか?
理解出来なくて眉を顰める。
そもそもシーアを見る目が相変わらず気持ち悪いのだ。
なぜそんな目で彼女を見る。見る事が出来る?彼女を讃える。讃える事が出来る?
だって彼女は――。
「何が神様だ。こいつは、コイツは人に興味を抱けない化け物だぞ!」
声を張り上げて彼の考えの全てを否定する。
自分らしくも無く肩で息をして、大声を振り上げて。
胸のモヤモヤに気が付かないまま。彼女の瞳の真意に気が付かないまま。
「く、あは。あはははははははははははははは!!」
そんなアドニスをあざける様にアレクシスは笑った。
何処にそんな力が隠されていたのか?そう思える程に腹の底から笑った。
あまりの事に後退れば、彼は声を張り上げて言う。
「興味ない?興味ないだって!?違う!全然違う!」
大きく笑いながらアドニスの言葉の全てを否定する。
暫く笑って、再び黄色の目がシーアを見据えた。
恍惚に浸った瞳で、遠い存在に恋い焦がれる人の目で、赤い瞳に必死に手を伸ばす。
「――。彼女はただ、”平等”なだけですよ。誰にでも、何にでも、彼女は”神様”だから。分け隔てなく、誰に対しても何処までも、”平等”なんです――」
◆
『平等』
その言葉が嫌に頭がはっきり残った。
何か空いていた隙間にストンと今までの謎が嵌まったような、そんな感覚。
呆然と佇む中で、目の前でアレクシスの手は宙を切るかのようにきつく握り閉められた。
うっとりと変わらない視線にシーアを映したまま言葉を発し続ける。
「本当に美しい瞳だ。初めて見た時から、生き返らせた人間を見るあなたの瞳を見た時から恋い焦がれていた。貴女は平等だ。何処までも平等だ。美しい瞳で、分け隔てなくモノを見ている!ああ、これが【神様】以外の何がありましょうか!」
声を高らかにアレクシスは言い続ける
『平等』『平等』『平等』
いやにしっくりくる言葉がアドニスの胸を指す。
頭に浮かぶのはシーアの瞳。何処までも興味が無い。他人に興味を示さない赤い瞳。
そう思っていが、ああ、そうだ違ったのだ。
だたそんな感情だけが胸を埋め尽くし、どす黒い感情が少年を包み込む。
そんな彼を無視しアレクシスは続けた。
「貴女にとって、人間も家畜も、其処ら辺の植物も同じなのでしょう?みんな同じ存在。蟻と大して変わらない。貴方は皆をそう見ているのでしょう?だから簡単に人を生き返らせる事が出来た。気まぐれと言う言葉でいとも簡単に。自分の信条に従って、ほんの一部だけを。本当は皆等しく生き返らせるのに」
「……」
赤い瞳が僅かに細くなる。
そんな色合いからもシーアが今何を感じ取り、何を思っているのかは分からない。
人を生き返らせた。そんなもの彼女の気まぐれでしか無いと思っていたのに。
ただ。アドニスは思ってしまった。
ああ、そうか。その通りだ……と。
アレクシスの言うと入りだ。
彼女は、人に興味が無い。
違う。人に興味が無いんじゃない。
シーアは何処までも誰に対してでも『平等』なのだ。
それも蟻なんて大層なモノじゃない。
みんな等しく、その辺の”石ころ”と同じなのだ――。
アレクシスは続ける。
「いえいえ、いいのです。それでいいのです。”神様”はそうやって気まぐれでなくては。気まぐれで等しい存在でなくては。等しく人に幸せと不幸を与え無くなては」
恍惚の表情が今度は忌々し気に変わる。
「この世界の”神”はとち狂ってしまった。人は平等に接しなくてはいけないのに、”神”は皇帝に幸福を与えるばかりで他の物には不幸しか与えない。この不平等がどこが神と言うのか!一人しか愛せない神を、1人にしか感情を露わにできない存在をどうやって”神”と湛えていい物か!」
再び忌々し気な表情から恍惚に変わる。
「ですがあなたは違う。貴方は何処までも気まぐれで平等だ。誰も愛さず。誰も憎まず。誰にも感情を向ける事は無い。熱情を向ける事はしない!どこまでも素晴らしい”神様”だ!――だから僕は人を平等に見ている貴女にこそ、殺されたかった。皆を殺して欲しかった」
一ミリも理解できない事をスラスラとこの男は口にする。
まるでシーアと言う女の全てを知ったかのように。
昔から全てを知っていると言わんばかりに。
アドニスなんてまるで蚊帳の外に追いやる様。
どす黒い感情がアドニスの中に渦巻く。
男の声が煩い。ひどくムカつく。
腹立たしくて堪らなくなるほどにイライラする。
「だからどうか、僕をお救い下さい”神様”!みんなと同じように僕を、早く安らぎの世界に連れて行ってください!貴女のその瞳に見惚れられると言うのなら、これ以上の幸福はない!」
煩い。煩い。煩い。
もう止めろ、止めろ止めろ。
どうしてお前が、なぜおまえが、彼女の全てを知った被った顔で。
其処まで声を高らかに発言できる。
ただ、彼女の瞳の正体に気が付いただけのくせに。
気持ち悪い誰にも理解出来ない思想を持つだけの異常者のくせに。
そんな二人の男を赤い瞳はただ黙って見降ろす。
なんも言う事は無い。笑う事も、鬱陶しがることも。哀れみを抱く事も。何もない。
何処までも何処までも、只管に興味も無い”平等”な視線で此方を見降ろす――。
「あは、あははははははははははは!」
再びアレクシスが声を高らかに笑い声を上げた。
血を吐き出しながらそれでも大きく笑う。
笑って、笑って、笑って、血走った目でアドニスを見る。
「やっぱりさっきのは嘘だったんですね!」
「――。は?」
理解が追い付かず、思わず間の抜けた声を漏らす。
アレクシスはそんなアドニスにお構いなし。
「彼女が僕を嫌っているって話ですよ!」
ああ、そう言えば、そんな話をした気がする。
だが、だから何だと言うのだ。その言葉が喉につっかえて出てこない。
だからアレクシスは続けて言う。
「誰にも平等に彼女は人を見ているのだから!彼女が僕を嫌う事なんて事は無い!だって彼女にはそんな感情無いのだから!誰か一人に感情を向けるなんて事は無いのだから!――ああ、お前は本当にこの”神”を全く理解できていない――!!!」
頭の中で男の声だけが響く。
地鳴りの様に闇が覆いかぶさってくる。
まるで彼女の全てを知っていると言わんばかりに。
自分より彼女を愛していると言わんばかりに。
ああ、なんて気持ちが悪いのだろうか――。
頭の中で何かが切れる音がした。